11.〈秩序統制機関〉――バイト老師
◎
――とんでもない失敗をやらかした。俺の人生で稀に見る大失敗。転んだ拍子にあんなことになるなんて想像だにしていなかった。
まさかあの超絶ベタ展開がジェットを対象にして起こるとは、見事なまでの空回りだ。
厨房から逃げ出した俺は向かったのは三階層――迷宮区だった。失敗の反省をするために一旦、俺のテリトリーと呼べる唯一の部屋に戻ろうと思ったのだ。
手伝うどころか最終的には邪魔をしただけになってしまった。これはジェットの絡繰多腕とかは関係なく、シンプルに申し訳ない。
初めからあの厨房はジェットという存在だけで完成されていた。部外者――否、不穏分子が立ち入れば、たちまち調和を乱してしまう。
「認識が甘かった……」
せめて俺がぶちまけてしまった分の掃除をしたかったが、存在するだけで迷惑がられる以上は黙認することが正解なのだろう。
通路の途中としか思えない壁に掌を押し当てると音もなく入口が現れる。廊下から室内に入った途端、溜めていたため息が全部出た。幸せが逃げる、という迷信が本物なら俺は人生最後の幸福を捨てたんじゃなかろうか――全く信じていないが。
「――お帰りなさいませ、放浪者様」
「……ムーン」
知らぬ間に誰かに侵入されるのももう慣れた。当たり強めなメイドがベッドの脇に置かれている椅子に腰を下ろしていた。朝起きて適当に畳んでいた布団が五つ星ホテルかのように綺麗に整えられている。女給としての仕事は既に終えている、となると要件は俺か。
「――エクスから話は聞きました」
「エクス?」
「あなたがどうしても恩返しがしたく、仕事を手伝いたい、と仰ったそうではないですか。抜作かと思いましたが殊勝な心掛けですね」
ありがとう、エクス――俺の策略を善意として捉え、紹介までしてくれた。後で沢山お礼を言わなくてはならない。
「抜作なんて言葉久振りに聞いたよ。まぁ――そう思ってくれることは光栄だ、とは言っておく」
「その上であなたの力は必要ありません、というのが私の解答です」
懇切丁寧に言われてるだけあり、拒絶の意味合いをジェットの時よりずっと強く感じる。
こう来ることはわかっていた、なんて恰好つけられたのは数十分前までのこと。今はただただズキン、と心が痛むだけだった。
「――と言うのが私の本音ですが今回はエクスの顔を立てようと思います。全く期待はしていませんが試してあげます」
「上げて下げるとかバラエティーがわかってるな……――ご厚意痛み入ります」
「では、早速始めましょう。仕事は溢れる程ありますから――丁度良いことにエプロンも着けているようですしね」
「あ、あぁ……」
「それは誰から?」
「エースが貸してくれた。あなたは黒だからとか意味わからない理由だったけど」
「――そうですか。着いてきてください、これからランドリールームへ向かいます」
場所を移動して〈パルテン・オーダー〉二階層、食堂とは逆方向に進んだ先の廊下を行く。部屋が左右に等間隔で並んでいる。入口部分にはプレートが掛かっており、どんな用途の部屋なのかが書かれている。俺はここで使われている文字を読むことができない。
ある扉の前で立ち止まったムーンは壁面のコンソールに掌を押し当てる。
「ここの扉は私を含めて数人しか開けることができません」
「ランドリールームなのに厳重なことだな」
「良からぬことは考えないように」
「そういうことか。入れたとしても変なことはしねぇよ」
急な宣言は俺への牽制だった。自ら手伝いを申し出て変態行為を働く程人間性は捨てていない。
使用済みタオルや下着に興奮する癖はない。基本的に洗濯物というのは汚いものな訳で、潔癖ではないにせよ綺麗好きの俺としては堪能するとかは全く考えられない。
ランドリールームと言うから勝手なイメージとしてコインランドリーのようなものを想像していたが、完全に見当違いだった。洗濯機が沢山並ぶことはなく、大きな洗濯機らしきものが一台鎮座していた。
加速器の実験装置のようなドラム式洗濯機である。効率化の末に似た形になるのは納得できるものの、スケールの違いには慣れそうにない。
「……もしかして、乾燥機の機能も付いてる?」
「よくわかりましたね。洗濯を終えて乾燥まで終わったものがそこのバスケットに入っています。あなたの仕事は洗濯物を仕分けて畳むことです」
「……それだけで良いのか?」
「えぇ、これだけです」
この船に何人住んでいるかは知らないが、あまりにも簡単過ぎる。一人暮らしで毎日洗濯をしていた俺としては肩透かしも良いところだ。
いや、この程度の仕事しか回して貰えない、って方が現実的か。俺の信用度だと誰にでもできる単純作業しか任せられない訳だ。徹底的な現実に文句も不平も言うつもりはない。
ただ淡々と、粛々と任せられた使命を全うするのみ。仕事に対する一意専心は〈名無し村〉にいた頃から続けている。
ムーンが籠の中から取り出したのはよくエース達が着ているこの船の制服。肩の部分を持って真っ直ぐに伸ばす。
「――畳み方はこうです。わかりましたか?」
「ちょ……早過ぎる、って!」
「……わかりました、もう一度だけ見せます。やってみてください」
今にもため息でも吐きそうな煩わしい顔だ。
新たに取り出した制服を再度、ムーンが折り畳む。今度は見逃さないように注視した。注視したの、にいつの間にか袖が内側に折り畳まれて四角になっていた。早業であり神業。舌を巻く程鮮やかなお手並みだったが、手本としては最悪中の最悪だ。教える気ゼロじゃねぇか。
よりにもとって女子の制服――俺は一人暮らしだった、女子の服の畳み方なんて知らない。それでも記憶と感覚を頼りに、見様見真似で折り畳む。ムーンが冷たい眼で俺の手元の制服を見下ろしていた。
「違います。やり直してください」
「はい……」
訂正する癖にどこが間違っているかを教えるつもりはないらしい。不親切設計極まれり。理不尽な仕事が始まった。
「違います。やり直してください」
「はい」
「違います。やり直してください」
「……はい」
「違います。やり直してください」
「――」
「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」「違います。やり直してください」
「――」
ムーンの一貫した態度はまさにドラマで出て来る悪役メイドそのものだった。
ヤバい、高校生にもなって泣きそうだ――。
ムーンの上から抑えつけられるような凍えた圧迫感にメンタルがぶっ壊される。度重なる思考と努力の全てを否定されたような気分になってくる。
悠久にも思われる、尋問よりも辛い時間が終わったのは恐らく、作業開始から二時間程が経った頃だろう。
「――辛うじて及第点、と言ったところでしょうか」
「…………」
この間、俺が畳めた制服はたったの三枚だった。折檻ではないが、気分はまさにそんな感じだ。
「顔色が悪いですね」
「とんでもない皮肉だな。色々思うところはあるよ……そう年が変わらない人にメンタルをボコボコにされれば否が応でもな」
「その割には逃げませんでしたね。度胸がないだけなのかもしれませんが」
「一々棘があるな。それは逃げ帰る場所がある奴しかできないだろ」
この世界に俺の居場所はない。居場所になるかもしれなかった場所は魔獣に滅ぼされた。何の後ろ盾もない現状、〈秩序統制機関〉から捨てられれば俺は本当の孤独を味わう。
「投げ出したら終わるだけだから。最近までは終わっても良い、と思ってたんだけど」
「そうですか」
俺の事情など知る由もないおざなりな相槌が返って来た。
ムーンは俺に向き直り、真っ直ぐ見詰めてくる。
「メイドは――この船に乗る人達の日々の生活の質を少しでも向上させるために一つ一つの物事を完璧にこなさなければなりません」
「はい」
「――あなたはクビです。圧倒的に足りていません、知識も配慮も思考も誠実さも」
「……わかりました。短い間でしたが、ご指導ご鞭撻ありがとうございました。今後の発展を遠くからではありますが期待しております」
結局――俺はムーンが要求する結果を残すことができなかった、ただそれだけのこと。
ムーンは俺へ指摘をしている間、自らの仕事はしていなかった。だから、この時間は誰も幸せにならない無駄そのもの。
帰り道は鉛を担いでいるようだった。二度目の失敗。一度目は事故という言い訳も立ったが、今回は純粋に心を抓む戦いに敗北した。フィエリアとの対話で立ち直っていたのに見事なまでに打ち砕かれた。
「こんなに落ち込むタイプだったんだな俺、って……」
泥のように眠って忘れたい、という感情。
どこか遠くに行って全てを忘れたい、という感情。
どちらにせよ現実から目を背けることしか考えていない自分に呆れる。どちらの選択肢を選ぶこともできずに俺が辿り着いたのはランドリールームに行く途中に並んでいた部屋の一つ――壁に手を付いて歩いた時にたまたま開くくらいセキュリティが甘い部屋だった。
場所は何も考えずに時間が過ごせればどこでも良かったのだが――。
「――たまたま着いたにしては皮肉めいているな。よりにもよって図書室かよ」
スケールを鑑みれば図書室と言うよりも図書館という方が適切か。見渡す限りの本棚の全てに書物が詰め込まれている。どれも読めはしないが、沢山あるというだけで圧倒される。
高校生の頃は教室の喧騒に耐えられず、よく図書室に籠もっていた。辛いことがあって一人になりたかった。あまり良い思い出はない。
背の高い本棚の間の通路、その先に読書スペースがあった。四人掛けのテーブルが四セット、その内の一つに着席する。今も昔も変わらず、本も読まずに机に突っ伏す。
こうやっても嫌なことを忘れられた試しがないのに、いつもいつも繰り返す――。
「――あら? お客さんですか?」
清水のように透き通った女性の声が背後から聞こえて来る。出会ったことのない人物だ。
あいにく反応する程の元気はなかったため、寝ている振りを決め込ませてもらう。それ以上、声を掛けられることはなかった。足音が真正面に移動する。彼女は何故か俺の前の席に座った。
空いている席があれだけあるのにどうして……――途中まで考えて思考を放棄する。何も考えたくないからここに来たのだ、余計に頭を使いたくない。
「――……」
「――……」
声を掛けられることはなかった。なかったが、尋常ではない目力を頭頂部から感じている。
気づかなければそのまま眠ることもできただろう。だが、認識してしまった時点で手遅れだった。視覚が排されているからこそ、聴覚や触覚が過剰に反応する。駄目だ、このまま放置していると余りのストレスに蕁麻疹を発症してしまいそうだ。
明るさに眼を慣らしてから顔を上げる。
「――あら? おはようございます、噂の放浪者さん」
亜麻色の長髪を携えた美少女がたおやかな仕草で微笑んだ。色素の薄い瞳が俺を映す。




