III
「これは……しばらく止みそうにないね」
宿の窓から外を眺める。
この街は、屋根が独特なマルーン色をしていることで有名だ。
普段なら街並みを彩るその屋根も、今は激しい雨に打たれ、霞んでほとんど見えない。
「このような嵐では、馬車を走らせることはできません」
後ろからジークの声がする。
「ですが――」
嫌な予感がした。
「ロードのご命令とあらば、このジーク、ロードを背負ってでも目的地までお連れする覚悟がございます」
ほらね。
この二日間で、すでに何度目だろう。
こいつは本気で言っている。
***
――時間は二日前まで遡る。
感動的な別れを終え、俺を乗せた馬車はローウェン伯爵領の関所へ向かっていた。
そこで馬車が止まる。
窓から外を見ると、一人の男が立っていた。
鎧を身につけ、腰には剣を佩いている。
父上と同年代くらいの、いかにも武人といった風貌の男だ。
我が領の騎士団長――ガルドだった。
馬車から降りる。
「屋敷で見なかったから、北の巡回にでも行っていると思っていたんだけど……ここにいたのか、ガルドさん」
「ああ」
ガルドは腕を組んだ。
「昨夜、ゲルハルトから坊ちゃまの廃嫡の話を聞いてな。少々、頭に血が上ったんで」
この領で、父上にこんな態度を取れる人間は、母上とこの人くらいだろう。
「本当に何を考えているんだ、あいつは……」
ガルドは大きくため息を吐いた。
「あんな訳の分からない土地に、坊ちゃまを一人で送り出すなんてな」
「陛下の命令だから仕方ないよ」
そう言うと、ガルドは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「……坊ちゃまは、昔からそういうところが変わらんな」
「これも貴族の務めの一つだからね」
「貴族の務め、か」
ガルドは俺の顔をしばらく見つめた。
そして、少しだけ笑う。
「立派になったな、ヴィル坊ちゃま」
「ガルドさんとも、これでしばらくお別れだね」
「ああ」
ガルドが後ろを振り返った。
そして、声を張り上げる。
「準備は終わったのか、ジーク! 坊ちゃまはもう来ているんだぞ!」
「最終確認をしていただけです、父上」
関所の建物から、一人の青年が出てきた。
「……ジーク?」
「おお、坊ちゃま。ジークを見るのは何年ぶりだ?」
「かなり久しぶりだね」
ガルドの次男。
俺より一、二歳ほど年上だったはずだ。
子供の頃に何度か遊んだ記憶がある。
あの頃は俺の方がずっと小さかったが、今では遠目に見れば同年代に見える。
「ここ数年は王都の騎士学校にいましたから」
ジークが淡々と答える。
「そうだったな。無事に卒業できたのか? かなり厳しいと聞いていたが」
「問題ありません。私には容易いことでした」
「首席で卒業したらしいよ」
ガルドが横から付け加える。
「おお、それは優秀だな」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
父親とはずいぶん性格が違うらしい。
ガルドは豪快な武人という感じだが、ジークは妙に堅い。
「ジークが次期騎士団長なら、我がローウェン伯爵領も安泰だな」
「いや」
ガルドが首を振った。
「こいつはわしの後を継がん」
それもそうか。
あの王都の名門騎士学校を主席で卒業したなら、きっと王家か中央の騎士団から声がかかっているのだろう。
「ヴィルヘルム様」
ジークが俺の前まで歩いてくる。
あとその名で呼ばれるのは久しぶりだ。あのセバスでさえ、愛称で呼ぶのに。
そして、突然その場に跪いた。
「え?」
ジークは腰の剣を抜いた。
両手で柄を持ち、水平に掲げる。
「このジーク・ローウェンは、本日この時より――ヴィルヘルム様に忠誠を捧げます」
何を言っているんだ、こいつ。
「ちょっと待って。ガルドさん、どういうこと?」
「だから言っただろう?こいつはわしを継がなんと」
「いや、だからって俺の騎士になるとは聞いてないよ?」
「おや? まだ話してなかったか」
「話してないよ!」
「まあ、小さなことだ」
「全然小さくないよ!」
俺が頭を抱えていると、ジークは真剣な顔のまま続けた。
「父上や領主様も承知しております」
「父上たちも?」
「ああ。しかも急に決まった話じゃない」
ガルドが腕を組む。
「こいつが騎士学校へ行く前から決まっていたことだ」
「それじゃあ……」
「決めたのはわしでもゲルハルトでもない」
ガルドがジークの肩を叩いた。
「こいつ自身だ」
「はい」
ジークは迷いなく答えた。
「十年前、私は誓いました。ヴィルヘルム様の騎士となり、必ずヴィルヘルム様を守れる騎士になると」
十年前。
その言葉で、昔の記憶が一つ蘇る。
「……まさか」
「はい
ジークが少しだけ目を伏せる。
「十年前、ヴィルヘルム様が母の命を救ってくださった、あの時からです」
あの時。
当時病にかかっていたジークの母の症状は前世で知っていた病気と似ていたので早めに気づいて、知っていた知識で無事治療ができた時の話。
前世と違ってこの世界...いや少なくともこの大陸ではかなり珍しい病なので治療方法がなくて死亡率が高い。
「いや、あれはたまたま本で読んだことがあったし、運も良かった」
「はははは!」
突然、ガルドが大声で笑い出した。
「相変わらずだな、坊ちゃまは!」
ガルドは笑いながらジークを見る。
「だからこいつも、十年間ずっとそのつもりだったんだろう」
「それに――」
ジークが言葉を続ける。
「私は幼い頃に読んでいた騎士道の書物に登場する騎士たちに憧れていました」
……なるほど。
「一人の主君に生涯仕え、その命を守る騎士に」
ジークの目が妙に輝いている。
「そして今、その夢が叶うのです」
……なんでちょっと誇らしげなんだ?
もともと恩義や義理を重んじる性格だったのだろう。
そこに騎士道物語の影響が加わった結果が、これか。
「だとしても、当時と今では話が違うよ」
俺はため息をついた。
「俺はもうローウェン家の人間じゃない。
それに、これから向かう場所がどんなところなのか、俺自身にも分からないんだ」
「だからこそです」
ジークは即答した。
「どのような危険が待ち受けているか分からない場所へ、ヴィルヘルム様を一人で行かせるわけにはいきません」
真っ直ぐな目。
「俺も同意見だ、坊ちゃま」
ガルドが腕を組む。
「我が愚息ながら、実力については俺が保証しよう。騎士学校を主席で卒業する程度には使える男だ」
「坊ちゃまを守ってやってくれ、ジーク」
「言われるまでもありません」
ジークが答える。
「この忠誠心が、行き先が変わった程度で揺らぐことはありません」
二人に真剣な顔で見つめられる。
正直に言えば――心強かった。
これほどの実力を持つ騎士が一人ついてくれるなら、何かあったときの安心感は全然違う。
それに……。
もう断れる雰囲気じゃない。
「……分かった」
ジークが顔を上げる。
俺はその剣を受け取った。
そして、教わった通りに剣をジークの肩へ静かに置く。
「これからよろしくな、ジーク」
「この命に代えても、ヴィルヘルム様の盾となりましょう」
「命には代えなくていいから」
「それじゃあ、坊ちゃま」
ガルドが笑う。
「元気でな」
「ああ。ガルドさんも元気で」
「家族と領民のことは、わしに任せておけ」
「ああ、それは心強いな」
ガルドがジークを見る。
「ジーク。坊ちゃまを頼んだぞ」
「言われるまでもありません」
その後、俺たちはローウェン伯爵領を出た。
そして目的地へ向けて馬車を走らせた。
だが、旅は順調とはいかなかった。
出発して二日目。
俺たちはローウェン領を出て、マルーン屋根で知られるこの街――マルディアにある宿で足止めされることになった。
原因は、季節外れの大嵐だった。
***
――そして現在。
「うん。そんな覚悟を持たなくて大丈夫だからね」
「承知しております」
ジークが真顔で答える。
……本当に分かっているのだろうか。
この二日間の旅で、一つ分かったことがある。
こいつなら、本当にやりかねない。
「あと、馬車の中でも言ったけど、その『ロード』って呼び方はやめてくれない?」
「それは――」
「俺たち、ほぼ同い年だよ?」
俺は苦笑する。
「そんなに堅苦しくしなくてもいいだろ」
「申し訳ありません、ロード。それはいくらロードのご命令でも、お受けしかねます」
やっぱりか。
「ヴィルヘルム様は私の主君です。ならば、主君に相応しい呼び方をするのは当然のこと」
ロード。
この世界では、もうほとんど使われていない古い呼び方だ。
今ではおとぎ話や古い騎士物語に出てくるくらい。
なのに、こいつは本気で使っている。
どうやらジークの中二病的な騎士道精神は、まだまだ健在らしい。
そのときだった。
「――ロード」
ジークが窓の外を見る。
「あちらの道路に、一人倒れている者がいます」
「え?」
「約二百四十五メートル先。女の子と思われます」
「……二百四十五?」
俺も窓の外を見る。
激しい雨で視界が悪い。
「どこ? 俺には何も――」
「左手の街路樹の先です」
「えっと……」
目を凝らす。
「……ああ」
確かに見えた。雨の向こうに、小さな人影がある。
「本当だ」
「宿の周辺に異変がないか、ずっと警戒していましたので」
優秀だな。
「それより、助けないと」
俺は急いで外套を羽織った。
魔石によって水への耐性を付与された特殊な外套。
いわば、この世界の魔法のレインコートだ。
高価なものなので、貴族か裕福な商人くらいしか持っていない。
もちろん――ジークは持っていない。
「俺一人で行く。ジークはここで留守を――」
「問題ありません、ロード」
またそれか。
「私は水魔法への耐性があります。この程度の雨なら問題ございません」
昨日は火に対しても同じことを言っていなかったか?
「分かった。行こう」
俺たちは宿を飛び出した。
「ロード、足元にお気をつけください!」
激しい雨の中を走る。
ぬかるんだ道に足を取られそうになりながら、倒れている人影へ近づいていく。
徐々に、その姿がはっきりしてきた。
ジークの言った通りだった。
倒れていたのは――一人の少女だった。
「おい、大丈夫か!」
少女を抱き起こす。
冷たい。
雨に濡れた身体は震えていた。
「……お……おねえちゃんを……」
「え?」
少女がかすかに目を開く。
そして、消え入りそうな声で呟いた。
「……お姉ちゃんを……助けて……」
「おい、待って――」
それだけ言うと、少女は俺の腕の中で意識を失った。
遠くで、雷鳴が轟いた。




