14.私の想い
翌日、月曜日。
瑞葉はいつものように、自分の病室のベッドでライトノベルを読んでいた。恋愛小説であり、翔奏が出て行ったくらいから読み始めたので、今は中盤くらいまで進んでいる。
ふと首が疲れて外を見ると、まだ太陽は南中していなく、その位置で今の時刻が正午くらいだと知る。
瑞葉は、いつもこの病室で一人だった。
小さい頃――正確には覚えていないが、小学校二、三年生くらいからだろうか。その頃から入退院を繰り返していて、四年生から長期入院をし始めて現在に至っている。
なので当然友達と呼べる存在もいなく、見舞いにももちろん誰も来ない。強いて言うなら養父母が数年に一度来るくらいだろうが――詳細については思い出したくもない。
そんな環境で育ってきたため、この病室に来るのは看護師と主治医しかいないし、来ても診察目的か他愛のない会話しかしなかった。つまりは社会から切り離されたされた空間に隔離されていたのだ。
瑞葉はそんな、無味乾燥な生活を送っていた――数日前までは。
ある日突然瑞葉の目の前に現れた、翔奏という男子高校生。瞼を開けると目の前に、下着という下着は来ているものの裸の男の人が立っていたので、それはそれは大層な驚きようをしたと思う。
だって、裸なのだ。女子が警戒するのも当然頷けるだろう。事実、その時の瑞葉には、それが意味することは変質者以外のなにでもなかった。
だから咄嗟に、昔に覚えた柔道の技が出たのだろう。無用の長物だと思っていたが、思わぬところで活躍する機会が与えられた。そしてそれは、年頃男子高校生にも通用したらしい。
しかし訊いてみると、その翔奏という人は変質者ではないらしい。どうやら瑞葉の病室が翔奏にとっての自室で、風呂に入る前に着替えを取りに来ただけなんだそう。事実なにもされなかったし、怪しい雰囲気を纏っているようにも感じられなかった。
いきなり技をかけてしまって申し訳ないと、瑞葉は思った――、
「はぁ……、ですが」
――のだが。そうは言っても、翔奏は本当におかしな人だ。初対面の人の前で急に泣き出すし、原因は分かったが急に驚いて倒れてしまうし、突然人の性癖を暴露するし(事実ではないが)……他にも、節々でおかしな人だと感じる。
その「おかしな人」というのは、頭がイカれているとか見下しているとかそういう意味ではなく、言葉で表すのは難しいのだが、言うなれば思わず頷いてしまうような――そんなおかしさだ。
「……分かりませんね、まったく」
しかしどうしてか、それをはっきりとした言葉で表すことができない。それは瑞葉の中で、輪郭がないのにしっかりと感じる靄となっていた。
その靄は窓から差し込む日差しでも晴れそうになく、瑞葉は首を軽く回して再び小説の世界に没入する。
――気がつくと、夕の光が差していた。
この数日間で分かったことは、翔奏は平日には大体六時前後に帰ってくるということ、帰ってからまずお風呂に入ること、そして食事はすべてが終わってから食べるということ。瑞葉は毎日七時前後に病院の食事が出されるのだが、今日はそれを断り、看護師さんに頼んで翔奏への料理を作るつもりだ。
今は五時くらい。あと一時間もしたら、翔奏が帰ってくる。
小説は終盤、世間で泣けると噂のシーンの真っ最中だった。
ふと考える。翔奏は今、なにをしているのだろうかと。
今の時間帯はきっと学校は終わっているはずで、帰ってこない理由は、多分買い物をしているからだろう。前に小説好きだと言っていたので、大方書店にでも寄っているのだろうか。瑞葉は読みたい本は病院備え付けの書店で購入できるので、遠出をする必要はない。
……遠出と言えば、最後にしたのはいつだろうか。瑞葉にとって遠出というのは市外や県外なんて範囲ではなく、近場の商業施設や言ってしまえば公園のことだ。ここ数年、外には出ることはあってもそういうところには数回しか行ったことがなく、まあ主に瑞葉が行きたいと言わないせいなのだが、本心では行きたいとずっと思っている。
――学校も、その一つで。
今朝翔奏が出て行った、瑞葉にとっては病室の扉を見る。
「学校、か」
だが気づくとそんな言葉を呟いていて、瑞葉は少し俯きながら白いベッドへと戻る。
学校なんて、最後に行ったのはいつだろうか。知らぬ間に学年が上がっていて、知らぬ間に桜が咲いて、散って。緑葉から紅葉に変わって、それも散って。そんな景色を、もはや自分の部屋と化してしまった病室から何回も見てきた。
窓の外に目を向ける。
今も外では、夕方に似つかわしくない桜の花びらが散っている。一枚、二枚と数えていると、あっという間に時間は過ぎていく。
今年は中学生になったらしい。入学式はもちろん、小学校の卒業式にすら参加していないのだが。中学校自体だって、写真でしか見たことがない。
ぽた、と水滴が持っていた小説の紙面に落ちる。慌てて拭うと、どうやらそれは自分のもののようで。
「……いつになったら、普通になれるのかな」
小さく、そう呟く。
見ると、泣けると噂の場面はまだ先だった。
*** ***
そういえば今日は帰りが遅くなると翔奏が言っていたことを思い出して、瑞葉は晩御飯の支度を丁寧にやろうと決意する。
瑞葉は風呂に入ってから食事を摂る派だ。ベタついた体で食べ物を口に入れたくないという生理的な理由もあるし、実際に食後すぐに風呂に入ると胃腸の働きが低下し、消化不良を起こすという科学的な根拠もある。まあ時間を置けばいいのだろうが、主に前者が先に風呂に入る理由だった。
病室の扉を開け、出てすぐ右にある瑞葉専用のバスルームへと移動する。
廊下には人の気配はない。ナースステーションが奥にあるので夜中などにも怖くはないのだが、どこか静かで、落ち着きすぎた雰囲気を纏っていた。
瑞葉の病室がある病棟は特別病棟と言って、一般病棟とは違い特別な事情がある者だけが入院を許可される病棟だ。
まあ、VIPルームと言っても過言ではないだろう。こうして個人専用の設備も用意されているし、この階の他の病室には誰も入院していないため、実質一階分独占状態だ。
――でも、やっぱり寂しいな。
「……なに思ってんだろう」
服を脱いで、適当に後ろ髪をまとめて、曇りガラスの扉を開ける。湯気が立つがそんなの気にせず、予め沸かしておいた湯に温度も確かめず飛び込むように入る。
バシャーン、と水が跳ねる音が聞こえ、しばらくすると収まり水滴の音だけが優しく響く。瑞葉はその温かさに身を委ね――、
「…………」
――ようとしたのだが、どこかさっきの涙の鱗片が頭の中に残っていて、段々とその生暖かさが気持ち悪くなっていく。
しまいには嫌なことを考えてしまいそうになったので、結局数秒で湯舟を上がりシャワーを頭からぶっかける。
「っ、つめたっ!」
しかし、シャワー特有の出始めが冷水現象が起こり、反射でノズルの噴射口を壁に向ける。心臓まで凍るかと思ったが、幸い湯舟には長く浸かっていなかったのでヒートショックを起こすことはなかった。
しばらくして温水になり、さっさと一時的に髪を解いてシャンプーとトリートメントをし、手早く身体も洗って(もちろんボディタオルで)、湯舟を見向きすることなく外へ出て新しい服へと着替える。
「……って言っても、まあ同じパジャマだけど」
病衣が一般的な病院内での装いなのだが、瑞葉は柄のついたピンク色のパジャマという、一見すると部屋着とも読み取れる服を着て過ごしている。まあこれも、特別病棟に入院している特権みたいなものだ。
軽くスキンケアを行い、バスルームを出る。もとより瑞葉はあまり肌荒れ体質ではないため、軽くで済むのが唯一の利点なのかもしれない。
ちらりと見えた鏡に映ったのは、きっと同年代の中だったら顔が整っている方で、なんの混じりけもない純黒の髪、そして――なによりも目立つ紅い瞳を持った一人の少女だった。
自分の顔がかわいくないとは思っていないし、どっちかと言えばきれいな方だとも思っている。だが決してそれはナルシスト的な思考によるものではなく、自分を客観的に見て、その結果でそう判断したまでだ。自分がかわいいとか、自分が大切とか、そんな自惚れた考えはあいにく持ち合わせてはいない。
「……別に、」
——別に自分がどうなろうと、そんなことなどどうでもいいのだから。
部屋に戻るとまだ翔奏は帰っていなく、先ほどしなかったドライヤーの電源を入れる。ようやく束ねていた髪を崩すのだが、正直ロングヘアだとドライヤーがシャンプーの次くらいに大変だ。毎回背中が少しは濡れて面倒だが、これも風邪を引かないためだ。
さて入念なドライヤーがようやく終わると、瑞葉はようやく食事の支度を始めるために外に出る。
歩いてナースステーションに行くと、
「すみません、如月さん」
躊躇わず、少女はある看護師の名前を口にする。
すると一秒も経たないうちに奥から「はーい」という返事が聴こえてきて、その声の主が姿を現す。
「ああ、瑞葉ちゃん。どうしたの?」
「すみません、調理室を貸してほしくて」
「今日の夕食はいらない?」
「はい。すみません、迷惑をかけてしまって」
「大丈夫よ~。瑞葉ちゃんの気持ちが一番大切だもの」
そう言って調理室の鍵を手でくるくると回すのは、もはや少女の専属看護師となっている看護師長の如月奈緒。年齢は三十路にも達していないらしく、その若さで看護師長の席を持っているので、この病院の出世頭的な存在らしい。
まあそれもそうだろうなと、ナースステーションから出てくる如月を見て瑞葉は納得する。
まずは顔だ。その凛々しい顔立ちはきっと街中だと誰もが振り返るほどきれいに整っていて、一度見たものはその姿が頭に焼き付いて離れなくなるだろう。スキンケアもしっかりとしているのか、肌荒れの痕跡の一つもない。
そしてなにより、スタイルがいい。誰もが憧れるルックスの象徴だと言うほど引き締まっていて、体つきも所作も無駄がない。
それに、瑞葉にないものを持っているというか――、
「……瑞葉ちゃんも、そのうち大きくなるわよ」
「っ! な、なに急に変なこと言ってるんですか!? 私、そんなこと考えてないんですけど」
「あれ、わたし今身長のこと言ったつもりだったんだけど。なに想像してたのかなぁ?」
「い、いじわるぅ……」
如月はまるで見せつけるかのように胸を張る。もうこれ以上考えるのはやめよう。悲しくなってくる。
だが、そう。如月は身長も高いのだ。学生時代は「女子のくせに」と周りからいじられて苦しい思いをしたらしいが、結果それが実を結んでこんなに凛とした大人になれているのだから、瑞葉にとっては憧れの対象だった。
「ていうか瑞葉ちゃん、名前呼びの約束したよね? さっき名字で呼んでたけど」
「……忘れてました」
「ちゃんと呼んでよ? 次から」
「は、はい。忘れなかったら……」
曖昧な返事をすると、如月は少し不満げに頬を膨らませる。
瑞葉自身は名前呼びをするので結構なのだが、なんせ数年間名字で呼んできたからなかなか修正が難しいのだ。反射を直せないのと同じだ。
そんなこんなでゆっくり歩いていくと、廊下の突き当りの右に部屋が見えてくる。
そのドアプレートには「調理室」と書いてあり、如月はそのドアの前で足を止めて鍵を開ける。
「今日はなにを作るの?」
「麻婆豆腐を作ろうかなって思っていて」
言いながら、中へと足を進める。
そこはまるで学校の調理実習室のようだった。コンロとシンクが併設されている長机が数個あり、一体なにに使うんだか知らないが黒板までもが奥方に取り付けられていた。
瑞葉が使うのは手前の一つ奥の台。消化器が近くにあるので、仮に引火してもすぐに消化できるだろうという気休めの意味を含めてそこにした。
食材はすべてナースステーションにあるので、今から調理器具などを出して如月と持ってくる予定だ。
「二人分くらいの量でお願いします」
「任せなさい、それくらいわたしが用意するわ」
しかしそうは言ったものの、如月はどこか引っかかるところがあるように食器棚から器具を取り出す瑞葉を見つめる。
「でも……昨日も思ったけど、なんで二人分なの? 瑞葉ちゃん、小食じゃなかったっけ?」
「……ちょっと、最近お腹が空きやすいみたいで」
痛いところを突かれた、と思った。これは非常に答えにくい部分だ。正直に言ってもほぼ信じてくれないだろうし、仮に信じてくれたとしても関係を誤解されて、きっと翔奏の居場所がなくなってしまう。
だから、奈緒さんには悪いけど……これは翔奏さんの身を守るためだ。そう嘘を吐く自分に言い聞かせて、瑞葉はそう言った。
するとやっぱり如月は唸って、
「でも、あなたが一日に食べれる食事量は決まってて、麻婆豆腐二人分だとオーバーしちゃうんだけど……」
「お願いします、どうっしても食べたいんです!」
深く頭を下げると、如月は観念したようにため息を吐く。
「はぁ……。分かった、今回だけだからね?」
それ昨日も言ってませんでしたか? と思いながらも、瑞葉は如月の良心を利用してしまったことに謝る。後生ですから……。
「すみません、本当に」
「いいのよ。実際、あなたはそんなに制限はないって主治医から言われてるからね」
にこっ、と微笑む如月に、思わずドキッとする。
この笑顔で、一体何人の人を惚れさせてきたのだろうか。これがあるから気を許せている部分もあるし、今のようについ頼ってしまう節も少なからずある。
と、瑞葉は我に返り、調理器具をすべて出し終える。
「行きましょうか」
「うん」
スタスタと廊下を歩き、これまた躊躇いのない足取りで瑞葉はナースステーションの中に入る。
進んでいくと、事務机に数人の二十歳ほどの看護師が座っていた。
「ああ、暁月さんね。調子はどう?」
「特に変わりありません、大丈夫です」
「今日はなにを作るの?」
「麻婆豆腐を作ろうと思ってて。辛いものが食べたいなあって」
「あら、火には気を付けてね。消化器の使い方は分かるわよね?」
「分かります、ありがとうございます」
ここのステーションの人たちはみんないい人ばかりだ。気さくに話しかけやすいというか、国家資格を取った堅い人たちの集まりという雰囲気ではなく、友達と職場にいるような空気感を感じる。
まあこの階には瑞葉しか入院はしていないこともあるからか、だからかこの人たちとも気楽に話せるし、なにより取りまとめている如月と関係を気にせず話せるので、その伝手で自然と知り合うことになりしゃべることができるのだ。
瑞葉は冷蔵庫から豆腐や豚ひき肉、ネギなどの食材を取り出す。それらを如月が持ってきてくれた籠に入れて、次に豆板醤や油と言った調味料を棚から持ってくる。
「すみません、借りますので」
「は~い、瑞葉さん、美味しいもの作ってねぇ」
「ありがとうございます」
言いいながら、瑞葉は食材の籠を持った如月とナースステーションの外に出る。
「奈緒さん、そっち私が持ちましょうか?」
「いいのよ。だって瑞葉ちゃん、腕相撲わたしに負けてばっかじゃない。こういうのは腕力が強い人の方が持つとかっこいいのよ」
「ま、負けてません! 明日には絶対に如月さんに勝ちます!」
「はい、名字で呼んだー」
「あっ…………、な、奈緒さん、奈緒さんって言いました! そう言いましたあ!」
「病院内では静かにしましょう、他人に迷惑です」
「うぐむっ……」
からかって楽しそうに笑う如月に、瑞葉は思わずため息を零す。この人、レス場強すぎるでしょ……。
そんな話をしていると——ふと後ろから視線を感じて、瑞葉は足を止める。
「っ……?」
しかしそこには誰もいなく、うっすらと夕焼けに照らされた廊下が続いているだけだった。よくあることだ、なんだっけ、あれは一種の脳のバグだったんだっけ。脳の「予測処理」とかいうやつで……。深くは知らない。
その奥にはエレベーターが稼働しており、上の液晶パネルには「現在三階」と表示されている。
そのエレベーターは――もう、ここには来ない。
「……? 瑞葉ちゃん、どうしたの?」
「…………。いえ、なんか人の気配がしたもので」
「あー、あるよね。わたしも夜中に一人でナースステーションにいると、なんか嫌な視線感じるときあるし」
「いやー怖い怖い」と言いながら歩いていく如月の背中を追うようにして、瑞葉は「待ってくださいっ、私も怖くなってきました」と言いながら走る。
それから、逃げるように。




