18.こぼしてしまったもの
「ありがとうございます、わざわざ」
「いいのよ。エレベーターで一階なんだから、気にすることはないわよ」
先程貸してくれた商品詰め用のバッグを頭を下げながら持ち主に返すと、夏織はそんな言葉とともに微笑みをくれた。
翔奏は、玄関から出て行く夏織の背中を見送る。
「またね、桐宮くん」
「ええ、また。くれぐれも酔ってまた集合玄関機にもたれかかっている姿を見せないでください。この間で三回目でしたよね?」
「っ、だからそれは禁句! もう、余計なこと言わないでよ……」
頬を膨らませながら夏織は目の端で翔奏の姿を捉える。
そのまま帰る——のかと思ったら、なぜか夏織は立ち止まり、暗くなった空を見上げながら呟く。
「桐宮くんは、なにかを失う前にちゃんとそれを掴んでおくんだよ」
「……? なんのことですか?」
「ふふっ、なんでもないわ。それじゃあね~」
首を傾げながら、玄関の扉が閉まるのを見届ける。
夏織は今のように、たまにミステリアスな雰囲気になることがある。突然小声になって独り言のようになにかを呟いたり、文脈のないことを突如として言い放ったり。そして翔奏がその意味を問うと決まって、
「なんでもないわ」
と言って会話を終わらせてしまうのだ。
関わり始めて二年になるが、未だに本当の性格、言うなれば素性は掴めていない。
お酒で酔った時でさえ、わざとのように黄昏ることはあるものの、あのような遠くを見るような声色でなにかを語ることは少ない。お酒が本当の人格を引き出すとも言われているが、もしあの緩んだ頬、蕩けた瞳が本当のものでなければ、一体なにが夏織さんの本当だというのだろうか。
少し、寒気がする。
「……早くオムライス作ろ」
しかしいつものように、考えても仕方のないもの、と割り切り、翔奏は首を振りながら荷物をキッチンへと運ぶ。
数分後、再びエプロンを着た翔奏は食材どもの前に立つ。
「さて、まずは……」
スマートフォンという名のレシピを確認しながら、まず食材が全部そろっているか確認する。
「鶏肉、卵、米、ケチャップ……油? まあごま油でいいだろ。あとは……バターは、これだな」
適当なところがあったが、今回は見ないものとする。
そうしてすべての食材が揃っていることを確認し、早速フライパンを取り出して火をつける。
「まずはチキンライスか……」
使うのはおそらく鶏肉と米、ケチャップとバター。ケチャップは水分を飛ばしてまぜたほうがいいと聞くが、そうした方がいいのだろうか。あとなぜバターを入れるのかは分からない。
とりあえず、なんとなくでやってみると。
「これでいいのかな」
数分後、レシピ通りのようなチキンライスができた。さすがに写真通りとまではいかないけれども、しっかりとしたチキンライスだ。
そう——しっかりとした、料理。
「……違う、よな」
逸る鼓動に聴かないふりをし、翔奏はそのまま作り進める。
次は上に覆いかぶさる用の卵だ。油を敷き、二個分の割ってかき混ぜた卵を熱されたフライパンに投入する。
段々と、心臓の拍が速くなっていく。手が震えて、呼吸が乱れてくる。もう、見たくない。この惨状を ——植え付けられていく意識から、目を背けたい。
それなのに、それに釘付けになる。魅入られてなんかいないのに、目線がたった一点に注がれる。
そのまま適度にかき混ぜながら過熱し——チキンライスに、卵を乗せる。
「で……き、た…………」
目の前にあるのは、誰がどこをどう見ても疑いようのない、オムライス。見た目は完璧に程遠いが、黄色の傘を乗せた赤い米のそれは、絶対にオムライスだった。
そう認識した瞬間、翔奏の頭が割れるように痛む。
反射的に頭を押さえた衝動で、部屋の電気が消される。
真っ暗な部屋の中には、真黒に染まった人が、一人だけ。
自然と、声が漏れる。
「なんで……なんで……なんで、なんでおかしいだろ、なんでだ、なんで、なんでだ」
なんで——普通に作れてしまった?
翔奏は普通だ。だからこそなにをやっても普通だし、周りからも普通としか評価されない。
しかし——唯一、あったのだ。普通じゃないことが。
それは。
「俺は……料理が、下手、だった、はずなのに……」
——料理が下手。
文字通り、周りの人から見たらマイナスの印象だ。しかしそれでも、翔奏はそれを特別と思い、唯一自分の中にある特別に縋っていた。それだけは特別だと。そればっかりは——絶対に、譲らないと。
しかし、最後に料理を作ったのは数年前。当然試してなければ、昔の味とは違くなる。
そして今——翔奏の中の特別が、折れた。
気づく。
「……っ、カルボナーラも、まさか……」
あの時カルボナーラを作りたくないと思ったのは、あの時カルボナーラをあまり美味しくないと感じてしまったのは、味が普通だったからなのだろうか。
少女の料理を食べて感覚が狂ったのではなく。あれも、翔奏が普通だったからなのだろうか。
寒気がする。悪寒がする。なにかが込み上げてくる。けれどその正体は掴めない。けれど、もう寸でのところまで出てきていて。
吐き気が、する。
「っ!」
もう無理だ。耐えられない。
そう判断した瞬間、翔奏は口を押さえながら急いで洗面所に走る。
そして前かがみになり——台に向かって、嘔吐する。
なにもかも、特別も、たった一欠けらだけあったはずのものも、すべて吐く。
口をゆすぎ、台を洗い、顔を水で濡らす。
紅いペンダントが、ゆらりと暗闇の中でなにかに反射する。それは玄関から漏れ出す光に反射しているのか、それとも——。
食欲も失せてしまった。せっかく買ってきたのに、作ったのに。もったいないから、少女に試作品として味見をしてもらおうか。いや、そんなのをしても反応は分かりきっているし、少女にそんなことをさせるのは人間として終わっている。それならば、捨てようか。ああそうだ、捨てよう。どこかの誰かに怒られるかもしれないが、それでも、捨てなければいけない。食べなければ、捨てなければいけない。
歯止めの利かなくなった思考が、途端に破綻する。
この後少女に会ったら、なんて言えばいいだろうか。きっと驚かれるだろう。けれど、会わないわけにはいかない。明日も学校があるんだ。今日配られた化学の問題集だって、まだやっていない。少女に会いたくないわけではないのに、なぜだろうか、会いたくない。ああ、矛盾している。こんなドロドロとしたものを、一体なんて呼べばいいのだろうか。意味が分からない。理解ができない。
——消えたくなる。
色を失った瞳で、暗闇の中自分の顔を鏡越しに見つめる。
ただただ普通で、普通で、普通で、普通で、普通で、普通で、普通で。
普通の人の、顔だった。
*** ***
「翔奏さん、遅いな……」
用事を済ませて帰って来た少女は、いつも通りベッドの上で小説を読んでいた。
がしかし、それから約一時間、翔奏が一向に帰ってこないのだ。時刻は十時、きっと夜ご飯は作って食べたのだろうに、一体なにをしているのだろうか。
「リビングでテレビでも見てるのかな……」
小説の紙面を見つめながら、テレビを見ている翔奏を想像する。
翔奏から、翔奏自身の情報はある程度聞いている。例えば一人暮らしで1SLDKのマンションに住んでいることとか、リビングにテレビが置いてあることとか、間取りとか。雑談程度の話の中で教えてもらったことだが、結構贅沢なところに住まわせてもらっていると本人も言っていた。
だから自然とリビングでテレビでも見ているのではないか、と予想がついた。スマートフォンとそれぐらいしか娯楽がないと、自身でそう言っていたからだ。
「まあ、大変なことになっていないといいですけど……」
ふう、と一息を吐いた少女は、ちょうどあとがきを読み終える。
読み始めてから読み終えるのに、約五時間。いいペースだが、そのせいで速読の癖ができどんどんと小説を減らしてしまうため、病室に入ってきた如月にたまに「……瑞葉ちゃん、もう少しゆっくり読むってことはできないの?」と苦笑いを浮かべられる。一応読み終えた小説はベッド横に積んでいてなるべく目立たないように整理しているが、それでも高さ一メートルの山が三個もあると、目に障るらしい。
しかし、かと言って読み終えた小説を売りたくもない。売ったらきっとすごい額になるのだろうが、永久にその記録を紙などの媒体で記録でき、それを眺められるのが小説の魅力だ。それを売ってしまっては、買った意味がなくなってしまう。
「でも、きさら……奈緒さんに怒られそうだから、そろそろどうにかしないとな……」
悩ましい、と思いながらも、少女は次の小説へと手を伸ばす。
さて、次はどれにしようか。恋愛ミステリー系か、純愛系か、〇角関係系か。
「いーろーはーにーほーへーとー……」
古すぎだって? うるさい、このやり方がいいんだ。
しかしいつまで経っても納得のいく結果が出ないので、瑞葉は選別を止めて伸びをする。
なんせ、朝から用事だったのだ。当然疲れるに決まっているし、まともに伸びもできないまま早朝に呼び出されたので、これが今日初めての伸びだ。存分に味合わせてもらおう。
「ん~っ」
そういえば、本当に翔奏が遅い。テレビを見ているとしても、いつもだったら今の時間にはさすがに戻ってくるはずだ。どこへ行ったのか、少し心配になってくる。
だが、世界線? なのかは分からないが、それが違う少女にとっては翔奏に干渉できない。病室の扉を開けても、そこはナースステーションへと続く殺風景な廊下。翔奏への連絡手段は、ないのだ。
つまりは、成す術なし。
「しかたがないか……」
いつかは戻ってくるだろうと信じて、少女は伸びの時に大体の人がするであろうぎゅっと閉じた瞼を、ゆっくりと開ける。
そして——、
「……え?」
——少女は、目の前の景色に困惑の声を上げる。
眼前に映されたのは、ついさっきまで見ていた白い病室とはまったく違う、殺風景な部屋だった。
簡素な勉強机と椅子に、本が並べてある棚。部屋の中央に敷かれているカーペットに、床に乱雑に置かれているおそらく通学用のリュック。
そのどれも、少女の持っているものではない。机の位置も、椅子の位置も同じだが、本棚のところにはクローゼットがあるはずで、通学用のリュックなんて以ての外、少女が持っているはずもないのだ。
そして、そのどれも、前に翔奏が言っていた家具の配置とぴったりで。
まさか、と思い、少女は自分の座っているベッドを見る。
「…………嘘、でしょ」
当然のように、シーツも青かった。
「翔奏さんの、部屋…………」
理解した瞬間に、脳がクラッシュしたみたいに、思うように動かせなくなる。
なんでだ? なんで私はここにいる? なにが原因だ? なにが引き金だ?
(なんで私は、翔奏さんの部屋が見えてるの?)
恐る恐る、見慣れないベッドから見慣れない景色へと立ち上がる。いつもは気にしないのに、やけにベッドが軋む音が大きく聴こえる。
床はフローリング。掃除はされているようで物は散乱していないが、少女の病室とは違い、本当に簡素な部屋だ。
足音を立てないように、ゆっくりと進む。
「……これは、翔奏さんの制服?」
少し行儀が悪いかもしれないが、床に脱ぎ捨てられていたブレザーをゆっくりと手に取る。
暗くてよく見えないが、襟には校章のピンバッジらしきものが取り付けられている。色は……黒、だろうか。
そっと床に戻し、少女はドアの前に立つ。
「開けて……いいのかな」
ここは少女の病室でもドアの位置。この部屋は、完全に間取りが一致しているのだ。
偶然なのか、必然なのか。分からないが……。もし驚かれたとしても、翔奏が心配だったと言えば、きっと許してくれるはず。そう信じて、少女はドアノブに手を掛ける。
「翔奏さんの、せいですからねっ!」
我ながら理不尽な文句を言いながらそのドアを開けると、再び真っ暗な部屋が広がっていた。
おそらく、リビングだろうか。簡単なソファもあるし、奥にはテレビらしき黒い長方形の箱が見える。左にはキッチンがあり、食材が散乱しているのが仕切り越しでも見えた。
だが、さっきとは違う点が一つ。
——真左の玄関らしき場所の電気が、リビングにまで差し込んでいた。
「……不自然」
一般的には、逆ではないのだろうか。玄関の明かりが消されていて、リビングの光が点いている。そうでなければ実用性がないというか、根本的におかしいはずだ。
奇妙だと思いながらも、少女は足を一歩踏み出させる。
きっと、行かないほうが良かったのだろう。知らない場所を、ましてや人の家の中を勝手にうろつくなんて、そんな不躾なことがあってはたまらない。
けれど、その時の少女にはなにか責任感があった。見なければいけない、救けなければいけない、そこになにがあるのか知らなければいけない。
だから——駄目だと分かっていても、少女の足は前へと進んだ。
そして、玄関の方へ数歩進んだ時。
右の部屋を見て、少女は思わず叫んだ。
「翔奏さんっ!」
俯せに腕を立てた翔奏が、洗面台の前にいた。
制服姿でネクタイは緩めており、部屋の隅にはエプロンが脱ぎ捨てられたように飛ばされていた。
そして、若干の異臭。これは——。
「もしかして……吐いたん、ですか?」
少しの胃酸のような臭いが、空間には漂っていた。おそらく処理はしたのだろう、そこに嘔吐物はなにもなかったが、臭いと状況からそのように判断できた。
「翔奏さん、一体何があったん、」
「……普通じゃない」
「——え?」
急に翔奏の口から発せられた言葉に、少女は翔奏の背中をさすろうとした手を思わず止める。
「普通じゃないって……翔奏さん、なに言って」
「普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、俺は、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃ……普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、絶対に、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない、普通じゃない…………‼」
「…………翔奏、さん?」
まるで、歯止めの利かない歯車のように。騎手を失った暴馬のように。
途中迷ったように、だがはっきりと発せられた言葉は、少女の頭の中によく響いた。
呪いを解くように連呼されるその言葉は、明らかにいつも少女が見ている翔奏ではなくて。
まるで——翔奏の、心の中。
「っ!」
掴もうとした手を、思わず引く。
——普通じゃないのに。
その一言を、少女は反芻する。
そうか。これが、翔奏の心の中。ぐちゃぐちゃで、まとまっていなくて、でもはっきりとしていて。この黒いドロドロとした声が——翔奏の、本当。
そしてそれは、少女の泥のように交じり合った感情を引き出すにはあまりにも十分な言の葉で。無数にある葉の棘が、少女の全身に貫くかのように刺さる。
段々と、視界が狭まっていく。翔奏しか——いやそれすらも、見えなくなる。
その視界と感情が、少女にも一つの答えを教えてくれた。
「私は…………特別じゃ、ないのに」
震えた声で、震えた手で、震えた全身を掴んで。それでも、震えは収まらなくて。
少女は、こぼした。
18.感情




