8.〈秩序統制機関〉――夜空に浮かぶ星
◎
――あれから、二週間程が経った。その間、毎朝のようにエクスとムーンが部屋に来てくれた。わざわざ俺に会いに来た、ということではなく医師してであり、メイドとしての仕事である。あくまでも体調管理と食事の提供という目的のため。
だとしても、挨拶をしてくれるだけで十分な幸せを感じられる貴重な時間だった。
だからこそ、申し訳ない、とも思う。
「――声、出るかな?」
「…………」
「そっか」
エクスを悲しそうな顔にはしたくない。なのに大丈夫、という一言さえも飲み込んでしまう。
瞼の裏に焼き付いた光景が俺の喉を締め付けるのだ。燃え盛る〈名無し村〉、正真正銘の化物である黒鬼、そして――俺の手の中で潰えた生命。
全て受け入れているはずなのにどうしてこんなにも不自由なんだろう――本当はその理由はわかっている。だからこそ、どうしようもない。
過去を変えることはできないから。
――ある日、〈秩序統制機関〉調査局により〈名無し村〉の消滅に関して調査が行われている、とバスターが報告しに来てくれた。
バスターはムーンと入れ違いにやって来てベッドに縁に腰を下ろすと、物憂げにため息を吐いた。一段落のつもりで来ているのかもしれない。
「ご機嫌よう、生きる気力は持ってるかしら?」
「…………」
「――死ぬつもりはないみたいね、良かった。要件は一緒。例の件に関してはあなたの持っている情報が欲しい、でないと処理できない事案がある。それでも、ある程度の情報の整理はできてきた。あなたが気になっているであろうことも十分説明できると思う」
被害者の一人してある程度の説明をしてくれるのは有り難い機会だ。ただ、完膚なきまでに終わったことを積極的に知ろうとは思えなかった。中には知って置かなければならないこともあるのだろう。
例え、答えを聞いたとしてもひたすらな虚無感が消えることはないが。
「――全てが終わったみたいな顔してるのね」
バスターの見透かすような細い瞳に射抜かれる。
「私には人の心は読めないけど、朧気になら芯の部分は見える。あなたは……何かを諦めている。例えば、〈名無し村〉で過ごした時間が失われことに対する無力感。あなたの精神は歪んでるから、村が滅びたこと自体は気にしてないんじゃない?」
「…………」
「でも、何もできなかった自分には落胆した。事の大きさに比べて自分が遥かに矮小だってことを受け入れられてなくて、何も考えたくなくなってるとか?」
淡々と心を抉るようなことを言ってくれる。とても過激なショック療法だ。
俺はゆっくり首を横に振った。見事なことにバスターの言っていることは全て俺に当てはまっていた。ただ、順位で言えば第二位。もっと下らない一位の理由がある。
――悲劇を前にして無力感に苛まれた。人の手ではどうにもできない絶対的な壁がそこにはあった。世界への憤怒は圧倒的な力の差を前にして砕け散った。
一七年間ずっと強固にしてきた意志は完全に挫かれた。
死を目前にした経験――劇的な出来事、それでも一度なら耐えられた。二度目は致命傷だった。
傷は心臓にまで達していた。理不尽に立ち向かおうという意志は灰と化している。だから、俺は自分の症状を燃え尽き症候群と定義した。
部屋を出て行く寸前にバスターが振り向き様に――。
「――本当は言うつもりはなかったけど、想定よりも精神が安定しているから言っておく。〈秩序統制機関〉は人々の平和を守るための活動をしている。その一環として放浪者の保護をしている。けど、何事にも限度はある。意味わかる? あなたがどんな病に苛まれていようとも、無制限に保護していられる訳ではない」
バスターに〈名無し村〉へ連れて行かれる際に〈秩序統制機関〉の活動には危険が伴うため、長期間の滞在は推奨されていない、みたいな説明を受けた。
この世界に来てから活動を二度も目の前で見ている。きっと、俺の知らないところでも別の化物に立ち向かっている。
――放浪者になんか構っていられる時間はない。
「〈名無し村〉のこともあるからすぐに追い出すなんてことはないけど、身の振り方は考えておいて。その時がいつ来るかわからないから」
警告染みた台詞を残し、今度こそバスターは部屋を後にした。保護すべき被害者であっても、一般人にはできるだけ〈秩序統制機関〉とは関わらせない、というスタンスか。
今は厚意で衣食住を提供してもらっているだけだ。被害者であってもその方針に逆らうことはできない。
――過去に囚われることが不毛なことは理解している。精神論に浸るのも終わらせなければならない頃合いだ。そんなことできるかもわからないが。
――部屋には窓一つなく、籠もっていると時間感覚がわからなくなる。頼りは、決まった時間に食事配達してくれるメイドと深夜から早朝での低電力化のみ。設定された時刻になると電灯が弱まるプログラムが組み込まれているのだろう。
無気力に壁を見詰め、消灯に合わせて眠りにつく、というのが専らのルーティンだった。
だから――扉が開くのはこれが初めてだった。
ペタペタ、と足音がベッドに近づいてくる。
「ねぇ、起きてる? ねぇねぇ」
おねだりでもしているような可愛らしい声が室内に響く。
俺を刺しに来た刺客という線は薄そうだ。のそのそ、と上体を起こすことで返事する。
久し振りに会ったな――フィエリア。
袖の長い寝間着に纏った正真正銘の幼女がこんな時間に何の用だ。
夜這い、という線はあり得るだろうか。
「着いてきて」
一切の説明なく、俺はフィエリアに手を引かれるまま部屋を後にした。廊下の灯りに関しても低電力状態になっている。影部分が多く、昼とは違った不気味さを演出していた。
子供の歩幅は小さい、ペースを合わせているだけでも眠気が襲って来る。
開口一番で〈着いてきて〉とは――俺をどこに連れて行こうとしているんだ。迷宮の構造を覚えていない俺はもう彼女に委ねる他なかった。
フィエリアが立ち止まり、壁に掌を押し付ける。
扉が開いた瞬間、冷気が通り過ぎた。背中まで冷えて、全身が震える。外だ――俺達は展望デッキにやって来たのだ。
前回もフィエリアに連れて来てもらった。二ヶ月も前のことになる。随分と昔のことのように思える。
あの日は快晴の真っ昼間ということもあり、地平まで続く大草原や美しい峰々がよく観察できたものだ。
今回は真夜中だ。何も見えない――そう、断じたのも束の間、息を呑む光景が待っていた。
ここが世界の中心だと錯覚しそうになる程の万来の星々が、全天から俺を見下ろしている。星は真っ暗な空に白く、赤く、青く、強く、弱く、際限なく、輝く。
こんなにも美しい星々は元の世界なら南極にでも行かなければ拝めないだろう。文明の進化によって失われるものの一つだ。
「――どう?」
呼吸を忘れて空を見上げる中、フィエリアの口から言葉足らずの質問を投げ掛けられる。
どう、と言われましても。人生に一度見るか見られないかの絶景ではあることは確かだが。幻想的な景色だ――と、思いながら頷く。
ようやく、言葉を発さないことに〈ん?〉とフィエリアは首を傾げる。
声を出せない以上、察してくれなければ状況は進まない。とは言え、幼女に理解を求めるのは酷か。
「どうしたの?」
「…………」
「抱っこして」
「…………」
可愛い子供の我儘は聞くことにしている。
問題が発生した、人の抱き締め方なんて知らない。とりあえず、持ち上げてから考えるとしよう。田舎生活で鍛えられたので軽々と持ち上げられる、なんてことはないが子供一人分なら支えることはできる。
お姫様抱っこで――。
ペタペタ、と俺の喉を触って来る。
「声出せないの?」
頷くと、またペタペタ、と触られた。
俺が喋らないのは喉の――物理の問題ではないからフィエリアの献身は結果的には無駄なこと。
満足したのか手を離すと、今度はジッ、と俺のことを見詰める。
「――声出せるよね?」
「…………」
疑いの意思すら感じない純粋な眼。嘘に対する警戒も糾弾も皆無、単に質問しているだけなのがわかる。こんなこと大人にはできない。俺にももう、できない。
否定のために首を横に振ろうとして、動きが止まる。
喋ろう、という意思は全くない。それでもこの娘の前で嘘を吐きたくない、と思ってしまった。
自分を守るための嘘――その責任を自分で負う限り、どんな虚言も自由。だが、そんな手段を子供に教えたくない。どんな理由があっても嘘は良くないことだから。
立ち向かう勇気はないが、負けることは幾らでもできる。
「――どうしてわかったんだ?」
数週間振りに出した声は想像よりも掠れたものだった。
「ん、何となく」
「……子供の直感は侮れない、ってことか」
これが子供ならでは感受性の豊かさなのだろう。自分が汚い大人になってしまったようで虚しくなる。
そろそろ罪悪感でどうにかなりそうだったから丁度良かったかもしれない。
「どう?」
「この景色のこと?」
「うん」
「綺麗だと思うよ。この世界に星座があるなら知りたい」
「良かった。星座は知らないけど」
「……この景色を俺に見せようとしたの?」
「落ち込んでる、って聞いたから。綺麗な景色見れば元気になるかな、って」
フィエリアにまで気を遣わせしまうとは不覚だ。
だが、現実的に考えて不覚なのは当然だ。一度話しただけなのに、こんな優しさを向けてくれるなんて想像だにしていなかった。
実際、絶景に惑わされて目下の懊悩を忘れることができた。
「ありがとうな。フィエリアのお陰で少し気分が落ち着いたよ」
「うん」
フィエリアは頭全体を動かした相槌する。彼女を地面に降ろし、改めて全天を眺め尽くす。もしかすれば、この星のどれかが地球かもしれない――そんな妄想さえ自然と浮かぶ。
この時間がずっと続けば良いのに――。
「――どうして嘘吐いたか、とか訊かないのか? 喋れない振りしたこと」
遂に、我慢できずに俺は言った。これは俺にとっては意味があっても他人には不毛な質問。フィエリアが面食らうのも当然だ。
「嫌なことあった?」
「どストレートだな……そうだな、嫌なことだった。フィエリアは聞きたくないだろうけど、ちょっと身の丈話して良いですか?」
「うん」
否定してこない、とわかっていながら言う辺り、俺は筋金入りの屑だ。
誰かに聞いてもらいたかったなんて――今までずっと、耐えてきたのに。こんな悲劇のヒロイン振ることはしたくなかった。同情するためだけに被害者振りたくなかった。
でも、この致命傷を癒す方法を承認欲以外で知らない。
「俺は一ヶ月くらい〈名無し村〉、ってところに住んでたんだ。俺の名前と同じくらい酷い名前だよ。ここからマッハのバイクで数十分の出来たばかりの田舎村、こことは比べ物にならないくらい不便な場所だ。何もかも自分達がやらなきゃ生活が立ち行かない、ってくらいのな。最初はひたすらに辛かったな……まぁ、すぐ慣れたんだけどさ」
慣れない場所に慣れない生活、精神的にも肉体的にも多大なる負荷が掛かっていた。現代世界で鍛え上げられたストレス耐性がなければ途中で投げ出していた。同年代の子供もいたという事実は少なからず支えになっていた、と思う。
「――その村にハル、って娘がいたんだ。俺より二つ年下の。何を考えていたんだろうな、ハルは俺と家族になりたい、って言ってくれたんだ。どう向き合えば良いのかわからなくて時間をくれ、なんて情けないことを言ったんだけどさ」
情けないのは確かだが、そう簡単に決められる事案ではなかった。掛け値なく、今後の人生を左右するような選択。この若さで家族が増えることを考えさせられるとは思いもしなかった。
「色々……本当に色々考えたよ。良い、と思えた。今までのこと全部忘れて生活するのも悪くない、と思えたんだよ」
「好きだったの?」
「んー、微妙かな。でも、大切にしたかった。大切にしたい、と思えた。守りたい、とも。ハルが家族を欲しい、と思って俺にしかできないんだったら受け入れるつもりだった。でも――死んだ。返事をする前に俺の前で死んだ」
ハルは黒鬼に轢き殺されて腕以外の全てが跡形もなく消し飛んだ。
俺に彼女を守る力なんてなかった。大切にする、なんて言う資格がそもそもなかったのだ。その瞬間に俺の中の何かが弾けたんだと思う。壊れてはいけない大切な何かに致命傷が刻まれた。後はもう零れるだけだった。
「この理不尽な世界が許せない、と思っていた。ハルが死ぬまで。目の前で死ぬまで。でも、今はもう無理だ。ここは俺程度の力じゃ信念を持ち続けることすらできない世界だった」
エースのような理不尽を打ち砕くだけの力があれば、何も失わずに済んだ――。
結局は大言壮語。現実は弱肉強食。
俺はどこにでもいる元高校生だ。
法律があれば言葉で戦えても、そうでなければ俺にできることはない。人一人にできることは想像以上に少ない。
「だから――もう生きる理由を持てない。失うくらいなら最初から大切なものなんか作らなければ良かった、ってのは少し違うけど……大切なものばかりが手から零れ落ちる現実にもう耐えられない。生きることが怖いんだ」
心の中を曖昧なまま浸食する黒い病の正体を初めて言葉にした。言葉にても心を殺す靄が氷解することもなく、ただ抗いようのない感情を定義しただけ。
「――お兄さんは死にたいの?」
フィエリアから即座に飛んで来たのは端的かつ致命的な質問だった――。




