25.零牡寺
零牡寺に続く肌色に褪せた規制線をくぐりしばらく周囲を見渡しながら先に行った凛を追っていると、いつの間にか桜歌と雀は青ざめていた。
理由を訊いてみたのだが、二人そろって、
「逆になんで翔奏はそんな平気なの?」
「逆になんで翔奏はそんな平気なんだ?」
と言うばかりで、目先には凛の背中しかないのにも関わらず、桜歌は翔奏の袖を握り締め、雀は翔奏の背負っているバッグを掴んで後ろに隠れていた。
(……子どものおもりをする親か、俺は)
翔奏も怖くないと言えば嘘になるが……。しかし目の前になにもいないのに無意味に怖がるなんて、ただ精神をすり減らすばかりだと翔奏は思う。
だから、怖がりはしない。
「……ひっ⁉ いまいま今なんか音した!」
「すまん、オレが枝踏んだせいだ」
「このっ……‼ あんたはいつも‼ そうやって人を怖がらせることばかり、」
「もとはと言えばお前だろ! オレが悪いけどさすがに驚きすぎだ」
「あんたぶっ倒されたいの⁉ 驚くのは元々の性なんだから仕方がないでしょう‼」
「……あの、そんなに騒ぐと霊が出てくると思うんだけど」
しかし翔奏がそう言うと、桜歌と雀は顔を強張らせる。
「……翔奏。そういうことを冗談で言ってはいけねえぞ」
「やめてよ、翔奏……。……本当に怖いから」
「……ごめんって」
二人揃ってこう言うのだ。まったく、どうすればいいのやら。
翔奏は前を向きながら、凛の姿をしっかりと捉える。
なにやら寺の周りを見て回るように物色をしていて、手に取ったものに被った草や土を容赦なく叩いて調べていく。
なにを調べているのだろう、とは思ったがそれを本人に訊くには距離が開きすぎていたので、桜歌と雀の速度に合わせてゆっくりと進む。
「瘴気……かは分からないけど、本当に嫌な雰囲気ね、ここ」
「本当にそうだな……。御神さんはなにしてるんだ、あれ」
「知らないわよ。今回のことで、ちょっと凛のこと嫌いになったけど」
「……一緒に生活してるんだろ。いいのか?」
「まあ……。一日に数回、顔合わせるくらいだし。ていうか、なんであんたがそのこと知ってるのよ」
「さっき御神さんから教えてもらった」
「凛のやつ……。はあ、まあいいわ」
後ろで二人の会話を聞きながら、翔奏はゆっくりと、境内を回る。
こうして二人が素で会話をするのは本当に珍しいことだ。学校では同じクラスなのにもか関わらず同班になったときでさえまともにしゃべらないのに……。そう思うと、なんだか感慨深くなってくる。
それに——桜歌も、後悔はしているはずだから。
と、そんなことを考えていると、いつの間にか凛の背中はだいぶ遠くへと行ってしまっていた。
「こんなに離れてるんなら助けようにも助けられないじゃない。まったく、さっきの言葉はどこにいってしまったのよ……」
「外周も長いし……。おい翔奏、今何分くらい歩いた?」
「えっと……十数分くらいかな」
正面からの見た目はこじんまりとしていたのに、こんなに奥が長いから驚いているのだろう。このくらいの距離では疲れないはずの雀でも、恐怖も相まってか額に冷や汗が浮かんでいた。
しかし驚くほど物音もせず、ただ三人が草の上を歩く音だけが辺りには響き渡っていた。まるで翔奏と、桜歌と、雀以外、すべての生物が凍って、眠りについてしまったような。不思議と冷たく、しかし風が凪ぐこともない。ただひたすらに怖く、冷凍庫にいる感覚だった。
そんな冷気に当たって思考がクリアになったのだろうか、翔奏は「そういえば」と桜歌に訊く。
「桜歌って、御神さんとどこで会ったんだっけ」
「え? お前、最初から御神さんと一緒に来たんじゃねえのか?」
朝に桜歌と話していないせいで状況を把握できていない雀が、翔奏と桜歌に尋ねる。
「違うわよ。途中でたまたま会ったのよ。…………霊園で」
「霊園……御神さんが言ってたのと一緒だな」
翔奏はすぐにその言葉の意味に思い当たる。
先ほど飲食店にいた時に、凛からも「お墓参りでたまたま会った」と聞いていた。ならば桜歌と凛との間での認識の齟齬はないということだ。
雀は小さく「あ」という声を上げ、口を噤む。
「……凛がなんか言ってたの?」
「まあ……うん。あ、でも御神さんが悪いわけじゃないよ? 俺が気になって、それで訊いただけだから」
「ふうん……」
訝しむような視線をこちらに投げつけてくるが、無視するものとする。
だがそれが本当だとすると自然に、もう一つの疑問が浮かび上がってくる。
正直これ以上桜歌に訊くのはやめた方がいいとは思うが……。翔奏は言葉を選びながら桜歌に訊く。
「でも、桜歌と御神さんは一緒に住んでるん……だよね? だとしたらなんで一緒にいなかったの?」
「……昨日の夜、明日用事があるから家を空けるって凛が言ったのよ。ほら凛は大学生だし、サークルの友達とでも一緒に飲みに行くのかなとか思ったんだけれど」
桜歌も今日は用事があったためその旨を凛に伝え、てっきり桜歌は凛とまったく違うところに行くと思い、今日の朝早くの電車に乗ったそうだ。
しかし実際は行き先は一緒。互いに行き先を言わなかったためかは分からないがたまたま鉢合わせて、困惑しながらもちょうどよかったので昼食にしようと思い例のハンバーガー店に来たそうだ。
つまりは——桜歌としては、予定調和でもなんでもなかったのだということ。
「十時くらいだったかしら。歩いていたら急に奥から黒い髪の女性が来て、凛に似ててから見てたんだけど……。まさか、本当に凛だとは思わなくて」
「水桶とかは、凛さんも持ってたの?」
「いいえ、持ってなかったわ。手ぶら……だったのかは知らないけど。あでも、桔梗を買ったって言ってたかしら」
「…………」
話を聞き、黙り込んでいた雀は唐突に口を開く。
「でも考えてみれば、同じ電車に乗ってなかったこと自体おかしくないか? 桜歌が出る時間にはもう御神さんはいなかったんだよな?」
「ええ、そうね。凛はもう出かけていたはずだけれど……」
「……でも確かに、雀の言う通りそんなに朝早くに家を出てなにやってたんだろう。まさか近所をうろついてたわけでもないと思うし、先に駅に来ていたとしか……」
今度はシリアスな空気が、冷気とともに翔奏たちの身体に当たる。
あまりにも神妙な口調で、翔奏は言う。
「なあ、桜歌。御神さんって、普段こんなに強引な人じゃないんだよな?」
「……当たり前。私が嫌だって言ったらやめてくれるし、ここにだって寺が目的で連れてこられたわけだけど、いつもの凛だったらこんなところには行かないはず……」
と、そこまで言って桜歌の表情は急に強張った。
「……翔奏。あんた、もしかして」
「なにが言いたいんだ?」
桜歌と雀が、前を歩く翔奏に詰め寄る。
考えがたいけれど辻褄の合うことと、容易に思いつくが辻褄の合わないこと。その二つが、今翔奏の頭の中にある。
——どちらを、言うべきか。
「……御神さんは」
だが、前者はあまりにもファンタジー要素が過ぎる。それに前者だとしても、今すぐにここから抜け出せばいいだけのことだ。これだけ背中が離れているのなら、簡単だろう。
ならば——後者、二つ目の可能性。
「もともと、ここに来るのが予定だったんじゃないのかな」
桜歌が目を見開き、雀が眉間に皺を寄せる。
「……御神さんが、こんなに恐ろしい場所に一人で出向こうとしていたって? そう言いたいのか?」
「おそらく……っていうか、絶対。そうじゃないと御神さんがこんなところを選択するはずがないんだから。でしょ?」
「そうだけど……でも、こんなところに、本当に、見切り発車で……?」
そうでないと、あと一つは現実からかけ離れた答えしか待っていない。だから例え話の辻褄が合わなくても、きっとそうなんだ。
「……じゃあなんで御神さんは、ここに来たんだ?」
「知らないに決まってるじゃない。私だって……っていうかあんたたちも場所も知らなかったのに、なんで凛が知っているのかってところも気になるし」
「零牡寺といい桜歌の変な状況といい、本当に謎が多すぎるな……」
言って翔奏は息を吐き、中にたまっていた熱を外へ出す。
あの様子はまるで、一人でも大丈夫だと言わんばかりの背中だった。こんな危険なところに一人でなんて、それこそどうにかしていると翔奏は思う。
では凛と零牡寺になんの関係があるのか。それが一番の、大きな謎だ。
「……考えても人の脳内は覗けないって、こういうことか」
「本当にそうね。いろいろと、嫌になりそう」
翔奏の言葉に賛同し、三人の間に沈黙が流れる。きっと三者三様、考えているのだろう。
——そこからさらに何分経ったのだろうか。瘴気が深くなり、黙るのも怖くなってきたころだった。
雀がふと、自分のスマートフォンを見た。
「……そういえば、圏外じゃねえか、ここ」
「まあこんな誰もいない山奥なら……ねえ」
「す、スマホ使えないの⁉ 連絡手段どうするのよ……!」
「お、落ち着いてって桜歌。まだ帰れるから」
「本気で危ないこと起こったらどうすんのよ!」
桜歌が心配の声色を上げた、その瞬間だった。
「…………っ!?」
「…………えっ?」
「…………っ」
辺り一面に冷風が吹きつけた。
「さむっ!」
「冷たすぎない、なにこれ⁉」
「オレは怖いの方が勝ってるけどな」
雀だけが微動だにせず、翔奏と桜歌は急に来た突風に身構える。雀はさすがの体幹というべきか、この強風に対しても直立で耐えているが。
当然前へと進む足も止まり、しかも周りは荒れ果てているので埃や木材やなんやらがそこらじゅうを飛び回る。
「待って、目にごみが……」
と、そのために目を擦ろうとした時だった。
*** ***
「っ⁉」
——翔奏は、信じられない光景を目にした。
数秒が経ち、これまた突如として冷風は止んだ。
「……ったく、なんなんだ。心スポあるあるってわけでもねえだろ?」
「心スポで冷風なんて聞いたことないわね。……でも、なんか気味は悪いけど」
「…………ねえ」
「どうした?」
翔奏が神妙な声を上げると、話していた桜歌と雀は翔奏に目を向ける。
「…………御神さんが消えた」
「は? そんなことがあるわけ……本当にいないじゃねえか」
「か、かっか、翔奏? う、嘘、でしょ?」
だか桜歌も先の景色を見て凛がいないことを確認して、一気に血の気が引いたような顔になる。
「り…………凛? 嘘……?」
「あれじゃないのか? 外周の横に出たとか、そういうのじゃねえのか?」
「……違う。俺が見たのは」
翔奏が見たのは。
「御、神さんが、」
——首を吊っていた光景だった。
「…………」
「……? どうしたの、翔奏」
なんて、言えるはずもなく。
翔奏が発したのは。
「……いや、ごめん。曲がっただけかも。砂埃のせいでよく見えなかっただけ、多分」
「そう、か……。まあ、それならいいんだけど」
「……本当に、なにもないのよね?」
「…………。……うん」
桜歌を、ひいては雀を傷つけないために言った、他愛もない嘘だった。桜歌も雀も半納得してくれたみたいで、若干首を傾げながら前へと歩く。
だが翔奏の脳裏には——あの光景が、はっきりと映っていた。
土の舞う中、奥の木にロープが吊るされていた。そこに凛の姿があり、自分の首にロープを引っ掛け、そして——。
「っ……‼」
そう思うと急に吐き気が込み上げてきて、翔奏は下を向き、呼吸を整えようとする。
それにいち早く気がついたのは雀で、
「おい翔奏、大丈夫か? 顔色悪いけど」
「…………っ。うん、大丈夫。ごめん、なんでもない」
「そ、そうか……」
翔奏は膝立ちから体勢を立て直し、再び前を見据える。
だが、やはり進むにつれて吐き気は大きくなってくる。しまいには耳鳴りがし、眩暈がして、翔奏の身体が徐々にその瘴気に侵されていく。
桜歌もこれはまずいと思い、「さすがにやめましょう? これ以上は危険そうだし」と、暗に引き返そうと提案してくれたのだが。
「……大丈夫だから。御神さんを探す方が、先でしょ」
大丈夫な状況ではないのに。今にでも倒れそうなほどに、ふらついているのに。翔奏はそれでも、前に進もうとする。
桜歌と雀の声が遠ざかっていく。物理的に遠くなっているのか、それとも耳が聴こえていないのか。分からないが、翔奏は誰の制止も受け入れずに前へと進む。
なぜか。
なぜ、そんなにも進みたがるのか。気持ち悪くても、眩暈がしても。雀の押さえつけを引きはがしてまで、前へ歩くのか。
考えれば、簡単だ。
「これで……とう、べつに…………」
特別になりたいから。
たった、それだけだった。
今までこんな気持ち悪さを経験したことがなかった。ひどい眩暈も、周りの音が聴こえなくなるほどにひどい幻聴も。なにもかも、常軌を逸していて。
——最高に、幸せだった。
そうか。だからか。だから、ここはそういう場所だったんだ。
普通と、特別。その二つが逆転する場所。その分岐点が、ここなんだ。
そうだとしたのなら。もし、今特別になろうとしているのなら。
「……………………」
もう少しだ。
その幸福に、もう少しで足の爪から頭の先まで浸かれる。もう少しで、あと、ほんの少しで——。
「もう……、少しで…………‼」
もう、いいんだ——。
そう思った、
——刹那。
「翔奏ッ‼」
雀の怒号が、背後から聴こえた。今までに聞いたことのないほど張り上げた声で、雀は翔奏の名を呼ぶ。
だがそれに翔奏が応じるはずもない。だって、もうすでに聴こえないのだから。翔奏はもう、甘美な蜜に侵されかけてしまっているのだから。
それなら、と雀は翔奏の元へと駆けて行き、
「翔奏‼ いい加減目を覚ませ!」
手首をつかみ、翔奏を強引にこちらへと引き寄せる。それは、到底翔奏には敵わないほどの強さで。これが雀の本気の力なんだと、思い知る。
だがもう理性の欠片も残っていない翔奏は、牙をむく。
「うるさいんだよ、どいつもこいつも‼ 邪魔をするな、離せ‼」
「っ、翔奏……」
今までに聞いたことのない翔奏の暴言に怯んだのか、雀の手首をつかむ力が弱まる。
その隙に、翔奏は捕まった手首を振り解こうとした——のだが。
「桐宮さん‼ なにやってるんですか⁉」
「ッ⁉」
雀の、桜歌の、さらに後ろから聞こえてきた聴き馴染みのない声——言ってしまえば、今日初めて聴いた声に、翔奏は信じられず思わず目を見張る。
「凛、あんたどこ行って……‼」
「外周を回って来ただけよ。心配しなくて大丈夫だわ」
桜歌に少し優しい目を向けて、だがすぐに視線を鋭くして怒号を発する。
「桐宮さん‼」
「…………なんで、あなたが」
翔奏は唖然と口も目も見開き、凛の姿をただ茫然に見る。
だって、死んだはずなのだから。さっき翔奏は確かに、凛が近くにある木で首を吊っているのを見たのだから。
それなのに。なぜ。
だがそのために足りない思考を回らせているうちに、雀は正気を取り戻したようで、
「翔奏‼ しっかりしろッ‼」
バチン、と。
翔奏の頬を、強く、叩いた。
*** ***
「っ!」
瞬間、翔奏の目の前を覆っていた靄が薙ぎ払われ、視界がクリアになる。
「…………雀?」
「なんで自分から死地に向かうんだ⁉ バカなのか、お前は‼」
「……違う、雀」
「あ? なんだ、まだ」
「手……、掴んでていいの?」
その言葉に、雀はハッと翔奏の手首をつかんでいる自分の手を見る。
そして、なにかに弾かれたように一歩後ろに飛び退いて、手を放す。
「……ああ、大丈夫だ。お前こそ、なんで自ら死にに行ってたんだ」
「死に、に……」
つい今さっきまではっきりと覚えていたはずなのに、直前の記憶が、あの幸福に浸かる寸前の快感が、朧げな記憶となって瘴気と一緒に消えていく。
特別に、なりたかった。
でも結局、それは敵わなかった。
「…………そうか」
だって。
ここは、そういう場所だから。
「ここは、そういう場所だから」
「……? なに言ってんだ」
だが当然のこと、雀にはその意味が伝わっていないようで、奥の桜歌と凛も訝し気な顔をする。
と、雀が身を翻す。
「とにかく、本当にここは危険だ。今すぐにでも離れたほうがいい」
「……そうね。凛も、それでいいでしょう?」
「ええ。それで構いません。……桐宮さん、どこか怪我とかは」
「それは……大丈夫です。してませんので」
凛の心配を断り、翔奏はゆっくりと自分の足で地面の上に立つ。
だが。
(……なんでだろう)
なぜなのだろうか。この、久しぶりに自分の足で立ったような感覚は。
ずっと這いつくばっていたからか? いや、そんなわけがない。だってつい数十分前、翔奏はここの地面を自分の足で歩いていたのだから。
「……妙だな」
小さく呟き、翔奏は凛と並び、先に進んでいた桜歌と雀の後を追いかけた。
そして、その背後で。
「——————を、ど————か」
祠の人影は、そう言った。
24.零牡寺




