I
「……ひきちっ!」
静かな部屋に、盛大なくしゃみが響いた。
「今、くしゃみしましたか?」
「いいえ。ロードの気のせいかと」
ジークはいつもの調子で答えた。
いや、鼻水が出ているよ?
何が水魔法に対する耐性だ。普通に寒いんじゃないか。
「いいから、濡れた服を着替えて暖を取っていろ」
「面目ございません」
ジークが申し訳なさそうに頭を下げる。
「それで、ロード。その子供をどうなさるおつもりですか?」
倒れていた少女は、ひとまず宿の部屋まで運んできた。
宿の女将さんに事情を説明すると、彼女は手際よく少女の濡れた服を脱がせ、身体を拭き、自分の娘が昔着ていた服に着替えさせてくれた。
もちろん、タダではない。
着替えや部屋の使用料、その他諸々の代金はしっかり請求された。
女将さんは余計な詮索をしてこなかった。
長年宿を営んできた彼女は、客の事情に深入りしても、ろくなことにならないと知っているのだろう。
「女将さんに身体を確認してもらったけど、目立った外傷はないそうだ」
「となると、熱か、疲労でしょうか。あるいは……」
「何らかの病気か」
見たところ、病気らしい症状はない。
少なくとも、外から分かる範囲では。
持っている回復ポーションも飲ませておいた。
これも貴重なものではあるが、目の前で倒れていた子供を見捨てるわけにもいかない。
「……う、ん」
そのとき、ベッドの上の少女が小さく身じろぎした。
ゆっくりと目を開き、身体を起こそうとする。
「こ……ここは……?」
「宿屋だよ。君が外で倒れていたから、ここまで運んできたんだ」
「や、宿……?」
少女はぼんやりと周囲を見回した。
そして、何かを思い出したかのように顔色を変える。
「あっ……! お姉ちゃん……! お姉ちゃんを助けないと!」
慌ててベッドから降りようとする。
「落ち着いて。まだ完全に回復していないんだ。今飛び出しても、また倒れるだけだよ」
「で、でも……!」
「まずは落ち着こう。俺はヴィル。君の名前を教えてくれる?」
「……カハ。カハは、カハなの」
「カハちゃんね」
どうやら、話は通じる子らしい。
ずっとこの調子で慌てられたら、こちらも困ってしまう。
「それで、カハちゃん。どうしてあんな嵐の中を一人で歩いていたの? それと、お姉ちゃんはどうしたのかな?」
少女はすぐには答えなかった。
代わりに、こちらの顔をじっと見つめてくる。
「……お兄ちゃんたちは、いい人なの?」
なるほど。
子供なりに警戒しているわけか。
まあ、悪い人間が自分から悪人だと名乗ることもない。
「うん。いい人だよ」
なんだか子供騙しな言い方になってしまった。
「……ほんとう?」
「本当だ」
カハの目に、みるみる涙が溜まっていった。
そして、小さな手で顔を覆う。
「うっ……うう……」
「……大丈夫。もう少し休んでいいからね」
よほど怖い思いをしたのだろう。
「まずは、これを食べなさい」
ジークが、温かいパンを差し出した。
表面には、とろけたチーズがたっぷり乗っている。
宿の食堂から持ってきてくれたらしい。
……さすがイケメン騎士様。
カハはパンを見つめたあと、ちらりとこちらの顔をうかがった。
「食べていいよ」
少し迷っていたが、お腹が小さく鳴ると、おずおずと受け取って、一口かじった。
「……おいしい」
「それはよかった。あとで女将さんにも伝えてあげよう」
しばらくして、カハはパンを食べ終えた。
表情にも、少しだけ余裕が戻っている。
「落ち着いたかな?」
「……うん」
「じゃあ、カハちゃん。お姉ちゃんのことを教えてくれる?」
カハは小さく頷いた。
「お姉ちゃんは……悪い人たちに、連れていかれちゃったの」
誘拐か。奴隷として売り飛ばすつもりなのか。
もちろんこの世界にも人身売買は存在する。
「お姉ちゃんがね、カハに逃げてって言ったの。それで……お姉ちゃんを助けてって、街でずっと走ってたの」
カハは膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。
「でも、誰も聞いてくれなかったの……」
こんな嵐の中で、子供が助けを求めて叫んだところで、建物の中にいる人間には届かないだろう。
仮に聞こえたとしても、見知らぬ人間を助けるために危険を冒す者がどれだけいるのか。
「ロード」
ジークがこちらを見る。
どうするのか、と尋ねているのだろう。
「……カハちゃん」
俺は少女と目線を合わせた。
「君のお姉ちゃんは、俺たちが助けるよ」
「……ほんとう?」
「ああ。必ず助け出して、君のところへ連れて帰る」
「……お姉ちゃんに、会える?」
「もちろん」
カハの顔に、わずかな希望が戻った。
「ありがとう、お兄ちゃん……!」
とは言ったが、問題はここからだ。
犯人が誰なのかも分からない。
どこへ連れていかれたのかも分からない。
しかも、外はこの嵐だ。
誘拐犯にとっては、足跡も消え、目撃者も外に出てこない、絶好の機会だったに違いない。
さて、どうしたものか。
「ジーク。二手に分かれて行動しよう」
「承知いたしました。ご命令を」
「俺はカハちゃんと一緒に、姉がさらわれた場所を調べる。ジークは街の門へ行って、怪しい馬車が出入りしていないか確認してほしい」
「なるほど。犯人がまだ街の中にいるかどうかを調べるのですね」
街の中にいるなら、まだ追いつける可能性がある。
すでに外へ出ていた場合は……少し厄介だ。
「門番への聞き込みには、これを使ってくれ」
俺は懐から銅貨を数枚取り出し、ジークに渡した。
「必要なら、話を聞くための飲み物代くらいにはなるだろう」
「かしこまりました」
「それと、女将さんから雨具を借りておいてくれ。俺の外套ほどではないけど、頭くらいは守れるはずだ」
「ご心配には及びません、ロード。今回は油断いたしません」
「……本当に気をつけてくれよ」
「合流場所はこの宿だ。何か分かったら戻ってきてくれ」
「承知いたしました。ロードも、どうかお気をつけて」
「ああ」
こうして、俺たちは別行動を取ることになった。
宿を出る前に、俺は自分の外套を広げた。
「カハちゃん、こっちへおいで」
「……?」
小さな身体を抱き上げ、外套の内側に入れる。
「これなら、少しは雨を防げるだろう」
「……あったかい」
「それはよかった」
俺たちは宿を出た。
* * *
激しい雨が、容赦なく地面を叩いている。
「カハちゃん。お姉ちゃんが連れていかれたのは、どっち?」
「あっち……! あの角を右に曲がるの」
「分かった。よく覚えているね。えらいよ」
「うん。お姉ちゃんとね、お休みの日によく街を歩くの」
カハが少しだけ嬉しそうに話し始めた。
「お姉ちゃん、ときどきおいしいものを買ってくれるの」
「へえ。優しいお姉ちゃんなんだね」
「うん!」
「カハちゃん、お姉ちゃんはどんな仕事をしているの?」
「大きなお家で、お掃除とかお料理をしてる」
メイドや使用人の類か。
貴族か、裕福な商人の家に仕えているのだろう。
「お父さんとお母さんは?」
「……覚えてないの」
カハは少し考えてから答えた。
「ずっと、お姉ちゃんと二人で暮らしてるの」
「そうか……」
事情が見えてきた。
カハの案内に従って進んでいくと、街の西側にある一角へたどり着いた。
先ほどの宿がある中心部と比べると、明らかに様子が違う。
建物は古く、壁にはひびが入っている。
道も狭く、石畳が途切れて泥道になっている場所さえあった。
貧民街というほどではないが、裕福な地区ではない。
おそらく、街の平民の多くがこの辺りで暮らしているのだろう。
……父上が治めるローウェン伯爵領では、あまり見かけなかった光景だ。
街の中心部とは違い、人通りもほとんどない。
カハが助けを求めても、誰も耳を貸さなかった理由が少し分かった気がした。
危険な目に遭いたくない。
面倒事に巻き込まれたくない。
それは、誰にとっても自然な感情なのだろう。
「……ここだよ」
カハが指さした先に、小さな家があった。
俺たちはその周辺を調べた。
「カハちゃん。お姉ちゃんを連れていった人たちは、どっちへ向かったか覚えている?」
「……分からない」
「そっか。じゃあ、何人いた?」
「二人……だったと思う」
「顔は見た?」
カハは首を横に振った。
雨のせいもあって、はっきりとは覚えていないらしい。
……困ったな。
映画や小説なら、事件現場に行けば何かしら手掛かりが見つかるものだが、現実はそう甘くない。
雨で足跡は消えている。
目撃者がいたとしても、協力してくれるとは限らない。
そもそも、悠長に聞き込みをしている時間もない。
「お兄ちゃん……」
カハが不安そうに見上げてくる。
「ああ、ごめん。大丈夫だよ」
とりあえず、ジークの調査結果を待つべきか。
そう考えた、そのときだった。
「あの……」
背後から声がした。
振り返ると、カハと同じくらいの年齢の男の子が立っていた。
全身びしょ濡れで、息も少し上がっている。
「タスカ君!」
カハが声を上げた。
「知り合い?」
「うん! タスカ君はね、足がとっても速いの!」
……第一声がそれか。
やっぱり、この年頃の子供にとって、足が速いのは大きなステータスらしい。
「それで、タスカ君。何かあったの?」
少年は少し緊張した様子で頷いた。
「……俺、窓から見たんだ」
「見た?」
「カハのお姉ちゃんを、二人の男が連れていくところ」
「本当なの、タスカ君!?」
「うん。それで、追いかけたんだ」
タスカは街の奥を指さした。
「二人が、あの建物に入っていくのを見た」
「それで、戻ってきたら今度はカハがいなくなってて……ずっと探してたんだ」
「タスカと言ったな。その建物まで案内してくれるか?」
「う、うん!」
「ありがとう。助かるよ」
タスカは頷くと、すぐに走り出した。
……本当に足が速いな。
俺もカハを抱えたまま、必死についていく。
この雨の中、小さな子供を抱えて走るのはなかなかきつい。
「それで...その」
走りながら、タスカがこちらを振り返った。
「お兄ちゃん、誰なの?」
「お兄ちゃんはね、お姉ちゃんを助けてくれるいい人だよ!」
カハが元気よく答えた。
……紹介ありがとう。
「へえ……そうなんだ」
タスカは少しだけ不満そうな顔をした。
「……カハ、くっつきすぎじゃない?」
「え? タスカ君、何か言った?」
「な、何でもない!」
どうやら、カハには聞こえていなかったらしい。
頑張れよ、タスカ少年。
しばらく走ると、タスカが足を止めた。
「あそこだよ!」
タスカが指さしたのは、街並みの中でもひときわ目立つ建物だった。
古びた石造りの時計塔。
周囲の建物よりも頭一つ高く、円形の文字盤が塔の上部に取り付けられている。
針は止まっているように見えた。
外壁には蔦が絡まり、長年手入れされていないことが一目で分かる。
時計塔の周辺には人影がない。
この嵐の中では、近づく者もいないのだろう。
「本当にここなの?」
「うん。二人が入っていくところを、この目で見たんだ」
「分かった。ありがとう、タスカ」
俺は塔を見上げた。
見張りはいない。
入口にも、怪しいところは見当たらない。
どう見ても、ただの古い時計塔だ。
俺たちは中へ入った。
一階には、使われなくなった道具がいくつか置かれているだけだった。
壁際には上階へ続く階段がある。
それ以外、特に目立ったものはない。
しかし...
「タスカ。二人がこの中に入ったあと、また出ていくところは見た?」
「ううん。見てない。俺、ずっと見てたんだ。でも、誰も出てこなかった」
この塔に出入りできる場所は、目の前の入口だけに見える。
窓もない。
上階から人の気配もしない。
そもそも、意識を失った人間を抱えたまま、わざわざ階段を上がるだろうか。
……となると。
隠し通路。あるいは、隠し扉。
俺は壁や床を注意深く観察した。
レバーでもあるのだろうか。
それとも、特定の場所を押すと壁が動く仕掛けか。
……期待しすぎか。
しばらく調べても、それらしいものは見つからなかった。
照明器具さえあったら。
そう考えていた、そのとき。
「……ん?」
足元に、何かが当たった。
わずかにバランスを崩しかけ、床へ視線を落とす。
石造りの床には、四角いタイルが規則正しく並んでいる。
そのうち二枚だけ、周囲よりわずかに浮き上がっていた。
……これか?
しゃがみ込み、指でタイルの縁をなぞる。
明らかに不自然だ。
ゲームなら、こういう場所を調べれば何かが起こる。
問題は、どうやって動かすかだが。
……レバーとか、もっと分かりやすい仕掛けにしてくれないものか。
さて、どうする。
ジークと合流してから、出直すか。
……だが、その間にお姉さんがどこかへ移されてしまったら、終わりだ。
俺はカハをそっと床に下ろした。
「カハちゃん。俺たちが泊まっている宿の場所は覚えている?」
「うん、覚えてるよ」
「じゃあ、宿に戻って、騎士のお兄ちゃんが帰ってきたら、ここまで案内してくれる?」
「……お兄ちゃんは?」
「俺は先に、お姉ちゃんを探しに行く」
カハは不安そうに俺を見上げた。
だが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
「タスカも、一緒に行ってくれるか?」
「は、はい!」
俺は自分の外套を脱いだ。
「大きいけど、二人で頭からかぶれば、少しは雨を防げるはずだ」
魔石による防水の付与があるため、普通の雨具よりもずっと高価なものだ。
「二人とも、気をつけて。さあ、早く行って」
「うん!」
「分かった!」
二人が外套を頭からかぶり、塔を出ていく。
その背中が見えなくなるまで見送ったあと、俺は再び床に向き直った。
浮き上がった二枚のタイル。
指先に力を込め、慎重に押し下げる。
――カチリ。
小さな音がした。
直後、床の一部がわずかに沈み、石材が擦れる重い音が塔の中に響き渡った。
目の前の床が、ゆっくりと横へずれていく。
その下に現れたのは、地下へと続く石造りの階段だった。
薄暗い階段の先から、冷たい空気が流れてくる。
奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
少女の姉が、この先にいるのかもしれない。
それとも、誘拐犯が待ち構えているのか。
どちらにせよ、今さら引き返すわけにはいかなかった。
俺は一度だけ息を整え、暗闇の中へと足を踏み入れた。




