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王都グランヴェルを背に、漆黒の馬車は夜の闇を滑るように駆けていた。
車内に設えられた魔石のランプが、オレンジ色の暖かな光で狭い空間を照らし出している。最高級のビロードが張られた座席は、長旅の疲労を感じさせないほどふかふかとしており、床に敷かれた厚手の絨毯からは微かに防寒の魔術が発動していた。
「……信じられないほど、静かですわ」
私が窓の外を流れる暗い森の景色を眺めながら呟くと、向かいの席で長い脚を組んでいたレオンハルト様が、喉の奥で低く笑った。
「王城の喧騒から離れたからか? それとも、あの阿呆どもの喚き声が聞こえなくなったからか?」
「両方、でしょうか。この十年間、私の耳には常に誰かの文句や、陳情や、くだらない言い訳ばかりが届いておりました。こんなに心穏やかに夜の静寂を感じたのは、いつ以来か思い出せません」
私は小さく息を吐き、背もたれに深く体を預けた。
十歳の頃から始まった、次期王妃としての過酷な教育と実務。休むことなど許されず、常に完璧であることを求められた。私が少しでも弱音を吐けば、「公爵令嬢たるものが」「未来の国母となる者が」と周囲から冷たい視線を浴びせられた。
その重圧から完全に解放された今、私の体からは糸が切れたように力が抜け、心地よい疲労感が全身を包み込んでいる。
「よく眠れていなかったのだろう。目の下に薄く隈ができているぞ」
レオンハルト様はそう言うと、自らが羽織っていた黒い毛皮の外套を脱ぎ、私の膝の上にふわりと掛けた。北方の魔獣・銀狼の毛皮で作られたそれは、驚くほど軽く、そして信じられないほど暖かかった。
「レオンハルト様、これは……」
「俺の領地、シュタインベルクに着くまではまだ数日かかる。それまでは、今までのお前を縛っていたすべてのことを忘れて、泥のように眠るといい。俺がお前を守る」
黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
その野性味を帯びた精悍な顔立ちの中にある、不器用なほどの優しさ。北方の過酷な環境で戦い抜いてきた彼だからこそ持つ、絶対的な安心感がそこにあった。
「……ありがとうございます。ですが、眠る前に少しだけ、これからの話をさせてください」
「これからの話?」
「ええ。シュタインベルク領の現在の財政状況と、産業の規模についてです。先ほど『領地を大陸一豊かにする』と宣言した以上、さっそく計画を練らなければなりませんわ」
私がドレスの隠しポケットから小さな手帳と万年筆を取り出すと、レオンハルト様は目を丸くし、やがて腹を抱えて大声で笑い出した。
「はははっ! お前という女は! 王家を見捨てて数時間も経っていないというのに、もう次の仕事の話か! 本当に、あの阿呆どもには勿体ないほどの傑物だな!」
「笑い事ではありませんわ。私を拾っていただいた恩は、必ず行動と結果でお返しいたします。それに……私は、働くのが好きなのです。誰かの尻拭いではなく、正当に評価してくださる方のために頭を使うのは、とても楽しいことですから」
「……ああ、そうだな。俺はお前のその頭脳も、誇り高い魂も、すべてに正当な対価を払うと誓おう。お前が望むなら、俺の領地のすべてを好きに作り変えて構わない」
レオンハルト様は優しい手つきで私の髪を撫でた。その大きくて温かい手の感触に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、手帳に北方の開発計画の青写真を書き込み始めた。
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その頃、王都グランヴェルは、建国以来最大のパニックに陥っていた。
夜が明け、朝日が王都の白亜の城壁を照らし出した瞬間、異変は起きた。王都全体をドーム状に覆い、魔物の侵入を防いでいた『絶対防壁』の青白い光が、パラパラとガラスが砕けるような音を立てて消滅したのだ。
「結界が……結界が消えたぞ!!」
「魔術師団は何をしている! 早く再構築しろ!」
城壁の見張りに立っていた騎士たちが慌てふためき、魔術師団の詰め所へと走る。しかし、詰め所はもぬけの殻だった。
当然である。王都の防衛結界を維持していた高位魔術師の八割は、クロムウェル公爵家が私財を投じて育成し、派遣していた者たちなのだ。彼らはエレノアの「直ちに引き上げよ」という命令に従い、夜明け前に荷物をまとめて王都を去っていた。
残された数名の王家直属の魔術師たちでは、巨大な結界を維持するための魔力も、高度な術式を解読する技術も足りなかった。
結界が消滅したことにより、王都の周辺にある『暗黒の森』から、魔物たちが瘴気とともにじわじわと這い出し始めていた。これまでは結界の光を恐れて近づかなかったゴブリンやオークの群れが、剝き出しになった王都の城壁を見て、涎を垂らしながら接近してくる。
「ひぃぃっ! 魔物だ! 門を閉めろ!!」
「逃げろ! クロムウェル家の騎士団が撤退して、今の城壁警備隊の数じゃ防ぎきれないぞ!」
街は大混乱に陥った。
さらに絶望的な報せが、次々と王城の執務室へと飛び込んでくる。
「ユリウス殿下! 一大事でございます!」
寝癖も直さず、顔面を蒼白にした宰相が、書類の散乱する執務室に転がり込んできた。
昨夜の夜会での出来事から一睡もできていないユリウス王太子は、充血した目で宰相を睨みつけた。
「騒々しい! 結界が消えたくらいで喚くな! 予備の魔石を使えばなんとかなるだろう!」
「そ、それが……予備の魔石を保管していた宝物庫の鍵が開きません! 管理を任されていたクロムウェル家の文官が、鍵を持ったまま姿を消したのです! 物理的に破壊しようにも、公爵家特製の強固な魔法錠が掛けられており、我々では傷一つつけられません!」
「なんだと……!?」
「それだけではございません! 今朝一番で、クロムウェル銀行の使者が参りました。昨夜エレノア様がおっしゃっていた、金貨八千万枚の負債について……本日正午までに全額返済できなければ、王家の直轄領すべての差し押さえを執行する、と……!」
宰相の言葉に、ユリウスは目の前が真っ暗になるのを感じた。
金貨八千万枚。国家予算の約十年分に相当する途方もない金額だ。そんな大金、今のすっからかんの国庫にあるわけがない。
「ば、馬鹿な……エレノアは本気でこの国を滅ぼすつもりか!? 私はこの国の次期国王だぞ! たかが婚約破棄された腹いせに、ここまでやるなど……狂っている!」
「殿下! それだけではありません! 主要な街道がすべてクロムウェル家の私兵によって封鎖されました! 食料を積んだ馬車が王都に入れません! このままでは、三日以内に王都の食料は底を突きます!」
「財務卿はどうした! 他の貴族たちから資金をかき集めろ!」
「財務卿は……今朝、屋敷の金庫の中身をすべて持って、馬車で他国へ逃亡いたしました……!」
「…………は?」
ユリウスは力なく椅子に座り込んだ。
これまで、何か問題が起きれば、翌朝にはエレノアがすべて完璧に解決してくれていた。彼はただ、用意された書類にサインをし、「よくやった」と鷹揚に頷くだけで、名君として称賛されてきたのだ。
しかし、エレノアという巨大な後ろ盾を失った今、彼に残されているのは、無能な官僚たちと、底の抜けた国庫と、迫り来る魔物の群れだけだった。
「ユリウス様ぁ……」
そこへ、薄紅色の髪を乱したリリアが、涙目で執務室に入ってきた。
「朝食がまだなんです。厨房に行っても、料理長がいなくて……私、お腹が空いてしまいましたわ。それに、外が騒がしくて怖いです。早くあの生意気なエレノアを捕まえて、私に美味しいものを食べさせてくださいな」
緊迫した状況をまったく理解していないリリアの甘ったるい声に、ユリウスの頭の中で何かがプツンと切れた。
彼女は自分を「癒してくれる」存在だと思っていた。エレノアのような理屈っぽい説教などせず、ただ自分を称賛し、寄り添ってくれる可愛い天使だと。




