II
「嫌よ! 嫌嫌! 私のヴィルちゃんをどこにも行かせないわ!」
「――ぐっ」
息ができない。
「うう……ううう……」
「母上、離してください……」
柔らかい胸に顔を押しつけられ、視界が真っ暗になる。
このままだと窒息して死ぬ。
転生して十五年。
まさか二度目の人生の最後が、母親の抱擁になるとは思わなかった。
……まあ、死に方としては悪くないな。
「母上、そんな態度を取ったらヴィルが困るでしょう。まずは冷静になりましょう」
ジュリアス兄上が助け舟を出してくれた。
ナイスだ、兄上。もっと言ってやってください。
「まずは屋敷の地下に、ヴィルが隠れて何不自由なく暮らせる施設を作りましょう」
前言撤回。こっちのほうがヤバかった。
「それは素晴らしいわ!」
母上の顔がぱっと明るくなる。
「これなら、あの腹黒い国王を騙すこともできるわね。表向きはヴィルが領地に行ったことにして、実際はここで暮らしてもらえばいいのよ!」
……それはもう、ある意味監禁なのでは?
「母上、ジュリアス。いい加減にしてください」
レオン兄上が呆れた顔で立ち上がった。
「使用人たちの前ですよ。みっともない」
兄上は母上の腕から俺を引き離す。
ようやく肺に空気が入った。
……息ができるって素晴らしい。
「レオンは平気なの?」
母上が兄上を睨む。
「ヴィルが、あんなわけの分からない場所に一人で行ってしまうのよ?」
「そうだそうだ。レオン兄上には血も涙もないのか」
「平気なわけがありません」
レオン兄上は即答した。
「俺も納得していない。そもそも、今回の話には腑に落ちない点が多すぎます」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
俺も同じことを考えていた。
あんな土地から今さら利益を得ようなんて、いくら国王陛下でも不自然だ。
ましてや、この国は別に困窮しているわけではない。
そして何より、話が急すぎる。
父上は王都から戻ってきたその日に、俺を廃嫡すると告げた。
母上や兄上たちに相談した様子もない。
完全に父上の独断だ。
「それに……廃嫡なんて、あんまりだわ」
再び母に強く抱きしめられた。
「どうしてヴィルなの? 魔力がないから? そんな理由で、この子を捨てるの?」
「母上」
レオン兄上が静かに口を挟む。
「父上はヴィルを捨てたわけではありません」
「でも――」
「俺だって納得しているわけではありません」
兄上は母上を真っ直ぐ見た。
「ただ、今回の命令が陛下からのものなら……話は簡単ではない」
ジュリアス兄上も頷いた。
「ヴィル、父上から何か書状は受け取ったか?」
「そこへ行き、一年後には税を納めるように、とだけ言われました。確か...」
口にした金額に、ジュリアス兄上の表情が固まった。
「……何だと?」
「一年で、その金額を納めるようにと言われました」
「――そんな馬鹿な」
今度は使用人たちからも、小さなどよめきが起こった。
それも当然だ。
俺が任された土地の規模を考えれば、現実的な数字とは思えない。
「父上と陛下は、一体何を考えているんだ……」
ジュリアス兄上が腕を組む。
レオン兄上は何かを考えるように黙っている。
その表情には、何か心当たりがあるようにも見えた。
だが、兄上は何も口にしなかった。
俺も聞かなかった。
仮に何か意図があるとしても――俺は一体、何に巻き込まれている?
魔法は使えない。
身体は貴族の息子としてそれなりに鍛えてきたが、特別な身体能力があるわけでもない。
剣術は...まあ、才能がなかったということにしておく。
そして、まだ十五歳だ。
そんな人間を、ほとんど何もない土地の領主にする。
普通に考えれば、無茶苦茶な話だった。
「……それでも」
レオン兄上が、ゆっくりと口を開いた。
「陛下から直々に下された命令だ。俺たちが簡単に覆せるような話じゃない」
誰も反論しなかった。
それが、この話の核心だった。どれだけおかしくても。
どれだけ納得できなくても。国王が命じた。
それだけで、貴族である俺たちには拒否するという選択肢がほとんど残されていない。
「だから、今の俺たちにできることは――ヴィルを信じることだけだ」
レオン兄上が、俺を見る。
「ヴィルなら、きっと何とかする。そうだろう?」
「……兄上」
「そんなの……」
母上が唇を噛んだ。
「信じるとか信じないとかの話じゃないのよ。私のヴィルを……私の、ヴィルを……」
ぽろぽろと涙をこぼす母上に、俺はハンカチを差し出した。
「大丈夫ですよ、母上。少し遠いですが、会えないほどの距離ではありません。僕から会いに来ます」
「でも……」
「落ち着いたら、母上のほうから会いに来てくださってもいいんです」
母上は鼻をすすりながら、小さくうなずいた。
「……分かったわ。でも、無茶はしちゃだめよ」
「分かっています」
「絶対よ?約束」
「うん、約束」
兄上たちが、そっと苦笑した。
その夜、屋敷では誰一人としてまともに眠らなかった。
母上や兄上たちだけではない。婆やまで俺の部屋にやってきて、昔の話を始めた。使用人たちも、次々に顔を出した。
「あの時の坊ちゃまは、本当に可愛らしくて」
「いつの話だよ、それ」
***
翌朝。
屋敷の前には、一台の馬車が停まっていた。積み込まれた荷物は、スーツケース一つ分ほど。
「坊ちゃま……」
婆やが涙を拭う。
「……いってらっしゃいませ」
母上は何度も涙を拭いながら、何か言おうとしていた。結局、言葉にはならない。
レオン兄上とジュリアス兄上も、いつもより静かだった。
「必ず手紙を寄越せ」
レオン兄上が言う。
「はい」
「ヴィル」
最後に、父上が俺の前に立った。
いつもの厳しい顔。だが、その目には、隠しきれないものがあった。
「……体に気をつけろ」
それだけだった。
「はい、父上」
馬車の扉が閉じられ、やがて、ゆっくりと動き始める。
窓の外で、家族と使用人たちが小さくなっていく。最後まで、母上は手を振っていた。
十五年間暮らした屋敷が、少しずつ遠ざかる。
俺は窓の外を見るのをやめ、前を向いた。




