I
「ヴィル坊ちゃま! 旦那様がお戻りになりました……あら、またそんな難しい本を読まれているのですか」
部屋に入ってきた婆やが、呆れたようにこちらを見る。
手にしていたのは、『ブレインダガール王国建国史』。
初代国王が神獣と契約し、西大陸でそれぞれ勢力を持ち、争い合っていた四大部族をまとめ上げ、一つの国を作るまでを記した戦記だ。
もっとも、学術的な歴史書というよりは、伝承に近い。
「ああ、うん。他にやることもないからな」
「リュートの練習はあるのではないですか?」
ギクッ。
「ああ、そうだった。父上が戻られたんだな。俺は会いに行くから、この本を本棚に戻してくれる?」
「はいはい。いってらっしゃいませ」
婆やに本を渡して、ドアへ向かう。
そして、ふと思い出して振り返った。
「……やっぱり、その本はそのままでいいよ」
「え?」
「また婆やが腰を痛めたら困るからね」
婆やは一瞬ぽかんとしたあと、眉を下げて苦笑した。
「まあ……」
そう言って腰に手を当てる。
「相変わらず優しい坊ちゃまですね。でも、これくらいできないほど、わたくしは老いておりませんよ?」
「いやいや、無理はしないで」
「それと、坊ちゃまがもう十五歳になられたので、婆やはおやめくださいと何度も言っているではありませんか」
「坊ちゃまって呼ぶのをやめてくれるならね」
「それはできません」
「じゃあ、この話は終わりだな。行ってくる」
ドアを閉め、父の執務室へ向かう。
貴族の屋敷というのは、本当に広い。
俺の部屋から父の執務室まで歩くだけで二、三分はかかる。
前世で暮らしていた六畳一間のワンルームなら、部屋の端から端まで数歩で済んだというのに。
……十五歳か。もう十五年も経っていたんだね。
サラリーマンだった頃の自分が、どんどん遠い記憶になりつつある。
もちろん、自分自身についての記憶ははっきりしている。前世の名前も、仕事も、日本で暮らしていたことも覚えている。
ただ、それ以外の細かな記憶は少しずつ薄れている。
昨日の夕食を思い出すような感覚で、前世の出来事を思い出すことがある。
やはり、一つの脳に保存できる記憶には限界があるのだろうか。
転生するときに神様とやらに会っていたら、そのあたりも聞けたのかもしれない。
廊下ですれ違う使用人たちに軽く挨拶をしながら歩いていると、やがて目的の扉が見えてきた。
執務室の前で立ち止まり、扉を二回ノックする。
使用人は三回。家族は二回。
便利なルールだ。
「入れ」
「失礼します、父上」
扉を開ける。
書類に囲まれながら仕事をしている父の姿が目に入った。
……執務室という場所が、これほど似合わない男はいないだろう。
政治家というより、どう見ても武人だ。
「そういう堅苦しい挨拶は、王都の連中と散々やってきたのだからよしてくれ」
父は書類から顔を上げることなく言った。
「それは、お疲れ様でした」
「まったくだ」
父は大きく息を吐き、ようやく顔を上げた。
「それより、話がある。座れ」
「はい」
執事長のセバスに案内され、ソファに腰を下ろす。
「どうぞ、ヴィル坊ちゃま」
「ありがとう、セバス」
セバスは優雅に一礼すると、父の隣へ戻った。
「それで、話とはなんのことでしょうか」
「レオンを正式に次期領主として発表する。ジュリアスを領主補佐として任命する」
「……はあ」
思わず間の抜けた声が出た。
まあ、誰もが想定していたことだ。
長男のレオン兄上は優秀で、人望もある。
剣の腕も一流で、貴族として求められる魔法の才能にも恵まれている。
次期ローウェン伯爵として、これほど相応しい人間もいないだろう。
次男のジュリアス兄上も優秀だ。
我が家では長男が領主、次男が領主補佐になるのが昔からの慣例でもある。
「レオン兄上なら、きっと父上のような素晴らしい領主になるのでしょう」
「ああ」
父は短く答えた。
だが、その表情はどこか重い。
……なぜ、今さらこんな話をする?
王都で何かあったのか。
「それで、お前のことだが」
来た。
三男の俺に、家での出番はない。
それは最初から分かっていた。
そして俺には、兄たちとは違う問題が一つある。
「本来なら、お前には貴族学校へ三年間通ってもらい、そこで自分の道を見つけてほしかった」
父は手にしていたペンを机の上に置いた。
「だが、それができないのは……賢いお前なら分かっているだろう」
「はい」
この国の貴族には、魔力を持つ者が多い。
家系によっては、代々受け継がれてきた血統魔法まで存在する。
そして――俺には、その魔力がない。
「魔力を持たない俺は、魔法を使えない。貴族としては相応しくない、ということですね」
六歳の魔力測定。
その結果を聞いたときは、さすがに落ち込んだ。
せっかく魔法の存在する異世界に転生したというのに、まさか自分だけ魔法が使えないとは。
当時の俺は、その事実だけで半月ほど本気で落ち込んだ。
それでも、中身は前世で大人だった人間だ。
時間が経てば、受け入れることもできる。
多少の悔しさはあるが、今となっては別に気に病むようなことではない。
「そんなことはない」
父が静かに否定する。
「お前は賢い。物知りだ。それに、お前は領民からも愛されている」
父は少しだけ視線を逸らした。
「……立派な貴族だ」
そして、言葉を続ける。
「ただ――」
その一言で、空気が変わった。
貴族社会というのは、実力だけで動いているわけではない。
家格と血筋。
婚姻と派閥。
そして魔力。
どれも、俺一人の努力ではどうにもならないものばかりだ。
「ありがとうございます。それで、僕をどうなさるおつもりでしょうか」
普段なら、廃嫡されてもおかしくない。
だが、父や母、兄たちがそんなことをするとは思えない。
前世では得られなかった、恵まれた家族だった。
だからこそ、俺自身もいつかこの家を出ることは覚悟していた。
ただ、この領地に残って静かに暮らすという選択肢もあると思っていた。
貴族同士の面倒な付き合いから離れ、適当な仕事でもしながら、のんびり暮らす。
……が、父の態度を見る限り、そう簡単にはいかなさそうだ。
「セバス」
「承知いたしました」
父の声に、セバスが一歩前へ出る。
そして壁際に置かれていた大きな筒を取り出した。
広げられたのは、一枚の地図だった。
この国でこれほど詳細な地図を持っている家は、我が家か王家くらいだろう。
セバスが地図の端へ指を伸ばす。
「こちらをご覧ください」
指が止まったのは、王国の東北。
山と森に囲まれた、小さな土地だった。
「ここは……?」
「元々、豊かな土地ではございませんでした」
セバスが淡々と説明する。
「今から数百年前。この地は国を裏切り、初代国王陛下のお命を狙った、陛下の弟君が追放された場所でもあります」
その話ならもちろん知っている。
ただし、俺が知っている歴史では――その弟は反逆の罪によって処刑されたことになっていた。
セバスはこっちの考えていることを察したかのように説明する。
「実際にはこの地へ追放され、その生涯をここで過ごされたそうです。その後、この地には罪人たちが送られるようになった時期もありました」
そんな歴史があったとは。
セバスの指が、地図の上をゆっくり滑る。
「もっとも、それも何世代も前の話でございます」
「……なるほど」
「その後、その土地は事実上放置されました」
理由は聞かなくても分かる。
この国の歴史上、最も忌まわしい土地の一つ。
そんな場所に関わりたい貴族など、いるはずがない。
それなら、なぜ今になって――。
「先日、私は国王陛下に謁見した」
父が口を開いた。
「陛下は、この土地をこれ以上放置しておくつもりはないそうだ」
父は地図を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、苦々しそうに眉を寄せる。
「表向きは、建国の地を再び発展させ、王国の威光を示すため……などと言っていたがな」
父らしい言い方だった。
「だが、あの陛下がそんな理由だけで動くとは思えん」
父は地図の土地を指で軽く叩いた。
「国の中心から遠い。管理するにも金がかかる。だが、もし開拓に成功すれば、東北部の交易路を確保できる。鉱山や農地が見つかれば、税収も増える」
損と利益。感情ではなく、数字で考える。
「つまり陛下は、今まで誰も手を付けなかった土地を、使える土地に変えたいということですね」
「ああ」
父は答えた。
そして――そこで初めて、俺の方を真っ直ぐに見た。
嫌な予感がした。
父は立ち上がる。
しばらく何も言わず、こちらを見つめていた。
その表情から、いつもの父親らしい温かさが消えていた。
「ヴィル」
低い声が響く。
「お前を――この瞬間をもって、廃嫡とする」
その言葉に、執務室の空気が凍りついた。
「そして、国王陛下の命により――」
父は一度、目を閉じた。
「お前を、その土地の領主として任命する」
短い沈黙。
「明日の朝、出発しろ」




