1.〈秩序統制機関〉――放浪者
◎
ただただ耳障りな砂嵐が前も見えないほど吹き荒れる。
目下は終末の黒砂に覆われ、数センチ先さえも見通せない。ここまで〈場〉が荒れれば、まず逃げることは叶わないだろう。
先程から砂嵐の中でも掻き消されない声量の悲鳴が至るところから上がっていた。正真正銘の文明の終末だ。
「――」
――助けなくちゃいけないのに、手を伸ばしても届かない。
そのためにここにいるのに、何もできない。
空から降って来る闇色の液体に足を取られ、転ぶ。起き上がれる気力はなかった。そのまま己の無力さに喘ぎながら沈む。
「――」
もう何も失いたくなかったのに――。
止められる可能性があったのは自分しかいなかったのに――。
だから――だからだからだからだからだからだからだからだからだからだから。
◎
「――ッ! っは、っは、はあっ…………あぁ…………――夢かよ…………」
恐ろしい夢を見た。吐き気すらしてくる悪臭漂う黒い泥に頭から突っ込み、身動きも取れないまま窒息するまで沈み込む、という想像するのも悍ましい強烈な悪夢である。
窒息死ほど辛い死に方もそうそうない。
夢とは思えない臨場感に背中は冷たい汗でびっしょりだ。見覚えのない病衣のような服が可哀想なことになっている。
窒息の苦しさもだが、それと同等くらい気が滅入った。理由もわからず他人の感情を押し付けられたような気分とでも言えば良いのか。
最悪の寝覚めだったから、少し認識が遅れた――。
「そっか、ここ異世界か」
見覚えのない天井どころか、見覚えのない部屋にポツリとあるベッドに一人だけ。
直前の記憶では確か――化物に食われそうになったところを赤髪の美少女に助けられた。
その後の記憶がない、ということは気を失ったという認識で良いのか。
「にしても不気味な部屋だな」
調度品の一切がない真っ白の一室――人体実験でもしてそうな研究所という印象を受ける。一週間、閉じ込められただけでおかしくなりそうだ。
天井に埋め込まれている縦長の照明、ブロックごとに区切られている外壁など近未来的な部分が嫌な想像を助長していた。
よくよく見れば出入口も見当たらない。本格的に胡散臭いことになって来た。
見たところ、身体に異常は見られないのでベッドから降りて部屋の構造を調査しようとしたタイミング――壁の一区画が上下にスライドして出入口が現れた。ハリウッドの映画でもこんな仕組みは見たことがない。
部屋に入ってきたのは記憶に新しい赤髪の少女と、見覚えのないメイド服を纏った少女の二人。
「…………」
初対面、怖過ぎる。
相手が目も眩むような美人、という点も助長しているが。
訊きたいことも、言いたいことも沢山あるのに何一つ口にできない己の心の弱さに落胆するばかりだ。
同年代みたいに見えるのが特に嫌だった。そんな訳で、俺は無言を貫き、口火を切ったのはあちらからだった。
「――顔色を見る限り、体調に問題はなさそうね」
赤髪の少女が刃のような鋭い眼で俺を見遣った。警戒と言うよりも値踏みするような視線、あまり愉快ではない。
「はぁ、まぁ……お陰様で大きな怪我はないですが」
「話くらい聞くことができそうで良かった」
異世界でも言葉が通じることは一安心ではあるが、あまり歓迎しているように聞こえない『良かった』だった。
メイドの方は行儀良く手を組み、目を伏せている。服装からしても付き添い、といった赴きだ。
「挨拶が遅れたわね、私は〈秩序統制機関〉戦闘局第一席――エース」
「エース――」
血潮が滾る真紅の瞳に相応しい力強い名前。初めて覚えた印象と完全に合致している。戦闘局一席とか言ってたし、名は体を表し過ぎた。如何にも魔物の頭を一撃で吹き飛ばしそうだ。
「このメイドの娘はムーン。それであなたの名前は?」
「…………」
エースがそのまま紹介したムーン、というメイドはたおやかに礼をする。ムーンはあくまでも無言らしい。
名乗られたからにはこちらも名乗り返すのが筋だ。軽く咳払いし、挨拶する。
「宜しくお願いします、俺の名前は――」
「どうしたの? 名前は?」
「おいおい、待て待て――」
――名前が思い出せない。
そんな馬鹿な話があるか。一七年も付き合ってきた両親が付けた名前を今更忘れるなんてあり得ない。
「名前は……名前はッ――何で思い出せない!?」
「その様子だと記憶が混濁しているようね」
「まさか、そんなことが実際に」
「あんなことがあったんだもの、記憶が飛んでもおかしくないと思う。その内治るんじゃないかしら」
「適当だ」
他人事だから、っておざなりになってないか?
彼女が責任を負う必要はないとは言え、言い方というものがあるだろう。
しかし、異世界に転移して記憶喪失するなんて随分と〈らしい〉展開じゃないの。見たところは凄いスキルを持っていたりする様子はないが。
「とは言え、呼び名がないのは不便ね。じゃあ――」
エースの言うことは尤もだ。
何も記号がないことは不便だし、それ以上に精神的に耐えられそうにない――何者でもないことほど虚しいことはなかった。
しかし、この流れはまさかエースさんが俺に名付けることになっていないか?
ほぼ初対面で名付けられる名前なんて期待できないぞ。黒髪とか雑魚とか呼ばれたら流石に恩人であっても反旗を翻すぞ。絶対に返り討ちに遭う、とわかっていてもな。
「……そうね、仮に〈放浪者〉とでも呼ぼうかしら」
「名前じゃねぇやん。まぁ、記憶喪失の俺にはぴったりではあるけど」
「決定ね」
「俺は記憶が蘇るまで自ら放浪者と名乗るのか」
こっちの方が名が体を表し過ぎだろ。下校中に突然、異世界に飛ばされた者として相応しい概念だ。
こんな呑気なことを考えていたからか、いつの間にか未知への不安感も薄らいでいた。知っている人がいないことも、名前を覚えていないことも――何だか受け入れられるような気がしてくる。
エースは〈放浪者さん〉と俺を呼んだ。
「記憶のこともあるから話はこの辺で切り上げるわ。ここには危険はないからゆっくり身体を休めなさい、話はまた今度聞かせてもらう」
「あ、あぁ……お気遣いありがとうございます」
「畏まらなくても良いわよ。何かあったらムーンに言いなさい」
言って、エースは颯爽と部屋を後にした。会社員の朝を思わせる忙しそうな早足だった。
追って、メイドのムーンも出口の前で優雅に一礼する。
「時間になりましたらお食事をお持ちします。所用があれば何なりとお申し付けください」
「ご丁寧にどうも」
懇切丁寧なお辞儀を最後に扉は静かに閉められた。次見た時にはもう入口がどこかわからなくなっている。
ムーンは仏頂面からは想像できないほど可愛らしい声だった。
深い息を吐きながら俺はベッドに身を投げ出し、改めて冷静に俺の置かれた状況について考えてみた。
どうしてこの世界に来たのか、どうして記憶が飛んでいるのか、元いた世界へ戻る方法さえわからない。
一種の〈典型的な展開〉――。
何にせよ、俺はこの世界のことを知らなくてはならない。生きていくために――自分らしく生きるために情報が圧倒的に足りない。
生憎、可及的速やかにやらなくてはならないこともできてしまった。
「一体俺は何者なんだろうな。思い出せれば良いけど」
出会ったのは〈秩序統制機関〉とかいう胡散臭い名前の組織だが、エースもムーンも良い娘に見えた。きっと安全という言葉に嘘はないはずだ。この新天地での合縁奇縁に感謝しながら今日は眠ることにしよう。
学校とか約束とか、時間に囚われることなく眠るのなんて一体何年振りだろう。そこだけは素直に感謝しよう。
「――少しくらい期待しても良いんだよな、異世界……」




