2. 石屋は帳簿の話をしない
声をかけるべきか、迷った。
迷っているあいだに、男が振り返る。
背が高い。手の甲に、石の粉が入って白く残った古い傷がある。
「あんた」
二人称が、それだった。
「――あんた、でございますか?」
「施主だろう?」
「……はい」
「ちょうどいい」
彼は立ち上がる。膝の砂を払う手が、大きい。
「エッカー石工房のラウレンツだ。この石は、日が違ってる」
わたしは墓碑を見た。
一人目の夫の名前と、その下に日付が刻んである。十一の月十二日。十四年、そう読んできた数字である。
「教会の綴りは、十一日だ」
「……十一日、でございますか?」
「落ちた日が十一日。上がったのが十二日の朝。石屋は教会の日を刻む決まりだが、この石は注文書の日で刻まれてる」
言葉が短い。短いのに、抜けがない。
「注文書は差配から来る。差配が動いた日が入る。だから、ずれる石が出る」
「ずれた石は、ほかにも?」
「ある。この丘にも」
「そのままに、なさっているのですか?」
「言いに行っても、たいてい嫌がられる」
彼は石の面を手のひらで拭った。水が落ちて、名前の彫りに沿って細い筋になる。
「死んだ日を間違えてました、って言われて、喜ぶ家は少ない」
「……なぜ、今になって?」
「今日、あんたの検分が閉じたからだ」
彼は石の頭に手を置く。
「据えた石に鑿を入れるには、守り手の許しが要る。守り手は喪主だ。あんたが他家に嫁いでるあいだは、その墓の家が預かる。――それから、申し立てられるのは、守り手の検分が閉じてから一年のあいだだけだ」
「一年、でございますか?」
「今日から一年だ。一年のうちにあんたが許さなけりゃ、あの日付は、次にあんたがあの部屋でペンを置く日まで、そのままだ」
わたしは、その言葉の意味をしばらく数えていた。
次に、あの部屋でわたしがペンを置く日。
それは、次にわたしが夫を亡くす日である。
この人は、それを平気な顔で言う。慰めもせず、言い換えもせず、ただ規則として置いただけだ。
不思議と、腹は立たない。
むしろ――こんなふうに扱われたのは、いつ以来だろうか。
わたしを気の毒がる人は、たくさんいた。気の毒がる人は、わたしの前で言葉を選ぶ。選ばれた言葉というのは、こちらにも分かるものだ。
言い換えられた言葉は、袋に入れて渡される菓子に似ている。中身は見えないが、こちらを子供扱いしているのは伝わる。
この人は、選んでいない。
◇
「兄ちゃん!」
声が飛んできた。
石の切りかけを積んだ荷車を押して、小柄な娘が坂を上がってくる。十四くらいだろうか。手も顔も石の粉で白い。
「兄ちゃん、この人だれ?」
「施主だ」
「ふうん」
娘はわたしを上から下まで見て、それから言う。
「あ。三度さんだ」
「ツェツィ!」
「だってみんなそう言ってるもん。三度の――」
「ツェツィ?」
二度目で、娘は口を閉じた。閉じたが、目は閉じない。
「……三度さん、兄ちゃんに何の用?」
「ツェツィ。荷を下ろせ」
「下ろすもん。下ろすけど、聞いたっていいでしょ?」
わたしは、その問いを帳に書かない。
詰問は書かない。父の教えである。
わたしは十六の年の婚礼の前の夜に、父から帳面を一冊もらっている。
油紙の表紙のついた、薄い帳面である。父はそれを卓に置いて、こちらを見ずに言った。
「聞かれたことは書いておけ」
父はそう言う。
「秤の目盛りと同じで、覚えていたつもりが一番狂う」
帳面には二つの欄がある。左が〈家のこと〉、右が〈わたしのこと〉。
左に書くのは、答えるのに帳簿か記憶を開かねばならなかった問い。右に書くのは、わたし自身の身の上や体や心について訊かれた問い。
意見や判断を求める問いは、たとえ「あなたは」で始まっても左である。体や心を直に訊く問いだけが、右に入る。
なぜ二つに分けるのかを、父は説明しない。わたしも訊かなかった。十六の娘は、渡されたものをそのまま持って嫁ぐものである。
十七年つけて、左の欄はもう三冊目に入った。
右の欄は、十九しかない。
一人目の夫が十一。二人目の夫が六――全部、病の床からだ。三人目の夫が一。婚礼の日に、疲れたか、と訊いた。
それに、父が一つ。
十七年で、十九である。
◇
「なあ」
石工が、唐突に言った。
「今日、なにを食った?」
わたしは、答えられない。
朝に喪服を仕舞い、教会へ行き、三通の申し込みを断って、ここへ来た。
何も食べていない。
訊かれて、はじめて気がついた。
「……いえ。まだ、何も」
「そうか」
彼はそれきり何も言わない。慰めも、勧めもしない。
ただ、荷車の縁を顎で示した。
「座れ。立ってると倒れる」
「わたしは、倒れたことがございません」
「倒れたことのない奴が倒れる。石も同じだ」
わたしは座る。
座ってから、自分の膝が震えているのに気がついた。夕方の風は冷たく、丘の草は湿っていて、遠くで川の音がする。
喉の奥が、熱い。
どうして、と思う。
三通の申し込みを断ったときも、こんなふうにはならなかったのに。
わたしの体は、ずいぶん安いところで揺れる。
誰かが染めの温度を訊いても、杭の位置を訊いても、相場帳の中身を訊いても、何ともなかった。訊かれ慣れているからである。訊かれ慣れたものは、痛くない。
なのに、今日なにを食ったか、と訊かれただけで。
問いの中身が軽いほど、こちらの守りは薄いのだと思う。重い問いには構えができる。構えのしようがない問いに、人は不意を打たれる。
わたしは袖の中で、震える指を握った。
右の欄が、二十になる。
十七年で、二十である。
石が濡れて、色が濃い。三基とも洗ってある。
墨の匂いがする。
切りかけの石からは、それとは別の匂いが立っていた。粉っぽくて、雨のあとの土に少し似た匂いである。
十四年前、わたしはこの同じ場所に立っていた。十八の年である。あのときも石は濡れていて、切ったばかりの石の匂いがした。
いま、三十三のわたしが、同じ位置に立っている。
あのころ立っていた娘に、教えてやりたいことが一つだけある。
――この人は、あなたに何も訊かないよ、と。
一人目の夫は、優しい人である。優しかったから、十一も訊いてくれたのだろう。二人目の夫が六つ。三人目の夫は、一つ。
優しさが減っていったのではない。わたしのほうが、訊かれなくても済む女になっていったのだ。
水の温度も、杭の位置も、相場の読み方も、こちらが黙って呑み込んでしまうから、誰も具合を確かめる必要がなくなる。
便利になるというのは、そういうことである。
「あんた」
「はい」
「嫁に来ないか?」
「!?」
わたしは、聞き返した。
「すみません……。嫁に……、でございますか?」
「ああ」
書面ではない。仲人も立てていない。作法に外れている。それも、はなはだしく。
大きく息をつき――――。
「恐れながら、お申し込みは書面で――」
と、ここで人影が視界の隅に入った。いつの間にか、坂の下に老人が立っている。
ゲルハルト・アーベントである。黒い鞄を提げ、背筋だけがまっすぐだ。
「アーベントさん。……いつから、そこに?」
「手前は、聞かれるまで申しません」
「では、お尋ねします。いつから?」
「石をお洗いになるところから」
彼はわずかに頭を下げる。
「棟梁。作法は作法でございます。仲人をお立てなさいませ」
「爺さん」
「はい」
「誰に頼めばいい?」
「この町には、手前しかおりませんので」
ラウレンツは、それきり黙った。言い返しもしない。
老人はわたしのほうを向く。
「――お尋ね、でございますか?」
わたしは、少しだけ迷う。
訊けば、この人は答える。訊かなければ、墓まで持っていく人である。
風が、丘の草を一度に倒した。日はもう、町の屋根の向こうに落ちかけている。
「……では、お尋ねします。あの棟梁について、ご存じのことは?」
「ございます」
そこで彼は、はじめて目を上げた。
「あの棟梁は三度とも、旦那様のお名前を、誰よりも先に知っておいででした」




