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4/7

I

「……ひきちっ!」


 静かな部屋に、盛大なくしゃみが響いた。


「今、くしゃみしましたか?」


「いいえ。ロードの気のせいかと」


 ジークはいつもの調子で答えた。


 いや、鼻水が出ているよ?


 何が水魔法に対する耐性だ。普通に寒いんじゃないか。


「いいから、濡れた服を着替えて暖を取っていろ」


「面目ございません」


 ジークが申し訳なさそうに頭を下げる。


「それで、ロード。その子供をどうなさるおつもりですか?」


 倒れていた少女は、ひとまず宿の部屋まで運んできた。


 宿の女将さんに事情を説明すると、彼女は手際よく少女の濡れた服を脱がせ、身体を拭き、自分の娘が昔着ていた服に着替えさせてくれた。


 もちろん、タダではない。


 着替えや部屋の使用料、その他諸々の代金はしっかり請求された。


 女将さんは余計な詮索をしてこなかった。


 長年宿を営んできた彼女は、客の事情に深入りしても、ろくなことにならないと知っているのだろう。


「女将さんに身体を確認してもらったけど、目立った外傷はないそうだ」


「となると、熱か、疲労でしょうか。あるいは……」


「何らかの病気か」


 見たところ、病気らしい症状はない。


 少なくとも、外から分かる範囲では。


 持っている回復ポーションも飲ませておいた。


 これも貴重なものではあるが、目の前で倒れていた子供を見捨てるわけにもいかない。


「……う、ん」


 そのとき、ベッドの上の少女が小さく身じろぎした。


 ゆっくりと目を開き、身体を起こそうとする。


「こ……ここは……?」


「宿屋だよ。君が外で倒れていたから、ここまで運んできたんだ」


「や、宿……?」


 少女はぼんやりと周囲を見回した。


 そして、何かを思い出したかのように顔色を変える。


「あっ……! お姉ちゃん……! お姉ちゃんを助けないと!」


 慌ててベッドから降りようとする。


「落ち着いて。まだ完全に回復していないんだ。今飛び出しても、また倒れるだけだよ」


「で、でも……!」


「まずは落ち着こう。俺はヴィル。君の名前を教えてくれる?」


「……カハ。カハは、カハなの」


「カハちゃんね」


 どうやら、話は通じる子らしい。


 ずっとこの調子で慌てられたら、こちらも困ってしまう。


「それで、カハちゃん。どうしてあんな嵐の中を一人で歩いていたの? それと、お姉ちゃんはどうしたのかな?」


 少女はすぐには答えなかった。


 代わりに、こちらの顔をじっと見つめてくる。


「……お兄ちゃんたちは、いい人なの?」


 なるほど。


 子供なりに警戒しているわけか。


 まあ、悪い人間が自分から悪人だと名乗ることもない。


「うん。いい人だよ」


 なんだか子供騙しな言い方になってしまった。


「……ほんとう?」


「本当だ」


 カハの目に、みるみる涙が溜まっていった。


 そして、小さな手で顔を覆う。


「うっ……うう……」


「……大丈夫。もう少し休んでいいからね」


 よほど怖い思いをしたのだろう。


「まずは、これを食べなさい」


 ジークが、温かいパンを差し出した。


 表面には、とろけたチーズがたっぷり乗っている。


 宿の食堂から持ってきてくれたらしい。


 ……さすがイケメン騎士様。


 カハはパンを見つめたあと、ちらりとこちらの顔をうかがった。


「食べていいよ」


 少し迷っていたが、お腹が小さく鳴ると、おずおずと受け取って、一口かじった。


「……おいしい」


「それはよかった。あとで女将さんにも伝えてあげよう」


 しばらくして、カハはパンを食べ終えた。


 表情にも、少しだけ余裕が戻っている。


「落ち着いたかな?」


「……うん」


「じゃあ、カハちゃん。お姉ちゃんのことを教えてくれる?」


 カハは小さく頷いた。


「お姉ちゃんは……悪い人たちに、連れていかれちゃったの」


 誘拐か。奴隷として売り飛ばすつもりなのか。


 もちろんこの世界にも人身売買は存在する。


「お姉ちゃんがね、カハに逃げてって言ったの。それで……お姉ちゃんを助けてって、街でずっと走ってたの」


 カハは膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。


「でも、誰も聞いてくれなかったの……」


 こんな嵐の中で、子供が助けを求めて叫んだところで、建物の中にいる人間には届かないだろう。


 仮に聞こえたとしても、見知らぬ人間を助けるために危険を冒す者がどれだけいるのか。


「ロード」


 ジークがこちらを見る。


 どうするのか、と尋ねているのだろう。


「……カハちゃん」


 俺は少女と目線を合わせた。


「君のお姉ちゃんは、俺たちが助けるよ」


「……ほんとう?」


「ああ。必ず助け出して、君のところへ連れて帰る」


「……お姉ちゃんに、会える?」


「もちろん」


 カハの顔に、わずかな希望が戻った。


「ありがとう、お兄ちゃん……!」


 とは言ったが、問題はここからだ。


 犯人が誰なのかも分からない。


 どこへ連れていかれたのかも分からない。


 しかも、外はこの嵐だ。


 誘拐犯にとっては、足跡も消え、目撃者も外に出てこない、絶好の機会だったに違いない。


 さて、どうしたものか。


「ジーク。二手に分かれて行動しよう」


「承知いたしました。ご命令を」


「俺はカハちゃんと一緒に、姉がさらわれた場所を調べる。ジークは街の門へ行って、怪しい馬車が出入りしていないか確認してほしい」


「なるほど。犯人がまだ街の中にいるかどうかを調べるのですね」


 街の中にいるなら、まだ追いつける可能性がある。


 すでに外へ出ていた場合は……少し厄介だ。


「門番への聞き込みには、これを使ってくれ」


 俺は懐から銅貨を数枚取り出し、ジークに渡した。


「必要なら、話を聞くための飲み物代くらいにはなるだろう」


「かしこまりました」


「それと、女将さんから雨具を借りておいてくれ。俺の外套ほどではないけど、頭くらいは守れるはずだ」


「ご心配には及びません、ロード。今回は油断いたしません」


「……本当に気をつけてくれよ」


「合流場所はこの宿だ。何か分かったら戻ってきてくれ」


「承知いたしました。ロードも、どうかお気をつけて」


「ああ」


 こうして、俺たちは別行動を取ることになった。


 宿を出る前に、俺は自分の外套を広げた。


「カハちゃん、こっちへおいで」


「……?」


 小さな身体を抱き上げ、外套の内側に入れる。


「これなら、少しは雨を防げるだろう」


「……あったかい」


「それはよかった」


 俺たちは宿を出た。


 * * *


 激しい雨が、容赦なく地面を叩いている。


「カハちゃん。お姉ちゃんが連れていかれたのは、どっち?」


「あっち……! あの角を右に曲がるの」


「分かった。よく覚えているね。えらいよ」


「うん。お姉ちゃんとね、お休みの日によく街を歩くの」


 カハが少しだけ嬉しそうに話し始めた。


「お姉ちゃん、ときどきおいしいものを買ってくれるの」


「へえ。優しいお姉ちゃんなんだね」


「うん!」


「カハちゃん、お姉ちゃんはどんな仕事をしているの?」


「大きなお家で、お掃除とかお料理をしてる」


 メイドや使用人の類か。 


 貴族か、裕福な商人の家に仕えているのだろう。


「お父さんとお母さんは?」


「……覚えてないの」


 カハは少し考えてから答えた。


「ずっと、お姉ちゃんと二人で暮らしてるの」


「そうか……」


 事情が見えてきた。


 カハの案内に従って進んでいくと、街の西側にある一角へたどり着いた。

 先ほどの宿がある中心部と比べると、明らかに様子が違う。


 建物は古く、壁にはひびが入っている。


 道も狭く、石畳が途切れて泥道になっている場所さえあった。


 貧民街というほどではないが、裕福な地区ではない。


 おそらく、街の平民の多くがこの辺りで暮らしているのだろう。


 ……父上が治めるローウェン伯爵領では、あまり見かけなかった光景だ。

 街の中心部とは違い、人通りもほとんどない。


 カハが助けを求めても、誰も耳を貸さなかった理由が少し分かった気がした。


 危険な目に遭いたくない。


 面倒事に巻き込まれたくない。


 それは、誰にとっても自然な感情なのだろう。


「……ここだよ」


 カハが指さした先に、小さな家があった。


 俺たちはその周辺を調べた。


「カハちゃん。お姉ちゃんを連れていった人たちは、どっちへ向かったか覚えている?」


「……分からない」


「そっか。じゃあ、何人いた?」


「二人……だったと思う」


「顔は見た?」


 カハは首を横に振った。


 雨のせいもあって、はっきりとは覚えていないらしい。


 ……困ったな。


 映画や小説なら、事件現場に行けば何かしら手掛かりが見つかるものだが、現実はそう甘くない。


 雨で足跡は消えている。


 目撃者がいたとしても、協力してくれるとは限らない。


 そもそも、悠長に聞き込みをしている時間もない。


「お兄ちゃん……」


 カハが不安そうに見上げてくる。


「ああ、ごめん。大丈夫だよ」


 とりあえず、ジークの調査結果を待つべきか。


 そう考えた、そのときだった。


「あの……」


 背後から声がした。


 振り返ると、カハと同じくらいの年齢の男の子が立っていた。


 全身びしょ濡れで、息も少し上がっている。


「タスカ君!」


 カハが声を上げた。


「知り合い?」


「うん! タスカ君はね、足がとっても速いの!」


 ……第一声がそれか。


 やっぱり、この年頃の子供にとって、足が速いのは大きなステータスらしい。


「それで、タスカ君。何かあったの?」


 少年は少し緊張した様子で頷いた。


「……俺、窓から見たんだ」


「見た?」


「カハのお姉ちゃんを、二人の男が連れていくところ」


「本当なの、タスカ君!?」


「うん。それで、追いかけたんだ」


 タスカは街の奥を指さした。


「二人が、あの建物に入っていくのを見た」


「それで、戻ってきたら今度はカハがいなくなってて……ずっと探してたんだ」


「タスカと言ったな。その建物まで案内してくれるか?」


「う、うん!」


「ありがとう。助かるよ」


 タスカは頷くと、すぐに走り出した。


 ……本当に足が速いな。


 俺もカハを抱えたまま、必死についていく。


 この雨の中、小さな子供を抱えて走るのはなかなかきつい。


「それで...その」


 走りながら、タスカがこちらを振り返った。


「お兄ちゃん、誰なの?」


「お兄ちゃんはね、お姉ちゃんを助けてくれるいい人だよ!」

 カハが元気よく答えた。


 ……紹介ありがとう。


「へえ……そうなんだ」


 タスカは少しだけ不満そうな顔をした。


「……カハ、くっつきすぎじゃない?」


「え? タスカ君、何か言った?」


「な、何でもない!」


 どうやら、カハには聞こえていなかったらしい。


 頑張れよ、タスカ少年。


 しばらく走ると、タスカが足を止めた。


「あそこだよ!」


 タスカが指さしたのは、街並みの中でもひときわ目立つ建物だった。

 古びた石造りの時計塔。


 周囲の建物よりも頭一つ高く、円形の文字盤が塔の上部に取り付けられている。


 針は止まっているように見えた。


 外壁には蔦が絡まり、長年手入れされていないことが一目で分かる。


 時計塔の周辺には人影がない。


 この嵐の中では、近づく者もいないのだろう。


「本当にここなの?」


「うん。二人が入っていくところを、この目で見たんだ」


「分かった。ありがとう、タスカ」


 俺は塔を見上げた。


 見張りはいない。


 入口にも、怪しいところは見当たらない。


 どう見ても、ただの古い時計塔だ。


 俺たちは中へ入った。


 一階には、使われなくなった道具がいくつか置かれているだけだった。

 壁際には上階へ続く階段がある。


 それ以外、特に目立ったものはない。


 しかし...


「タスカ。二人がこの中に入ったあと、また出ていくところは見た?」


「ううん。見てない。俺、ずっと見てたんだ。でも、誰も出てこなかった」


 この塔に出入りできる場所は、目の前の入口だけに見える。


 窓もない。


 上階から人の気配もしない。


 そもそも、意識を失った人間を抱えたまま、わざわざ階段を上がるだろうか。

 ……となると。


 隠し通路。あるいは、隠し扉。


 俺は壁や床を注意深く観察した。


 レバーでもあるのだろうか。


 それとも、特定の場所を押すと壁が動く仕掛けか。


 ……期待しすぎか。


 しばらく調べても、それらしいものは見つからなかった。


 照明器具さえあったら。


 そう考えていた、そのとき。


「……ん?」


 足元に、何かが当たった。


 わずかにバランスを崩しかけ、床へ視線を落とす。


 石造りの床には、四角いタイルが規則正しく並んでいる。


 そのうち二枚だけ、周囲よりわずかに浮き上がっていた。


 ……これか?


 しゃがみ込み、指でタイルの縁をなぞる。


 明らかに不自然だ。


 ゲームなら、こういう場所を調べれば何かが起こる。


 問題は、どうやって動かすかだが。


 ……レバーとか、もっと分かりやすい仕掛けにしてくれないものか。

 さて、どうする。


 ジークと合流してから、出直すか。


 ……だが、その間にお姉さんがどこかへ移されてしまったら、終わりだ。

 俺はカハをそっと床に下ろした。


「カハちゃん。俺たちが泊まっている宿の場所は覚えている?」

「うん、覚えてるよ」


「じゃあ、宿に戻って、騎士のお兄ちゃんが帰ってきたら、ここまで案内してくれる?」


「……お兄ちゃんは?」


「俺は先に、お姉ちゃんを探しに行く」


 カハは不安そうに俺を見上げた。


 だが、やがて小さく頷いた。


「……分かった」


「タスカも、一緒に行ってくれるか?」


「は、はい!」


 俺は自分の外套を脱いだ。


「大きいけど、二人で頭からかぶれば、少しは雨を防げるはずだ」


 魔石による防水の付与があるため、普通の雨具よりもずっと高価なものだ。


「二人とも、気をつけて。さあ、早く行って」


「うん!」


「分かった!」


 二人が外套を頭からかぶり、塔を出ていく。


 その背中が見えなくなるまで見送ったあと、俺は再び床に向き直った。

 浮き上がった二枚のタイル。


 指先に力を込め、慎重に押し下げる。


 ――カチリ。


 小さな音がした。


 直後、床の一部がわずかに沈み、石材が擦れる重い音が塔の中に響き渡った。


 目の前の床が、ゆっくりと横へずれていく。


 その下に現れたのは、地下へと続く石造りの階段だった。


 薄暗い階段の先から、冷たい空気が流れてくる。


 奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。


 少女の姉が、この先にいるのかもしれない。


 それとも、誘拐犯が待ち構えているのか。


 どちらにせよ、今さら引き返すわけにはいかなかった。


 俺は一度だけ息を整え、暗闇の中へと足を踏み入れた。

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