III
振り返ろうとした瞬間、背後に立つ大男の姿が目に入った。
デカい。……いや、デカすぎる。
……油断した。
この体格では、逃げ切れる気がしない。
大男は俺を荷物でも運ぶかのように軽々と持ち上げ、そのまま小屋の中へと運び込んだ。同時に、先ほどの男二人が慌てて馬小屋のほうへ走っていく。
おそらく、隠し通路の入口を封鎖しに行ったのだろう。
小屋の中へ放り込まれた俺は、両手を後ろ手に縛られ、石床に乱暴に押しつけられた。
目の前には、同じように縛られた女の子が倒れていた。
……この子が、カハのお姉さんか。
彼女は目を見開き、じっとこちらを見つめている。口には長い布が巻かれ、声を上げることすらできないようだった。
……ジークが悪党どもを蹴散らしてから登場できれば、彼女を格好よく救えたのに。
「貴様、貴族の息子か?」
俺を見下ろしているのは、四十代……いや、五十代くらいの男だった。
右手には杖を持ち、上等な服をきっちりと着こなしている。執事のセバスを思わせる、隙のない身なりだ。
少なくとも、先ほどの男たちとは格が違う。
さて、どうするか。
「まあ、身なりを見れば明白なのでは?」
「お貴族様の小僧が、なぜこんなところをうろついている?」
「散歩していたんだ。それで、この小屋を見かけて寄ってみただけさ」
「……やれ」
老人が短く命じた。
直後、背後にいた大男の拳が俺の腹にめり込んだ。
「ぐっ……!」
猛烈な痛みが腹部を駆け抜け、吐き気が込み上げる。呼吸すらままならない。
「こんな嵐の日に、街外れの森を散歩する者がおるか。調子に乗るんじゃないぞ、小僧」
商品ではない俺は、彼女と同じ扱いをされないといことか...当たり前だけど。
貴族の息子だって買い手くらいいるんじゃないのか。もっと大事にしてもいいのに。
「旦那、入口は封鎖してやったぜ。近くに、こいつの足跡も残ってた」
戻ってきた男の一人が報告する。
早いな。
まあ、こういう緊急事態に備えて、すぐ封鎖できる仕掛けを用意していてもおかしくない。
問題は、ジークがそれを突破できるかどうかだ。
……ただ重い石を置いただけかもしれない。
いや、少し楽観的すぎるか?
「お前たち……やはり、誰かに見られたのではないのか?」
「誰もいませんでしたよ、旦那。なあ?」
「そ、そうだ! 時計塔に入る前だって、何度も周りを確認したぜ!」
こいつら、ポンコツなのか、それとも、タスカの尾行がうまかったのだろうか。
「俺はこの人たちを知らないよ? さっき初めて見た」
「ほら、こいつもそう言って――」
男は老人に睨まれ、口をつぐんだ。
「では、なぜ隠し通路の存在を知っている? どうやってここへ来た?」
さて、ここからが勝負だ。
「家名は明かせないが、俺の父はそれなりに権力を持つ領主でね」
「こいつ、貴族のガキだったのか……」
「本来、この街に泊まる予定はなかったんだが、見てのとおりの嵐だ。仕方なく滞在している」
嘘は言っていない。
この調子だ。
「それで、俺の趣味の話になるんだが……古い建築物に興味があってね。宿の部屋から、あの時計塔が見えたんだ。それで見に行ってみたら、偶然、隠し通路を見つけたというわけさ」
「それで、一人でここまで来たと?」
「そうだ。隠し通路なんて、冒険心をくすぐるだろう? 見つけたときの俺のわくわくが、あんたに分かるか?」
「では、なぜ一人なのだ? 貴族の嫡男なら、護衛騎士の一人や二人は連れているであろう?」
「別に、一人じゃないよ」
「何?」
大男と男二人が、一斉に周囲を警戒した。
……うん。いい反応だ。
「どこにも誰もいねえじゃねえか! このはったり野郎!」
「あの入口の下、階段のところで一人待たせてあるよ」
「お前たち、封鎖するときに階段の下まで確認したのか?」
「い、いや……こいつ一人だと思ってたんで」
「で、でも、誰かがいる気配なんてしなかったぜ、旦那」
「そりゃそうだ。奴隷だからな。あいつらの仕事は、気配を消して空気になることだ。俺がそう『教育』したからな」
俺は偉そうに肩をすくめた。
「最後に、入口の下で待機していろと命じたんだ。あいつなら、俺が戻るまで何時間でも待ち続けるだろうよ。荷物持ちと肉壁くらいしか能がない、間抜けな奴だからな」
「……ひでえ」
男の一人が、思わずといった様子でつぶやいた。
「やっぱ貴族って、こういうクソ野郎ばっかりなのかよ……」
その言葉に、俺の隣で横たわっていたカハの姉が、こちらを見た。
先ほどまで案じるような目を向けていた彼女の視線が、今では完全にゴミを見る目になっている。
……我ながら、なかなかの名演技らしい。
ごめんなさい。
でも、君を助けるために、もう少しだけ利用させてもらうよ。
「それより、商売の話をしようじゃないか。お互いに利益のある話だ」
「商売だと?」
老人の目つきが変わった。
よし。食いついた。
金のために人を売るような外道だ。こちらが金の話を持ち出せば、無視できるはずがない。
「あんたたち、なかなかいい『商品』を持っているじゃないか」
「……こいつか?」
「ああ。そろそろ新しいおもちゃが欲しくてね。俺に売る気はないか?」
もちろん、全部演技だ。
だが、言葉を選んでいる余裕はない。相手に怪しまれないよう、徹底的に嫌な貴族を演じる。
カハの姉が暴れ始めた。
本当にごめん。あと少しだけ我慢してくれ。
「仲介料なしで、俺と直接取引するんだ。オークションに出すより、何倍も儲かると思うが?」
「旦那……」
老人はしばらく俺を見つめていた。
「どうする?」
やがて、老人の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……いくら出す?」
よし。
「父から金貨二枚を自由に使っていいと言われている。これだけ壊し甲斐のありそうな相手には、そうそう出会えないからな。銀貨五十枚でどうだ?」
「銀貨五十枚だと? 舐めてんのか! オークションに出せば、この嬢ちゃんくらいになると金貨一枚で売――」
「お前、交渉相手に何を相場までぺらぺら喋ってるんだ?」
「……あ」
男が老人に睨まれ、口を閉じた。
まあ、相場が分かったところで、今の俺には何の役にも立たないが。
「金貨一枚? 笑わせるな。所詮、平民の小娘だ。せいぜい銀貨八十枚といったところだろう」
「金貨一枚と銀貨五十枚だ」
「それでは俺にとって、損しかないのでは?」
「貴様、自分の立場が分かっているのか?」
よく言う。
この狸親父は、今も金のことしか考えていない。
俺をここで殺すことだってできるはずだ。だが、それでは将来の取引相手を失うことになる。少なくとも、こいつはそう考える程度には、貴族社会の常識を身につけている。
だからこそ、俺の態度も理解できるのだろう。
身分のある人間が、金をちらつかせて傲慢に振る舞う。あいつらにとっては、見慣れた光景に違いない。
「分かった、分かった。金貨一枚と銀貨二十枚で勘弁してやろう。こいつを『教育』するための道具も、新しく買わなければならんからな」
老人が、そこで初めてにたりと笑った。
「それはそうだな。では、取引成立だ。おい」
合図を受けた大男が、俺の後ろ手に縛られた縄をほどいた。
俺は自由になった手を伸ばし、老人と握手する。
「ああ、取引成立だ」
「……まだ、貴様を信用したわけではないぞ」
「警戒しすぎだろう。紙とペンはあるか?」
老人は不審そうに眉を寄せたものの、手下に合図を送った。
間もなく、紙と羽ペンが運ばれてくる。
俺は男たちにじっと見張られながら、紙に文字を書きつけた。
――五分後にまた入口が開く。魔法金庫を外へ押し出せ。
貴族が金や貴重品を持ち運ぶための、小型の魔道具だ。もっとも、今は実物を持っているわけではない。
地下にいるはずの従者がそれを持っている。そういう設定だ。
「この手紙を入口まで届けてくれ。下にいる従者に渡せばいい。入口に少し隙間があれば、そこから投げ込んでも構わない」
俺は紙を折りたたみ、老人へ差し出した。
「五分待ってくれ。それでも金庫が届かなかったら、俺をどうしようと自由だ」
「旦那、どうします?」
老人は紙を裏返し、念入りに確認した。
俺の顔と紙を交互に見比べ、しばらく考え込む。
どうぞ好きなだけ確認すればいい。
その中身はどうでもいい。
さあ、どうする?
金の話には乗った。俺の身分も信じ始めている。あとは、欲をかいてくれることを祈るしかない。
「……よかろう。行け」
「は、はい!」
大男を含めた三人が、紙を持って小屋から出ていった。
封鎖を解くには、複数人の力が必要なのだろうか。それとも、本当に重い石でも置いただけなのか。
いや、それだったらすでにジークに突破されているはず。
男たちが出ていってから、どれくらい経っただろう。
……一分か。
たった一分なのに、ひどく長く感じる。
老人は杖を握りしめ、落ち着かない様子で窓の外を気にしていた。
そして――
ドガァンッ!!
まるで雷がすぐ近くに落ちたかのような轟音が響いた。
直後、男たちの悲鳴が馬のいななきをかき消す。
「ん……? 何が起きたのじゃ?」
老人は窓へと駆け寄った。
外を確認したその顔から、余裕が消えていく。
そして、ゆっくりと振り返り、俺を睨みつけた。
「貴様……何をした?」
そう、重要なのはその紙の中身ではなかった。
封鎖を解くその一瞬だけ。
ジークにとってそれで十分だろう。
俺はできる限り余裕のある笑みを浮かべた。
「ああ。俺の騎士が、優秀なものでな」




