3. 名を先に知る者
市場は、朝がいちばん人が出る。
石畳に水が撒かれて、パンの湯気と、魚の生臭さと、藁の匂いが一緒に立っている。籠を抱えた女たちの肩がぶつかり、その隙間を犬が抜けていく。
パン屋のロッテは、わたしを見つけると必ず声を張る。悪気はない。悪気がないから、止まらない。
「イルムちゃん! 聞いたよ、検分が閉じたって?」
「――閉じました」
「それでさ、来てるんだって? 申し込み。三つ」
「三つ、まいりました」
「あたしゃね、嬉しいよ。三つも来るんだから。でもさ、ほら、あれだよ。ばーん、って倒れたんだって、三人目の旦那さん。宴席で。三人目だよ、三人目」
周りの手が、止まった。
籠に伸びかけた指が、途中で引っこむ。
「あたしゃ信じちゃいないよ。信じちゃいないけどさ、みんな言うんだ。触ったら、ころっと」
「ロッテさん。パンを二つ」
「あいよ。……堅いのと、柔らかいの、どっち?」
「堅いほうを」
ロッテは籠から一つ取って、掌で重さを確かめる。
「イルムちゃんは昔から堅いのばっかりだね。歯が折れるよ」
「割って、湯に浸けますので」
「今度はどこの旦那さんだい?」
わたしは、その問いも帳に書かない。
噂は帳に載せないと、父が決めた。載せると数えてしまうからである。
◇
噂は、市場を出るまでついてきた。
振り返れば、みんな目を逸らす。逸らしてから、また見る。
触れた男は死ぬ、というのが、この町でわたしにつけられた名前である。
朝の光がまぶしい。パンの焼ける匂い、魚の匂い、藁の匂い。町はまるごと生きていて、その真ん中をわたしが歩く。
見られるというのは、背中に薄い板を当てられているようなものだ。重くはない。重くはないが、板があるあいだ、背筋を伸ばして歩かねばならない。
わたしは歩きながら、数える。
一人目は、川の水である。増水した晩に、染め場へ引く堰の板を上げに行って、足をすべらせたのだ。あの夜は雨で、屋根がひどい音を立てていた。
二人目は、三年の咳だ。冬に一度だけ雪が降って、その日に息が止まる。窓の外が白くなって、部屋のなかが妙に静かだったのを覚えている。
三人目は、宴席の杯である。持ったまま倒れて、そのまま動かない。灯りは明るく、楽の音が鳴りやむまでに、少し間があった。
水と、咳と、杯。
種類も、場所も、年も違う。
三度とも同じ死に方をしたのなら、あの言い草にも理屈が立つ。けれど、水と、咳と、杯である。
――そう言ってやりたい相手が、十七年、一人もいなかった。
言えば、言い訳に聞こえる。言い訳をする女はもっと嫌われる。だから黙って、数だけを胸のなかで数えてきたのだ。
わたしが三人を悼まなかったと思う人がいる。
三度も泣いていられるほど、喪主の仕事は暇ではないだけである。
棺の寸法を決め、会葬の名を確かめ、膳の数を数える。数えているあいだは、泣けない。数え終わるころには、涙のほうが先に帰っている。
◇
エッカー石工房は、丘へ上がる坂の途中にある。
前庭に石の切りかけが並び、奥から金属の音がしていた。かん、かん、と一定の間で鳴っている。
石の粉が、日の光のなかを漂って、地面の低いところに白く溜まっていた。
「棟梁は?」
「奥。……あ、三度さん」
ツェツィが荷車の陰から顔を出す。
「なんの用? 注文? それとも」
「お尋ねしたいことがございます」
「ふうん。……あたい、聞いてないから」
娘は聞いていない顔をして、荷車の陰に座り直した。耳だけが、こちらを向いている。
わたしは奥へ入った。
ラウレンツは平たい石の上にかがんで、鑿を当てている。わたしを見て、手を止める。
「エッカーさん」
「なんだ」
「一つ、お尋ねします」
息を整える。
「石屋は、亡くなった方のお名前を、誰よりも先に知る仕事でございますね?」
「そうだ」
「そのお名前を、どなたかにお売りになったことは?」
彼はまっすぐわたしを見る。
「売ってない」
それだけだった。
「……エッカーさん」
同じ言葉を、彼は繰り返さない。わたしが聞き返しても、二度目は来ない。彼は黙って鑿を置く。
弁解をしない人である。
いや――弁解の言葉を、この人は持っていないのだと思う。
「兄ちゃんは悪くないもん!」
叫んだのはツェツィだ。
「兄ちゃんは、そんなことしない! だって、だって親父の帳面に、ずっと前から書いてあったんだから……」
言ってから、娘は口を押さえる。
「……あっ」
工房が、静かになった。
鑿を打つ音も、風も、どこかへ行ってしまう。
「――帳面に」
わたしは復唱した。
「ずっと前から、何が書いてございましたか?」
ラウレンツは答えない。
答えないことが、答えである。
この人は、知っていた。知っていて、施主であるわたしに黙っていたのだ。
胸の底が、冷たくなる。
冷たくなったことに、自分で驚いた。
十七年、わたしはこういう冷え方をしたことがない。腹を立てたことも、裏切られたと思ったこともない。そもそも、期待をしていなかったからである。
昨日、この人は「今日、なにを食ったか」と訊いた。
――たった一日で、わたしはこの人に何かを期待するようになっていたらしい。
それが、自分でいちばん恐ろしい。
三度の家で、わたしは期待をやめる練習ばかりしてきた。その練習が、たった一日で崩れかけている。
「あたい、そんなつもりじゃ……」
ツェツィの目に、いっぺんに水が盛り上がる。
「ちがう! ちがうんだから! 兄ちゃんは、」
言葉にならなくなって、娘は泣きながら怒った。怒りながら泣く。それから荷車を放り出して、坂を駆け下りていく。
ラウレンツは追わない。
「……追われないのですか?」
「戻る」
彼はそれだけ言って、鑿を拾った。
◇
差配のゲルハルトが門の外にいたのは、その半刻あとである。
いつも通りかかったような顔で立っている。
「お嬢様。お顔の色が」
「――顔の色、でございますか?」
「はい。目方が二つばかり、減っておいでのようで」
わたしは笑わない。笑えなかったのだ。
「アーベントさん。お尋ねします」
「はい」
「墓碑の日付と、教会の綴りと。どちらの日付を、わたしは信じればよろしいのでしょうか?」
老人はゆっくりと復唱する。
「――どちらの日付を、でございますか?」
「はい」
「教会でございます。石は教会の日を刻むもの。手前が出します注文書には、手前が動いた日が入ります。……早いときは当日、遅ければ、その翌朝でございますので」
「では、差配の紙は、いつも一日ぶん遅れて世に出るのですね?」
「遅れるとは申しません。手前の紙は、手前の日を書くだけでございます」
言ってから、彼は口を閉じる。
聞かれたことしか言わない。聞かれていないことは、この人から一言も出ない。
「――お嬢様。手前からも、一つだけ」
「はい」
「その日付が違うというお話、どなたかにお伝えになりましたか?」
「……いいえ。まだ、どなたにも申しておりません」
老人は、鞄の持ち手を持ち替える。
「さようでございますか。……ようございました」
「ようございました、と仰いますのは?」
「――お尋ね、でございますか?」
老人は、そこで初めて目を伏せる。
「その先は、お答えいたしかねます。手前がまだ、何も存じませんので」
わたしは、その問いを左の欄に書いた。
なぜ訊かれたのかは、分からない。
「三度さん!」
坂の下から、声が上がってきた。
ツェツィである。目のまわりが赤い。赤いのに走ってきて、わたしの前でいきなり怒る。
「べつに。三度さんのために来たんじゃないんだから」
「……はい」
「でも一つだけ教えたげる。あたい、耳がいいの。工房でいちばん」
「存じております」
「知らないくせに。……兄ちゃんより、いいんだから」
娘は、丘の上を指した。
「二つ目のお墓、叩くと音が違うの。ここだけ、こつん、って軽いんだもん」
二つ目の墓碑は、二人目の夫のものである。
ツェツィが小石で叩く。かん、かん、と鳴って、日付のところだけ、こつん、と鈍く鳴った。
「ね? ここだけ、ぼこって入ってるの。中が違うんだもん」
埋めた跡だ。
石を削って、また埋めて、磨いてある。近くで見なければ分からぬほど丁寧な仕事だが、音は隠せない。
「これは」
わたしは息を呑む。
「直した跡でございますか?」
「そう。しかも古いよ。兄ちゃんが刻んだあと、ずいぶん経ってから」
いつの間にか、ラウレンツが坂を上がってきていた。
彼は妹の頭に手を置いてから、二つ目の石を見る。
そして、言った。
「王暦三十四年の二の月だ」
「……七年も前になりますか?」
「あれは、俺の字だ」
彼は、石の日付に指を当てる。
「直したのは、うちの親父だ」




