11.策戦
「どうしたの、翔奏くん? なんか元気ないように見えるけど」
翔奏が勉強を行っていると、瑞葉はベッドから急にそう訪ねてきた。
突然なんだろうと思い、ちょうどキリが良かったので翔奏はシャーペンを置き、軽く伸びをする。
「元気ないって、どういうこと? ……っあぁ」
「昨日より表情が曇ってるから、なんかあったのかな、と」
「……別になんもないけど」
「なんかあったときは、この瑞葉お姉さんに話すと楽になるんだよ?」
「誰がお姉さんだ」
「ふふん、きみもそろそろ認めてもいいんじゃない? 私がお姉さんだと」
言われて、改めて瑞葉をみてみるが……。やっぱり大人の女性には程遠い気がする。身長といいしゃべり方といい、どこからもお姉さん要素が感じられない。強いて言うならば、同級生……いや、なんかそれも癪だな。
その視線に気がついたのか、瑞葉はジト目で口をとがらせる。
「……その目、私をお姉さんだと思っていないね」
「なにを当然なことを」
「んむう……。きみは意固地だね」
「そっくりそのまま返すが?」
仮に瑞葉がお姉さん属性だとして、翔奏のような中学生の男子をバブらせて楽しいのだろうか。客観的に見るとだいぶきつい、というか即死な気がするが。
しかし瑞葉は翔奏の言葉にはため息を吐くだけで返事を返さず(なんでため息吐いたんだ)、代わりにと言わんばかりに翔奏に再び尋ねる。
「で、翔奏くんは今日、なんかあったの?」
「だからなんもないって……。それに、人に話すと楽になるっていうのも、それはいわゆる綺麗事だろ? 人に話しても、結局自分の重荷は変わらない。枷は一生足に纏わりついてくる。瑞葉も聞いたことあるだろ?」
「綺麗事って……まあ、そうかもしれないし、私もそう思うけど。でも、私が知りたいから」
「だいぶ強引なやり口だな」
「だって、きみがちっとも自分を見ようとしないから」
「っ……」
図星なことを言われて、少し言葉に詰まる。
確かに翔奏は、自己に興味のない人間だ。風邪を引こうが怪我をしようが誰かに言われるまで薬も飲まないし、病院にも行かない。この間風邪を引いたときも、瑞葉にしつこく言われるまで病院には行かなかったし。
けれど、自分が他己中心な人だとも思わない。だって少なからず、死ぬのは怖いから。それはつまりいざとなったら自分の保身のために動いてしまうということで、自分はどうなってもいい他己中心とはあくまでもずれるからだ。
だから自分を見ようとしないのも、翔奏からしたら当然のこと。自己中心な人になんか、なりたくない。
だがそれが理解できないのだろうか。瑞葉は「はぁ……」と重めのため息を吐く。
「だからきみは疲れちゃうんだよ」
「疲れてるって、俺がいつ言ったんだ?」
「きみを見ればわかるよ。見るからに疲れてそうな顔で帰ってきて、見るからに疲れてそうな手つきで問題集のページを捲って。きみを見て、疲れてないって判断するほうが難しいと思う」
「……そんなひどいの? 今」
「あ、いや、ひどいっていうか、翔奏くんはいつもかっこいいんだけど」
「そういう意味じゃなくて……。まあ、でも大丈夫だよ。話すほどのことじゃないし」
「んん……」
翔奏がそう言いくるめると、瑞葉は猫のような声で唸る。猫を飼っていた翔奏からすると、それは不機嫌の声であって……、
(ん、待て、不機嫌?)
しかしそう思ったときにはもう遅く、いつの間にか立ち上がっていた瑞葉に後ろからだいぶ強い力で背中を叩かれ、びっくりした翔奏は少し飛び跳ねながら後ろを向く。
「っ……瑞葉、ちょっと痛いんだけど」
「これは私からの天誅。きみが自分を見ようとしなかったバツ」
「見ようとしなかったって言っても……見る必要が、」
「ねえ、翔奏くん」
翔奏の言葉を遮るようにして言われたその言葉に、思わず瑞葉の顔を見る。
その顔は、ほんのりと怒りの色で染められていて、
「きみは、もう少し自分を見てあげてもいいと思うよ。きっとそのままだと、疲れちゃうから」
優しく、だけどその意味がしっかりと分かるように、瑞葉は翔奏のことを叱った。
いつもふんわりしていて笑顔な瑞葉が怒ることはもちろん初めてだったし、だから翔奏もその怒りの色に目を見張った。
気づく。
(ああ、そうか。——今俺は、瑞葉の嫌いなことをやってしまったんだ)
きっとそれは、自分を大切にしないこと。無下にして、どうでもいいと思い込むこと。それが瑞葉は許せなかったのか。
気づいてみると、あまりにも当たり前な理由だった。相手が自分なんてどうなってもいいやと言っていて、気分が良くなるはずがないのだ。仮に翔奏が瑞葉の立場として、そう思わないはずがない。
それを——今翔奏はやってしまった。その重さは瑞葉の近くにいる翔奏が一番知っているはずだ。
唇を噛む。なんて酷いんだろう、と。なんで人のことを考えられないだろう、と。
この感情は、きっと相手が瑞葉だからだ。いつも近くにいて、翔奏の一番知る人の嫌いなことをやってしまったから。だから。
と、唇から血が滲もうとしたとき、今度は背中が叩かれる感触ではなく、髪の毛をそっとなでられるような感触がして、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
「でも、きみが自分を見ないのは、きっとただ自分に興味がないからだけじゃないんだよね?」
「…………、」
その甘く包み込むような声に翔奏はただ黙っていることしかできず、気づいたら翔奏は瑞葉の腕の中にいたが、抵抗はしなく、そのままなでられていた。
瑞葉は耳元で優しく呟く。
「だけどきみはもっと自分を見なきゃだめだよ。私も……その方が、うれしいから」
「……ありがとう、瑞葉」
瑞葉の胸にもたれかかり、その優しい、冷え切った心を溶かしてくれるような甘い声色に身を委ねる。
その時の瑞葉は、ほんの少しだけお姉さんと言ってもよかっただろう。
*** ***
午後八時半、翔奏の自室にて。
今日は珍しくあまり疲れていなかったので、翔奏はあの時のように問題集を解きながら、昔のことを回想していた。しかしいつの間にか書く手が止まっていたので、慌ててシャーペンを持ち直す。
少女はと言うと、ベッドの上で窓側の壁にもたれかかりながら読書をしていた。どうやら訊いたところ今少女が読んでいる本は純愛ライトノベルで、少女の好きな小説のジャンルも恋愛系らしい。しかしさっきそれを熱弁されそうになったので、夕飯を理由に離席した。
翔奏も前に言ったように小説やライトノベルは読むのだが、瑞葉の影響か、少女と同じ恋愛系が好きな傾向にある。最近では「恋愛推理系ライトノベル」に嵌っていて、それが面白いのなんの。……と、少女と同じく熱弁しそうになってしまったのでこのくらいにしておく。
正直、異世界系はあまり好まない。なんていうか、現実味がないのだ。普通の枷(傍点)に縛られているからか、そういう非現実的なことが呑み込めず、そうするとどうしても恋愛系や推理系に走ってしまう。いや恋愛系や推理系が悪いわけではないのだが。
それにやっぱり、瑞葉の影響が最も大きいだろう。雀と一緒にいるというのも少なからずあるが、瑞葉ほど小説への愛が溢れている人は今まで出会ったことがない。その瑞葉がきっと翔奏が小説のことを好きな一番の理由だろう。
部屋には、本のページを捲る音と、シャーペンを走らせる音と、時計の病身の音だけが響く。まるで自習室のように静まり返った空間だ。
そうして一時間ほど経った時、少女はパタンと本を閉じてぐっと伸びをする。おそらく読み終わったのだろうか、ため息を吐きながら少女は翔奏の机を覗く。
机には、数学の問題集が開かれていた。
「……難しいですね」
「やばいでしょ、これ」
「び、ぶん、せきぶん……? なんですかそれ」
「微分っていうのは、関数の瞬時の変化率を求めるやつで、積分は簡単に言うと関数上の体積とか面積を求めるよ、っていうやつ。意外と面白いよ」
「見るだけで頭が痛くなりますね、本当に……」
ううっ、と頭を押さえながら再びさっきの体勢に戻る。そして今度は本は開かずに、膝を抱えてその膝に顎を乗せる。いわゆる体育座りってやつだ。
そしてそのまま少女は口を開く。
「しかし……そうだったんですか、翔奏さん」
「……急になんの話?」
「さっき翔奏さんが私にしてくれた話です。あれ、外に出ると私を忘れてしまうっていう」
「……ああ、それか」
それを少女が言い、ようやく翔奏は少女がなんのことを指していたのかを理解する。
六時頃に帰って来たとき、またというべきか翔奏は少女のことを忘れていた。昨日と同じくドアを開けるまで少女のことを忘れていて、中で本を読んでいた少女にびっくりして思わず後ろに尻もちをついてしまった。
そしてさすがに、二日連続はと少女に不審がられ、問い詰められた結果翔奏は例のことを話したというわけだ。
「あれなんですよね、故意とかじゃなくて、本当に忘れてしまうんですよね」
「うん。中に入るまで思い出せないし、別に頭を打ったわけでもないのに、突然」
そして、段々思い出していくというわけでもないのだ。フラッシュバックのように一気に脳内にここ数日の記憶が流れていき、その瞬間に少女のことを思い出す。本当に意味の分からない話だが、実際に翔奏がなっているし、これが幻想だとも思えない。
仮に記憶喪失だとしても、なぜ少女との記憶の部分だけ忘れているのかが分からない。どれもかれも、翔奏には処理しきれないことばかりだ。
「まあ私としては複雑な気持ちですけれど」
「いやきみが話してって言ったんでしょ」
「ともかく、それをなんとかして解決しなければなりませんね、毎日驚いていては翔奏さんの寿命も縮まってしまいます」
「きみは人の話を聞くところから始めよう」
まあ驚いていることは確かだし、今の状況を解決してほしいのも事実だ。毎日こうでは、さすがに少女に申し訳ない。
そしてそのためには策が必要だ。なにかしら見つけられればこちらの勝ちのようなところはある。……誰と戦っているんだろうか。
「まずどの程度離れていたら忘れるのか、ですよね」
「多分家の外だと思う。中では風呂に入っていても覚えてたし、夕飯食べても忘れることはなかった。けど学校に行った時だけ……つまりは外に出た時だけ、きみのことを忘れていた。まあはっきりとは分かんないけど」
「でしたら……少し恥ずかしいですけど、私の名前を呟きながら出て行くとかいうのは」
羞恥心からだろうか、少女は少し頬を赤らめながら言う。
確かに今少女が言った案はいいと思うし、それで解決できるならいくらでも言う。
ただ問題があるとすれば、それは瑞葉が二人いるということ。外に出た時点で、少女ではなく瑞葉の方が頭に出てきたらその時点でその案はダメになる。
そしてそれがダメだった場合に分かるのは、名前系は意味がない、ということ。それが分かった時の絶望感が半端ではないと思うので、翔奏はあまりそれに乗り気ではないのだ。
そんなことを思っていると、いつの間にか少女は翔奏の顔を覗き込んでいて、翔奏の表情を見ると途端に落ち込んだような表情になる。
「……いや、でしょうか」
「ん? ……あ、いや別にやりたくないっていうわけではなくて、これはその、」
「私の名前、いやなんですか……?」
「だからいやじゃないって! 好き……っていうのはなんか気持ち悪いけど、いい名前だと思うよ!」
どんどんとネガティブになっていく少女に対して、翔奏はそう言う。
いい名前だと思う、というのは翔奏の本心だった。決して軽い気持ちで言ったわけではなくて、瑞々しい葉、新緑、そして新しい生命。その名前から連想される風景は、どれもきれいなものばかりだ。
と、翔奏がそう言うと今度は照れ始めて、
「い、いい名前って……、そんなに褒められたって、うれしくないんですから……」
「感情の上下がすごいなおい」
話の路線がずれそうになったので、咳払いをして目的地を元に戻す。
「そういうわけじゃないんだけど……きみにすごく名前の似てる人がいて、その人のことを思い出しちゃわないかって心配なだけなんだ。そしてそれがもしできないってなったら、ほとんど手段はないみたいなものでしょ?」
「……なるほど。悪い言い方ですが、思い出してしまったら私のことを忘れちゃうってことですもんね」
「そう。だからそれがダメなら他の方法を探さないと」
「でもそれをやらないことには始まりませんよね……まず、それをやってみないと」
少女から痛いところを突かれ、翔奏は少し問題集を見る。そこには中学生の時だったら理解できなかった数式が並んでいる。
やればいいのだ。やらないことにはなにも始まらない。その少女の主張は正しく、翔奏自身でもそう思う。
ただ、もしダメだった場合に少女に嫌な思いをさせたくないだけだ。やられる側としては、相当つらいはずだ。だからこそ、なるべく他の方法を探りたい。
のだが、少女はそんなのを気にしていないようにベッドを立つ。
「じゃあ翔奏さん、今から私の名前を言いながら外へ出てください」
「え、今?」
「そうです、今です。善は急げ、ですから」
「で、でも、ちょっと待っ」
言いながら翔奏を自室外に出そうとする少女を止めようとするも、
「……やっぱり、私の名前を言いたくないだけなのでは」
「行きます今すぐに行きます」
しかし少女がまたネガティブに堕ちそうだったので、すぐに返事をする。
「じゃあ、私の名前を連呼しながら玄関外へと行ってください」
「文字にするとすごい字面だな……。そして俺はここに戻ってくればいいんでしょ?」
「はい。例え失敗だとしても、自室には戻ってくるはずなので」
翔奏はついに自室のドアを開ける。
息を吸って、吐く。目の前にはリビングが見え、左手には扉があり、玄関へと続く通路になっている。
再び、息を吸う。
「……行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
外に出て、自室の扉を閉める。
——よし、まだ少女のことは覚えている。ここからだ、本番は。
深く息を吸い、
「みずは、さん……みずはさん、みずはさん、みずはさん、みずはさん、」
ついに少女の名前を言い続けながら、玄関へと歩き出す。
翔奏の脳内で瑞葉へとはまだ変換されていない。まだ、少女のことを思い出せる。
扉を開け、玄関を見ながら軽く靴を履く。
「みずはさん、みずはさん、みずはさん、みずはさん、瑞……みずはさん、」
危ない、一瞬瑞葉のことを思い出してしまいそうだった。いやどっちも瑞葉なのだが……ややこしいな。
玄関の扉を開け、外に出る。周りには誰もいない。仮に周りに誰かいたとしても、この奇異な状況を見て素通りする人はなかなかいないだろう。
まだ連呼しながら、予め持っていた家の鍵を取り出す。
「みずはさん、みずはさん、みずはさん、みずはさん、みずはさん、みずはさん、」
翔奏の前に突然現れた、どこまでも瑞葉に似ている少女。名前は——暁月瑞葉。
鍵を鍵穴に挿し込み、ゆっくりと回す。
ガチャリ、と音が鳴った。
「みずはさん、みずはさん、みずは、さん……。…………っ!」
いま一度、少女(傍点)のことを思い出してみる。
——三日前、翔奏が着替えを取りに来たときにベッドの上に突然現れた、黒髪ストレートと紅い瞳が特徴の、翔奏よりも年下の少女。どこまでもあいつに似ている、一人の少女。
名前は——暁月瑞葉。
「…………、覚えてる……!」
覚えていた。
外に出ても、少女から離れても、覚えていた。
翔奏は今度は鍵を反対方向に回して扉を開け、靴を脱いでゆっくりと自室に戻る。その間も、少女の輪郭ははっきりしたままだった。
自室のドアを開ける。
そこには一人の少女が、心配そうな顔で佇んでいた。
「翔奏さん……私のこと、覚えてますか?」
まるで数年ぶりに片思いをしていた人に会うような口調だと思い、だがそれが少女だと、翔奏は理解する。
だがそんなに勿体ぶることではないと思い、翔奏は口を開ける。
「……うん、覚えてる」
「っ! ほ、本当ですか? 私のこと、覚えてるんですか?」
再び頷くと、少女はたちまち破顔し、翔奏の方へと駆け寄ってくる。
その姿を見て翔奏も緊張が解け、ため息を吐いてその場にへたり込む。
「よかったですね! 策戦成功です!」
「……ああ、本当によかったな、本当に」
よかった、と心底思った。これで、少女に嫌な思いをさせないで済むと。翔奏もこれで一安心だと思い、立ち上がる。
なにかを成し遂げる。これは普通の翔奏では成し得ないことで、また少し特別へと近づいた気がして。
だが、そんなことよりもきれいに目に映ったのは。
人のために喜ぶ、きっとこの世界のどんな恒星よりも輝いているその少女の笑顔だった。
「はぁ……」
感嘆のため息を零し、翔奏は少し笑った。
大事なことに、気づかないまま。
11.策戦




