27.臆病と暗闇
——数時間前。
少女は、如月から前々から言われていた大量の小説の整理を、耐えに耐えて数か月越しに始めていた。
ざっと見るに、二十冊ほど積んである本の山が、一山、二山、三山……という具合で、相当な数がある。これも全部入院生活数年間で読んできた本の総数で、今ここにない本も合わせると二百は優に超えると思う。
どれもこれもがすべて思い入れのある本で、嫌いな本なんか一冊もなかった。まあそもそも自分で選んで買うのだから、少し読んで嫌いな本なんか買うわけがないのだが。
それにこの病院はいるかいらないかも分からない設備までもがしっかりと整っていて、そのなかで少女が一番世話になっているのが、部屋の惨状を見て分かる通り書店だ。意外と買う人がいるのか、少女が初めて入院してから今までずっとあるし、年に数回くらい内装は変わるが品ぞろえの良さは一度も変わらない。少女がインターネットで気になった本は大抵置いてある上に毎月新しい本が追加されるので、興味が潰えないのだ。
その書店で買った本の七割方は恋愛小説。特に純愛が多いが、その甘さ具合というかエモさがどれも天元突破していて、読み返すたびに、自分がヒロインでもないのに顔を赤くして手で覆ってしまう。
一回その様子を如月に見られたときは心配されて大事になりかけたが、読んでいた本を如月に渡すと「あー……なるほどねえ」と少女とはまるで違う納得の仕方をして、呼びかけていた医師などを帰してくれた。
てっきりそこで少女の本好きの性格は完全に理解されたのかと思ったのだが……。まさか、捨てるか片付けるかどちらかにしろ、なんて言われるとは思ってもみなかった。
まあ如月の気持ちになれば無理もない。なにせ、歩く場所さえも困るほど置いてあるのだから。
「翔奏さんが躓いたときは、本当に焦ったな……」
先週の木曜日だっただろうか。疲れた様子の翔奏が学校から帰って来たとき、当然少女の部屋は見えていないわけだから翔奏は床に置いてある本の山の一つに足を引っかけてしまい、そのままドミノ倒し方式に他のいくつかの山を崩してしまったのだ。
運よく翔奏が顔面ダイブした場所が少女が座っていたベッドだったため大事故にならずに済んだが、もし床や別の本の山に目から突っ込んでいたとしたら、と考えると怖くなる。そもそも今まで回避し続けていたのが奇跡くらいなのだから、転んで失明、なんて、ない話ではないだろう。
そこから少女は真剣にこの本たちをどうするか考え始め、翔奏がいない今日ようやくそれを実行するに至ったのだ。
「えっとこれは……あ、あの人の小説、こんなところに」
だが実際やってみるとこれまた意外と難しく、すぐに片づけようとしていた小説をその場で読んでしまうのだ。性だから仕方がないと割り切ろうとしていたが、これでは一向に片付けが進まなく、如月にすべて焼却処分される未来しか見えない。
どうにかしてこのループから脱したいのだが、なかなか抜け出す手立てが見つからないのが、今の少女にとって一番の難問だ。
「この展開好きだなあ……え待ってこれ! 懐かしい……うわあ、そう言えばこうだったっけ」
予想通り、片づけ始めてわずか三十分。いつの間にか本を手に取って、その場に座って読んでしまっていた。少女自身はこれに気がついていないため、それがかなりの重症だ。
そんな具合に少女が片づけを放り投げて読書を楽しんでいると、ドアの向こうから凛とした女性の声が聞こえてきた。
「瑞葉ちゃーん、お昼ご飯持ってきたから入るわよ」
「はー……な、奈緒さん⁉ ちょっと待ってくださ」
一瞬普通に返事をしかけたが、少女は今自分が何をしていたのかに気づき、慌てて体裁を整えようとする。
だがすぐにドアが開く音がして、出勤直後なのか、私服を着た如月が入ってくる。
「鵜飼さんから聞いてたけど、瑞葉ちゃん片づけ始めたらしいじゃない。偉い……」
如月が、笑顔のまま固まる。
「…………」
「……瑞葉ちゃん?」
「えっとー、その、これは……」
床に座った瑞葉の姿を見た如月は、この部屋を一瞬で氷河地帯の気温にする。
陽だまりで本を読んでいた少女も、その目は怖くて見れない。
「…………片づけは?」
「え、ええっ、とー……。てへっ」
少女は誤魔化すように、舌を出しながら自分の頭を小突き、ウィンクをする。
いつもは「まったく……」と言って許してくれるのだが。
「瑞葉ちゃん。自分で決めたことを、自分で放り捨ててたの?」
「い、いや、これは違くて、その、本がたくさんあって、栞を、探してて……」
「パラパラ捲ればいいじゃない。なんで一番最初の挿絵のページを開いているの?」
「あー、そ、の……」
少女はついになにもしゃべれなく……否、言い返せなくなり、俯く。
そうして、久しぶりに如月の怒号が響くのか——。そう思ったとき。
「本当に瑞葉ちゃんは懲りないわね……。わたしも手伝うから、一緒に片づけましょう」
「っ……。そう、ですね」
少しだけ意表を突かれたが、如月はもとよりほとんど怒らない人だ。前に一度だけ本気で怒られた時も、この程度のことではなかった。あとで笑い話にできることで如月が怒ったりすることは、絶対にない。
だが——なぜ。
「瑞葉ちゃん、そっちの山をこっちに並べて」
「…………」
「瑞葉ちゃん?」
「……あ、っと、はい。すみません、なんて言いましたっけ」
「そっちの山の方を並べてきれいにしてって言ったんだけど……。体調すぐれない?」
「いいえ、そういうことでは……。ただ、ちょっと思い出していたというか」
「……そうなのね」
訊いたことを後悔しているのか、如月は少し声のトーンを落として言う。
しかし少女はそれに反応せず、如月に言われた箇所の本を整理していく。
(詮索をするのは……趣味じゃないし)
他人の詮索は、本のネタ晴らしに続いて少女が嫌なことだ。今まで散々少女がされてきたこともあるが、なにより少女自身が他人のことについてしつこく訊くのは好きではない。
それを知って、なにになるのか。ただ自分のいらない知識欲を満たしたいがためだけに、人を傷つけるのか。そう、長い時間をかけて捻くれた考え方になってしまったから。
しかし思えば、昔からそういう節はあったと思う。他人に興味はなかったし、二年間だけ行った小学校でも、そのせいか、誰かに嫌われることもなかったし、喧嘩になることもなかった。だがあまりにも自分のことを話さないせいか、人は離れて行ってしまったが。
それでも少女には関係ない。面倒なことになるくらいなら最初から一人でいたほうが気楽でいいと、そういう考え方だから。
だが如月は、不思議と詮索はしてこなかった。
「……懐かしいわね。瑞葉ちゃんが来たときも、こんなふうにあなたの荷物を整理したのよ?」
「そう……でしたっけ。あんまり覚えていなくて」
「あのときはまだ研修医で免許を取ることしか頭になかったけれど、こうやって一緒になにかやってると、ふと浮かんでくるのよね。あのときの瑞葉ちゃんはかわいかったなあ、って」
「……今はかわいくないってことですか」
「違う違う、そんなこと言ってないじゃない。ただ、やっぱり幼かったからこそのかわいさがあのときの瑞葉ちゃんにはあったけどね」
口角を上げて懐かしむように笑いながら、如月は栞を探してくれているのか。ページを捲りながら本を並べていく。
栞なんて、もうとっくに見つけているけれど。
「今の瑞葉ちゃんは……。言えば、大人っぽいわね」
「奈緒さんには言われたくありませんけど」
「わたしだって自分のルックスが整っていることくらい知っているわよ。だから通勤中も痴漢に遭わないように気をつけているし、サングラスも掛けているわよ」
「想像できませんね、サングラスを掛けてる奈緒さん」
「掛けようか? 今持ってるけど」
「……いえ、今度で大丈夫です」
それが拒みではないと知っているのか、如月は「残念……。意外とかっこいいと思うわよ?」と唇を尖らす。いや自分で言うなし。
如月は話を続ける。
「大人っぽいっていうのは、考え方とか振る舞い方のことよ。中学一年生でここまで大人の思考を持っている人は、そうそういないと思うわよ?」
「まあ……そうですかね。病院って消毒液と空気の匂いしかしないので、それで頭がおかしくなったのかもしれませんが」
「言うわね、瑞葉ちゃん。この部屋はシャンプーの香りなのに」
「……それは、奈緒さんがあのシャンプー買ってくるから悪いんでしょうに。あ、でも買ってください。あれ結構気に入っているんです」
「どうしよっかなー? 瑞葉ちゃんがそんなに悪いって言うなら、もう買ってくるのやめちゃおっかなー」
「や、やめてください! 怖いこと言わないでください、もう何年あれを使い続けてると思ってるんですか! 今更変えられませんよ⁉」
「落ち着いて、冗談だから」
「じょ、うだん……。ふ、ふーん。ですよね、そうですよね。奈緒さんは、そんなことしませんよね」
「っふふ、瑞葉ちゃんはかわいいわねえ」
「こ、子ども扱いはしないでください」
如月は一応二十八歳の、うら若き女性だ。しかしそのルックスも相まってか、姉を持つことに憧れていた少女にとっては本当にお姉さんのように見えて、最近その理性が揺らぎ始めている。
簡単に言うと、甘えたい、という欲求だ。
だがしかし、そんなことを言うならまだしも、行動に出すのなんて柄でもない。如月が言ったように、瑞葉は知らずのうちに大人っぽい性格になってしまった。その像を壊すのには抵抗があり、本当の気持ちを曝け出すことに、かなりの恐怖心を抱いていた。
だってそれは少女のうちを少女自身で大衆にみせるということだ。今までずっと嫌っていたことをするのには、相当な戸惑いがある。
これだから、いつまで経っても中身は成長しないのだ。まるで外の自分と中の自分がいるような、変な感覚。二重人格ではないものの、それでもこの感触はだいぶ気持ちが悪い。
如月にはまだうちの自分を見せている方だとは思うが、それでもやはりみせることはできない。
少女は、臆病だから。
「……でもね、子どものままでもいいのよ」
だが、ふと。
如月が少女の背の後ろで、そんなことを言った。
まるで、蜘蛛の巣みたいに絡まった糸を、一つ、また一つと解いていくように。
「瑞葉ちゃんくらいの年のうちに知っておいた方がいいことは、たくさんある。それが場所でも、知識でも、物事でも。わたしもまだ二十八だけど……それでも、やっぱり後悔は潰えないわね」
「……でも、病院にいたんじゃ」
「だから、瑞葉ちゃん」
如月がこちらを向いたことを背中越しに伝えられ、少女もまた後方を振り返る。
その顔は、どこか楽しそうで、けれど、悪いことをする前の子どものような悪い笑みで。
「今度、一緒に水族館に行ってみない?」
栞は、本から抜け落ちていた。
*** ***
一時間もしないうちに、少女の部屋は見違えるように歩く場所が増えていた。
三山ほど積まれていた少女のベッド前も自由なスペースになり、この間翔奏が転んだ部屋の中央付近の山も、見事なまでに撤去されていた。
では、その大量の本たちはどこへ行ったのかというと。
「最初からこうすればよかったのよねえ……」
「……本当に、そうですね」
前まではクローゼットだったところに、今は簡易的な本棚が置かれていた。
背はそこまで高くはなく、少女の目線ほどの高さしかない。しかし段は六つに分かれていて、幅もそこそこあるため収納しやすく、取り出しもしやすい。六つというと一つの段が狭いと思うかもしれないが、少女が持っている本はほぼすべて文庫本なのでこのサイズで収まるため、支障はないのだ。
そこに、今さっきまでは床に散乱していた本たちがぎっしりと詰まっている。どうしても溢れだしてしまうものは、すべて少女の机の上に立てかけてあるが、それでも部屋全体の様を見てみると前よりは随分とましになっている。
しかもこれはすべて如月が近くのホームセンターで買ってきてくれたもので、一緒に片付けを手伝ってくれた上に必要なものを手早く買ってきてくれるなど、感謝してもしきれないだろう。
だがそれにしても、改めて見ると、数か月間あれやこれやと本の収納方法を考えていた自分が嫌になってくる。
「でも、これで来た人が躓くことはなくなったわね。瑞葉ちゃんもそうでしょう?」
「そうですね。見違えるように……というか、本当の床の色が見えたような気がします」
今まで本が散乱して見えなかった床がようやくしっかりと見えるようになって、少女は感慨にふけっていた。
少女が入院したての頃はこんな色だった気がするが……。本が散乱し始めたのは、いつからだろうか。十冊くらいシリーズで買った時からだったと思うけれど。
(……まあ、終わりよければすべてよし、ってことわざもあるし)
苦い顔をして、少女は窓の方に目を向ける。
雨が降りそうな天気ではあるが、夏に近づいているのかまだその空はほんのりと茜色に染まっていた。五月にしては陽が沈むのは遅い方だろう。
それを見て意外と時間がかかってしまっていたことに驚くが、しかし少女がもっと驚いたことは、別にある。
奈緒さん、と少女は言う。
「水族館に行くって……あれ、どういうことですか?」
「? そのままの意味だけど。近いうちに水族館に行きましょうね、って」
困惑したように、少女は眉尻を下げる。
それも当然。特別病棟にいる人は基本外出禁止で、行けるとしても近くのコンビニエンスストアや、公園だけだ。この病院のルールとして、主治医にも言われた上に当の本人である看護師長にも再三忠告されたことだ。少女もいつしか外に出てみたいという渇望はどこかに消えてしまい、そのルールを忠実に守っている。
だが——それを、如月が言うなんて。
「あら、水族館行ったことあった?」
狼狽している少女を見ると、如月は人の気も知らないようで笑顔で話しかけてくる。
「い、いえ、ないですけど。で」
「じゃあ決まりね! 再来週の水曜日に、一緒に行きましょう」
「ちょっと待って、待ってください奈緒さん!」
「どうしたの?」
勝手に話を進める如月を制し、少女は口を開く。
「一旦スルーはしましたけど、ルールで外出しちゃいけないって他の誰でもない奈緒さんが言ったんですよ? それを自ら破りに行こうとするなんて、病院内での立ち位置に影響しちゃうんじゃ……」
つまりは、そんなことをして如月の看護師長としての威厳が剝奪されてしまわないのか。それが一番心配だった。如月自身が決めたこととはいえ、それを止めることができるのはおそらく如月と一番関わっていて、言い合える仲にある少女にしかないわけだ。
だがそう少女の心配を口に出すと、如月は少女と目を合わせるように屈み、少女の頭に手を置く。
優しい音が鳴った気がした。
「瑞葉ちゃんのいいところは、すぐに人を心配できることね。簡単そうに思えてなかなかできないし、綺麗事とか言われて非難されることもあるけど、でもそれは偉いことよ」
「…………」
なんて言えばよいのか分からなくて、少女は黙る。褒められているのか、安心させられているのか。はたまた言い聞かせられているのか、判断がつかなかったからだ。
「最初はわたしも研修医だったからこの病院のルールに則って業務をしなければいけなかったけれど、今は違う。あなたの思うように、したい通りに。それができればいいと思ってる」
「私の病気の実状がひどくて、最期の旅行に連れて行ってあげようとしている、という可能性は?」
「そんな変な守秘義務はないわよ、それにそんなことしたら病院の運営ごと裁判にかけられるし。信じられないのなら言ってちょうだい。カルテでもなんでも見せてあげるから」
「……そこまでして、私と水族館に?」
「もちろん。平日の水族館は空いてていいわよ。おまけに最近は気候もちょうどいいし、瑞葉ちゃんも辛くはないでしょう?」
「まあ……そうですけど」
きっと如月の言葉に嘘はないのだろう。裁判なんて言葉が出てくるのならば少女が先程口にした可能性はないに等しいだろうし、そうなれば本当に如月の気分か、あまりにも外に出ない少女を心配して連れ出そうとしてくれているかの二択だ。
とってもうれしい。誘われたことはおろか、誰かのそれを聞いたことも一回もないから、舞い上がっている自分がどこかにいる。行ってみれば、絶対に楽しいだろう。
だが。
「奈緒さんは、それでいいんですか?」
なにとは言わず、少女は如月に問う。
すると、如月は、
「……いいのよ。瑞葉ちゃんがいいのならば、わたしだっていいわ」
その翡翠色の瞳を伏せがちにして、染めたような茶髪を揺らす。
「榊原先生の許可も取ったし、わたしに不満なことなんて、一つもないわ」
「……なら、行きたいです。水族館、行ってみたいです」
少女は如月の言葉を聞き、目を見据えながら言う。
元より断る理由なんてなかった。少女にとって如月はこの世界の中で一番気軽に話せる人物で、そんな人と一緒に水族館に行くなんて、夢のようだったからだ。
もしかしたらそれも、如月は分かっていたのかもしれない。
如月の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当⁉ それなら早速、さっき言った再来週の水曜日に行きましょうか。出る時間はあとで知らせるから、予定空けておいてね」
「はい……。なにからなにまで、ありがとうございます」
「いいのよ。提案してのはわたしなんだし、わたしがやらなければ大人として情けないわ」
カジュアルな服装の如月は凛とした笑みを浮かべ、立つ。
と、「あ」と声を上げながら、如月は少女の方を振り返り、
「それと、その恰好」
「へ?」
少女の服装を指差され、少女自身は素っ頓狂な声を上げる。
「来週、一緒に服を選びに行きましょう。今持ってるものだと、お洒落とは言えないものね」
おそらく如月は、しばらく使われていない少女の服が数着入っている、先ほど一時的に隣の洗面所へとどけたクローゼットの中身を思い浮かべる。
「いや確かに外行の服はあんまり入ってないけど……でも、そこまで」
「じゃあわたしは着替えてくるから。また夜にね~」
「あ、ちょっと! 逃げないでください! 私はまだ聞きたいことが……!」
少女が如月に反抗する前に、如月は優雅に手を振りながら病室を出て行く。
前に一歩踏み出しかけた少女は、腕の力を一気に抜いて項垂れる。
いつもそうだ。如月は少女が反抗しようとすると、すぐに部屋を出て行く。それが正当な理由であればあるほど、スピードが速くなっていっているようにも感じられるが、一体なぜなのだろうか。少女より語彙も知識もあるのに逃げてしまう理由が、少女には分からない。
顔を上げて、勢いよくベッドに座る。
一瞬、飛び跳ねて、数瞬してから少女の体躯はベッドに収まった。
吐息する。
「予定が、二つも……」
一日で今後の予定が二つもできてしまったことに少女は驚き、あまりにも雰囲気で承諾してしまったことを後悔する。
如月とどこかへ行けることはすごく楽しい。辛くなんてないし、むしろ今から心臓が高鳴り始めている。
だが心配なのは、少女を取り巻く環境のことだ。
榊原——少女の主治医は許可を出していたらしいが、永らく外に出ていない少女にとってそれは少々酷ではないのだろうか。他の人からそう言われると反抗したくなるが、逆に言われないと不安になってくる。これも人間の性なのか。
正直、少女にはまったくと言っていいほど自信がなかった。近くの水族館は電車で三時間弱、駅に着いてから三十分ほど歩かなければいけない、微妙に遠い場所にあるのだ。
炎天下でないとは言えども、太陽の下で三十分間歩き続けるような体力の自信が、少女にはなかった。最近ろくに運動をしていない上に、ずっと小説ばっかり読んでいるのだ。おそらく中学校にいる人の中で一番体力が低い自信はあった。
しかしせっかくのお出掛け。なんとか倒れないように、当日は準備万端で行かなければならない。如月に迷惑はかけたくないし、主治医にも、他の看護師にも面倒な思いはさせたくない。
ならば少女ができることは、ただ準備をすることのみなのだ。
(……頑張らないと)
少女は決心し、本棚から小説を手に取った。
『この先は、暗闇。』
その瞬間だった。
少女はなにかの気配を感じて、振り返った。
『光もなにもない、ただの奥底。』
いつもの白いドア。だいぶきれいになった本来は真っ白な床。それが、なぜか少女をいざなっているように見えた。
そして刹那——。
なぜか、分かった気がした。
『けれど過去の記憶もこれからの記憶も、永遠に忘れられる、素敵な場所。』
少女は目を瞑り、ぎゅっと瞑り、数十秒してその眼を開けた。
すると目の前には、違う景色が広がっていた。
『暗闇はあなたを忘れさせる。けれど、最高の快楽を与える。
それが至福であれ、中毒であれ。』
少しだけ、覗いてみようと思った。
前も行ったんだから。今回もきっと大丈夫だから、と自分に言い聞かせて。
深呼吸をし、少女は見慣れないドアを開ける。
眼前には、暗闇が広がっていた。
『君は——一体、なにを選ぶ?』
目を凝らしても長く明るい部屋にいた少女にとってはなにも視認ができず、近くにあったスイッチを上にあげて、電球に明かりを灯す。
一気に部屋が明るくなり、ソファやテレビが見えた。そして——一回、見たことのある廊下が、少女の目を釘付けにしていた。
『魅せるのか、魅せられるのか。はたまた、そのどちらともか。
どれにせよ、きっと君はこれから、ない地面を歩くような感覚を味わうことになるだろう。
ひどいって? やめてって? 仕方がない。それが君に課せられた、宿命なのだから。』
ふいに、昔読んだ本の序章の文章が、頭の中に細切れに浮かんできた。
本のタイトルも、あらすじも、忘れてしまった。けれどそのエピローグだけが、強く少女の脳裏に焼き付いていた。
そして——その最後には、こんなことが書かれていた。
『君は二度と、戻れない。』
こんな書き方をしているのだから、きっと恋愛系ではないだろう。なのになぜ、暗い廊下の先を見つめているだけなのに、あんな文章が思い起こされてきたのだろう。
(二度と戻れなくたって、いい)
普通への憧れなんて、とっくの昔に捨てたはずだ。
なのに、なぜまだ。
(私は——普通に、魅せられてるの?)
少女は暗い廊下へと、歩みを進める。
一歩、また一歩、飢えたうさぎのように。
小さな彼女にとっての、たった一つの光を目指して。
そして。
ついに。
少女は。
————。
あ。
まただ。
私は、また——、
————。
——気づいたら、暗闇の中にいた。
27.臆病と暗闇




