1. 三度目の署名
喪服は、三着ある。
麻が一着、毛が一着、絹が一着。十六で嫁いだ家のが麻、二十二で嫁いだ家のが毛、二十八で嫁いだ家のが絹である。
着たのは、十八と、二十五と、三十一のときだ。
わたしは今朝、三着目の絹を畳んで、白い布に包んだ。
畳み方は、三度とも別の家で教わっている。麻は肩から、毛は裾から、絹は袖を先に抱くようにして折る。あのころはそれぞれの家の作法だと思っていたけれど、いまは指のほうが先に覚えていて、考えるより早く折り目がつく。
仕舞うときに、ふと手が止まる。
頭のなかで、三着は嫁いだ順に並ぶ。町の織元、山手の男爵家、港の商会。嫁ぐたびに布が上等になって、そのたびにわたしは、部屋にひとり残される側になる。
絹は、指の腹をすべって落ちる。麻は、爪に引っかかる。
同じ黒でも、悲しみの手ざわりは布によって違うのだ――。
借りているこの部屋には、窓が一つと、卓が一つある。卓も寝台も家主のもので、壁には釘の跡だけが残っていた。そこに掛かっていた誰かの絵を、わたしは知らない。
朝の日は、床の半分までしか届かない。
「奥様。そろそろお刻限でございます」
窓の外から声がかかった。教会の下働きの少年である。
「――刻限、でございますか? ……ええ、まいります」
「お荷物、お持ちいたしましょうか?」
「いいえ。これは、わたしが」
「重そうでございますよ、それ」
「軽うございます。布ばかりでございますので」
少年は腑に落ちない顔をして、それでも引き下がった。
布ばかり、というのは嘘ではない。三着そろえても、羊毛の一巻きより軽い。
軽いのに、両手でなければ持てないのが、この包みである。
嫁ぐたびに、前の一着は実家の物置へ預けてきた。次の家へ、前の夫の喪服を持ち込むわけにいかない。
借りたいまの部屋にも、三着ならべておく場所は無い。
わたしは、自分の部屋というものを、十七年持ったことがない。
◇
聖アルマ教会の書記室は、朝のうちだけ日が入る。
寡婦は、夫の財の検分に立ち会わねばならない。義務である。だから帳簿を見る権利がある。検分は寡婦の署名で閉じ、その場は寡婦の住まう教区の教会の書記室と決まっている。
わたしはこの部屋に、十七年で三度、座った。
卓の上には、ブラント商会の帳面が積んである。塩と穀物、倉の在庫、未収の債権。港のゼールまで三日の道があるせいで、この清算だけは長引いた。夫が宴席で倒れてから、一年五か月と十二日になる。
紙の匂いがする。乾いた紙と、古いインクと、蝋の匂い。
三度、同じ匂いを嗅いだ。
石の壁は、春の終わりでもまだ冷えている。座っていると、その冷たさが背中からゆっくり上ってきた。書記の羽根ペンが紙を擦る音、司祭が頁を送る音、外の広場を荷車が渡っていく音。この部屋にあるのは、それだけである。
窓から差す光の帯のなかで、埃がゆっくり回っている。
「では、こちらへ」
書記が紙を回す。ベルクマン司祭が綴りに指を当て、日付を確かめてからうなずいた。
「……お待ちを。綴りを見ます。――はい。四十一年、三の月二日。相違ございません」
「ありがとう存じます」
「イルムガルト。こちらに、お名を」
わたしはペンを取る。
インクの染みが、右手の中指の内側から抜けない。十七年、帳面をつけてきた指である。爪のまわりは、水仕事で荒れて白い。
三十三の手だ、と思う。
十六の婚礼の朝、母がこの手に油を塗ってくれた。手入れらしい手入れをしてもらったのは、あれが最後である。母は王暦三十一年に死んだ。
ペン先が紙に触れる。かすかな、かり、という音。
この一筆を書き終えるまでのあいだ、わたしはまだ、あの家の者である。
署名する。
それだけのことだった。
それだけのことで、わたしはもう、どの家の名前でもなくなる。
不思議なことに、悲しくはない。悲しくないことのほうが、少し怖い。
三度も同じ手続きを踏むと、人は手続きに慣れる。慣れてしまえば、あとに残るのは事務である。
事務には順序がある。順序のあるものは、心を通らずに終わってしまう。終われば、次の紙が来る。
――事務は、泣かない。
◇
廊下へ出ると、痩せた老人が立っていた。
「お嬢様。おめでとう存じます」
ゲルハルト・アーベント。この町にただ一人の差配人で、婚礼も葬儀も、段取りは全部この人が請け負う。わたしの三度の婚礼を差配し、三度の葬儀も差配した。齢は七十一になる。
「――おめでとう、でございますか?」
「検分が閉じたのでございますから、おめでたいことでございます」
「三度目でも、でございますか?」
「三度目でも、でございます。閉じたものは、閉じたのでございますから」
手前、と彼は自分を呼ぶ。その手には、封をした紙が三通ある。
「手前がお預かりしておりました。……お受け取りになりますか?」
「いつから、お預かりで?」
「今朝でございます。結了を確かめてから、三方が一度に」
三通。
喪が明けたのは、秋である。それから五か月半、一通も来なかった。
来なかったのではない。仲人が受け取らないのだ。検分が閉じるまでは、申し込み状を差し出すこと自体が作法に外れる。財の帰り先も決まらぬうちに身の振りを迫るのは、非礼だからである。
だから三人とも、今日を待っていたのだろう。差配に結了の日を確かめ、閉じたその足で差し出させたにちがいない。
廊下の石は、朝のうちだけ湿っている。わたしはその湿りを靴の裏に感じながら、白い包みを片手に持ち替える。
「……ええ。いただきます」
封蝋を割ると、名前が三つ出てきた。
三人とも、わたしが金を持っていると思っている。
三度目の寡婦分は、証書の上では金貨百枚だった。実際に手に渡ったのは、三十枚である。当主の負債の弁済が先に立つ。それが法だ。
三度合わせて、金貨四十枚。
十七年の、全部である。
最初に来たのはトビアスである。ヴァイクル織元の当主で、一人目の夫の弟にあたる。
「義姉さん」
三十になった男が、十三の子供の呼び方のままわたしを呼ぶ。
「戻ってきてほしい。……戻ってきてほしいんだ」
「トビアス様。まずはお掛けください」
「うん。……うん、掛ける」
彼は掛けてから、身を乗り出した。膝の上で指を組んで、その指がずっと動いている。
「あのさ、染めの水なんだけど。義姉さんがいたあいだしか、色が揃わなかったんだ。茜の入れ方は帳面に残ってる。でも水が。水が、何度だったのか誰も知らなくて」
「――水の、温度ですか?」
「そう。何度だった?」
わたしは、少し黙る。
窓の外で、桶を洗う音がしている。染め場の朝も、あんな音で始まるのだ。
それから答えた。
「爪を入れて、三つ数えて痛くならない温度でございます」
「……そうか。三つだったんだ。……三つだったんだ」
「四つ数えて痛ければ、熱すぎます。三つで、お止めくださいませ」
彼の目が輝く。輝いてから、自分が何を訊いたのかに気づいた顔をする。気づいたのに、次の言葉が出てこない。
この人は昔から、嘘のつけない目をしている。十三の子供のころから、そこだけは変わらない。
悪い人ではない。悪気は一つもない。だからこそ、痛い。
二番目はフーゴ・ザルム男爵である。二人目の夫の遠縁で、いまはあの山を持っている。
「奥方。ご機嫌よろしゅう」
「――ご機嫌、でございますか? ありがとう存じます」
「単刀直入に申し上げましょう。境の杭が第三の尾根で振れております。振れは訴になります。訴になれば証人が要る。証人が要るとなれば、杭の位置を見た者でなければなりません」
わたくし、と彼は言う。慇懃で、隙がない。
「奥方は、あの杭をご覧になっておられる」
「見ております」
「では」
「では、とは?」
男爵は、手袋の指を組み替える。
「わたくしの妻になっていただければ、証言は身内の話になりますな」
「――身内の話に、でございますか?」
「身内の証言は、揺れませぬ。揺れぬものだけが、訴では役に立ちます」
揺れぬもの、とこの人は言う。人ではなく、証言のことである。
三番目はヨルクだ。港の商会主で、三人目の夫の甥にあたる。二十七になる。
「叔母上、いや叔母上と申しますのは血のつながりで申せば正しくないのですが小生としましては便宜上そう申し上げるほかなくと申しますのもこれは新式でして」
「――ヨルク様」
「はい」
「息を、なさってください」
彼は息をする。それから一息に言った。
「十二年ぶんの塩の相場帳の写しは、どちらに?」
「持っておりません」
わたしは首を振る。
「寡婦が持ち出せる写しは、自分の署名した検分書の末尾一枚だけでございます」
「では中身は?」
「覚えております」
彼の目の色が変わった。
「覚えて、と仰いますとつまり数字がそのまま頭のなかにあるという意味でよろしいのでしょうかそれは新式の言い方をいたしますなら生きた台帳が歩いておいでのようなもので」
「ヨルク様」
「息を、でございますね。いたします」
三人とも、同じ変わり方をする。
わたしには、十六の年に父からもらった帳面が一冊ある。訊かれた問いを書きつけておくための帳面で、欄が二つに分かれている。
今日わたしが訊かれた問いは、その左の欄に入るものばかりだ。
右の欄に書くことは、一つもない。
◇
夕方、三人を廊下まで送って、わたしは言った。
三人が並んでいたわけではない。三度、同じことを言っただけである。
「お断りいたします」
トビアスは二度きく。フーゴは眉を上げる。ヨルクは早口で何か言いかけて、口を閉じる。
「……理由を、伺っても?」
フーゴが手袋を直しながら言った。
「ございません」
「理由が、でございますか?」
「はい。お断りに理由を添えますと、その理由を潰せばよいことになりますので」
男爵は、そこで初めて口を閉じる。
それから、廊下の向こうの人だかりで、誰かが聞こえるように言った。三度も夫を亡くす女には、何かあるのではないか、と。
求婚に来た三人の声ではない。三人とも、そのとき目を伏せている。
石の廊下は、小さな声でもよく通る。わたしは十七年、この通り方をする言葉を聞いてきた。
わたしは振り返る。
「呪いでは、ございません」
声は荒らげない。荒らげたことは、十七年で一度もない。
「わたしは、三つの家の帳簿を全部知っているだけです」
人だかりが、静かになった。
誰も返さない。返せることが無いからである。
帰り道は、丘の墓所を通る。
三つの墓碑は、家の区画こそ違うが、丘の道からは三基とも見える。ヴァイクルは町の家だから当然として、ザルム男爵家は館こそ山手だが教区がここにあり、エーミールはミルデンの生まれで、遺言に「丘へ」と書いていた。
だから三基とも、同じ工房の手である。丘の石は代々、エッカー石工房が請け負う。
坂を上がると、風が変わる。町の匂いが切れて、草と土の匂いだけになるのだ。
その三基が、濡れていた。
夕日を受けて、洗ったばかりの石が黒く光っている。
誰かが桶を運んで、三つとも洗ったのだ。三度の喪主であるわたしが、頼んだ覚えは無い。
一つ目の墓碑の前に、大きな男がしゃがんでいる。前掛けをして、爪の間が白い。
彼は石に、細い筆で墨を置いていた。鑿は持っていない。日付の上に、墨で数字を当てているだけである。
そして、言った。
「――日が、違う」
わたしに言ったのではない。
それは、独り言である。




