II
暗闇の中、足元に気をつけながら、俺は螺旋階段を降りていった。
十メートルほど降りたところで、階段が途切れた。
目の前にあったのは、一枚の木製の扉だった。ドアの隙間から、かすかな光が漏れている。
俺は扉に耳を押し当て、向こう側の様子をうかがった。
……近くに人の気配はない。声も聞こえない。
「よし」
静かに扉を開き、中へと足を踏み入れた。
ここで鍵がかかっていたら、おしまいだった。
扉の向こうには、長い廊下が続いていた。壁に取り付けられた魔石灯が、薄暗い光で通路を照らしている。
やはり、人の気配はない。
道が分岐することもなく、ただひたすらに廊下が続いていた。何度か急な曲がり角を通り過ぎたものの、それ以外に変わったことはない。
いったい、どれくらい歩いたのだろうか。
少なくとも二十分は経っているはずだ。
隠された地下拠点でもあるのかと思っていたが、どうやら違うらしい。ここは何かを隠すための場所ではなく、別の場所へ移動するための秘密の通路にすぎないようだ。
そして、さらにしばらく歩いたところで、ようやく廊下が途切れた。
そこには、先ほどと同じような木製の扉があった。
慎重に扉を開くと、今度は上へと続く階段が現れた。
どうやら、目的地に着いたようだ。
階段を上りきると、天井には鉄製の蓋が取り付けられていた。地上へ出るためのものだろう。
試しに両手で押してみる。
……動く。
思ったよりも簡単に開きそうだ。
俺は蓋に手をかけたまま、じっと耳を澄ませた。
人の声は聞こえない。
だが、何かが動く気配はある。
それに、さっきから時折、妙な鳴き声が聞こえていた。獣の声だろうか。
俺はゆっくりと蓋を押し上げ、外の様子を確認してから地上へ這い出た。
その瞬間、鼻を突いたのは、雨に濡れた木材と、独特の獣臭さだった。
そして、すぐ近くから馬のいななきが聞こえた。
……なるほど。
秘密の通路がつながっていたのは、馬小屋のようだ。
馬たちは突然現れた俺に少しだけ反応したものの、すぐに興味を失ったように首を戻した。
助かった。
番犬でもいたらどうしようかと思っていたが、少なくとも、今のところは見当たらない。
通路を歩いた距離から考えると、ここは街の外だろう。
馬小屋の隣には、小さな一軒家が建っていた。質素な造りの、田舎にでもありそうな小屋だ。周囲を見渡しても、ほかには木々が生い茂っているだけだった。
なるほどな。
これなら街の門を通らずに出入りできる。人目を避けたい連中にとっては、ずいぶんと便利な抜け道だ。
馬はまだいる。小屋の前には馬車も停まったままだ。
つまり、カハちゃんの姉がまだここにいる可能性は高い。
少なくとも、すでに馬車で連れ去られたわけではなさそうだ。
俺は雨でびしょ濡れになりながら、小屋へと近づいた。
……本当に効果があるんだろうな、これ。
自分でも情けないと思いつつ、俺は思わず腰を落とした姿勢になった。
その姿勢のまま、壁に沿って慎重に進む。
すると、開いた窓からタバコの煙と男たちの声が流れてきた。
「おい、またイカサマしただろうが!」
「バカ言え。お前が弱いだけだろ」
「てめえ、もう一回言ってみろ!」
「何度でも言ってやるよ。ほら、さっさと賭け金を出せ」
どうやら、二人の男がこの世界のトランプに似た札遊びをしているらしい。
貴族育ちの俺は平民の遊びに詳しくない。
「ちくしょう……今日はついてねえな」
「女を一人捕まえたんだ。報酬が入れば、こんな端金どうでもいいだろ」
そのとき、小屋の中から乱暴な物音が響いた。
「おい、また暴れてるぞ」
「またかよ」
「腹に一発食らわせりゃ、黙るのによ」
「何が『女に傷一つつけるな』だよ……面倒くせえ話だ」
「なあ、やっぱ俺たちで楽しんじまおうぜ。バレなきゃ大丈夫だろ?」
「バカ言うんじゃねえよ。お前、バレない程度で我慢できるのか?」
「……そりゃ、できねえな」
「だろう? お偉いさん方の品に傷でもつけてみろ。報酬どころか、俺たちの首が飛ぶぜ」
「運がいいな、嬢ちゃんよ」
俺は思わず息を吐いた。
ひどい話だ。
だが、今の俺にとっては、彼らの下劣な会話がむしろ安心材料になっていた。
少なくとも、依頼主から傷をつけるなと命じられているらしい。カハちゃんの姉が無事である可能性は高い。
おそらく、雨が止むのを待っているのだろう。
なら、あとは適当な場所に隠れ、ジークが来るのを待てばいい。
そのとき。
小屋の反対側、玄関のある方向から、馬の足音と馬車の車輪が地面を踏む音が聞こえてきた。
誰か来たのか?
小屋の中から聞こえていた男たちの会話が、ぴたりと止まった。
続いて、慌ただしい足音。扉の開く音。そして、複数の足音が再びこちらへ近づいてくる。
「で、もう一人はどこだ?」
聞こえてきたのは、年老いた男の声だった。
「もう一人って……?」
「こいつの妹だ。ガキがいただろう?」
「ああ、いや……ガキだったし、依頼はこの女だったんで」
「馬鹿野郎!!」
「ひいいっ!」
老人の怒鳴り声が、雨音をかき消すほど響いた。
「ガキにはガキで売る当てがあるんだよ。それに、あの女の足枷にもなる。なぜ一緒に捕まえてこなかった!」
俺は拳を強く握りしめた。
落ち着け。
ジークが来るまでの辛抱だ。
「慎重に動けと、あれだけ注意したのに……この役立たずどもめ」
「心配しすぎですよ、旦那。俺たちがこの仕事でヘマをするわけ――」
「黙れ!」
「ひいいっ!」
……ずいぶんと気の荒い爺さんだな。
男たちの様子からして、こいつが今回の仕事を仕切っている人物なのだろう。
そのとき、老人がふと声を低くした。
「……おい」
「そこにいる、こそこそしているネズミを捕まえろ」
――え?
背筋が凍った。
バレた?
考える間もなかった。
背後から突然、腕をつかまれた。
「っ!?」
振り返るより早く、体を強く押さえ込まれる。腕も肩も、まるで鉄の枷でもはめられたかのように動かない。
いつの間に……!
窓から、先ほどの男たちが顔を出した。
「おい、お前……どうやってここに来た!?」
「まずいぜ、旦那! 聞いてくれ、俺たちは何も知らなくて……!」
「お前らは黙っていろ」
老人は男たちを一喝すると、俺を捕らえている何者かに命じた。
「そいつを中へ連れてきなさい」
そして、窓辺の二人に向かって続ける。
「お前たちは、すぐに隠し通路の入口を封鎖しろ。誰も通すな」
「は、はい!」
男たちは慌てて窓から姿を消した。
……封鎖?
入口を塞がれたら、ジークは入ってこられない。
これは、本当にまずいことになった。




