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これ以上、あなたに割く時間はありませんので  作者: 逆立ちハムスター


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1/1

華麗なる幕引き

 豪奢なシャンデリアが、万の星を閉じ込めたかのように眩い光を放っている。

 王城の中心に位置する『白亜の広間』は、建国三百年の節目を祝う夜会のために、国中から集められた絢爛たる装飾で埋め尽くされていた。壁には金糸で織られた歴代王家のタペストリーが掛けられ、大理石の床は磨き上げられて鏡のように貴族たちのドレスの裾を映し出している。

 オーケストラが奏でる優雅な演奏が、最高級の香水と芳醇なワインが混ざり合った甘い香り、そして権力と欲望が交錯する貴族たちの囁き声。それらすべてが、このグランヴェル王国がまだ「繫栄している」という幻影を完璧に作り出していた。


 ただ一人、私——エレノア・ヴァン・クロムウェル公爵令嬢を除いて。


「ふふっ、ユリウス様。あのドレス、とても素敵ですわね」

「ああ、だが君の愛らしさには遠く及ばないよ、私の可愛いリリア」


 広間の中心から少し離れた場所で、私は冷え切った紅茶の入ったグラスを手に、彼らの様子を静かに観察していた。

 この国の王太子であり、私の十年来の婚約者であるユリウス・フォン・ランカスター。月明かりを思わせる輝く金髪に、晴れ渡る空のような青い瞳。神書から抜け出してきたかのような完璧な美貌を持つ彼は、今日も大勢の取り巻きを従え、自らの権力を誇示するように胸を張っていた。

 しかし、彼の隣に立っているのは、本来エスコートされるべき婚約者の私ではない。薄紅色の髪をふわりと揺らし、守護欲を掻き立てるような潤んだ大きな瞳を持った少女——リリア・メイソン男爵令嬢だった。


 彼女は身分にそぐわない、王族が纏うような最高級のシルクと魔石をあしらったドレスを着込み、ユリウスの腕にぴったりとすがりついている。時折、周囲の貴族たちに向けて「私こそが王太子の寵愛を受けているのよ」とでも言いたげな、優越感に満ちた視線を投げかけていた。

 私の周囲にいる良識ある貴族たちは、その光景を見て眉をひそめ、あるいは私に同情的な視線を向けている。だが、私はただの一度も表情を崩すことなく、完璧な淑女の笑みを唇に張り付けたまま静観していた。


 なぜなら、今夜、すべてが終わるからだ。


 突如として、オーケストラの演奏が不自然な形でピタリと止んだ。

 広間に満ちていた喧騒が潮が引くように消え去り、静寂が降り降りる。何事かと貴族たちが視線を彷徨わせる中、広間の中央にある一段高い壇上に上がったユリウスが、よく響く声で高らかに宣言した。


「皆の者、今宵という記念すべき夜に、重大な発表がある!」


 彼の手には魔力を増幅する小さな魔石が握られており、その声は広間の隅々にまで轟いた。ユリウスは隣で怯えたように身を竦めるふりをするリリアの肩を抱き寄せると、広間の端に立つ私を、憎悪に満ちた瞳で真っ直ぐに指差した。


「エレノア・ヴァン・クロムウェル! 氷のように冷酷で、嫉妬に狂った傲慢なる悪女よ! 貴様との婚約は、今日、この場をもって破棄させてもらう!」


 その瞬間、広間は爆発したかのようなざわめきに包まれた。

「王太子殿下が、クロムウェル公爵令嬢との婚約を破棄……!?」

「建国祭の夜会で、あのような宣言を……正気か?」

「クロムウェル公爵家を敵に回すおつもりか!?」

 悲鳴にも似た貴族たちの囁きが波のように広がる。しかし、ユリウスは己が絶対的な正義であると信じて疑わない様子で、ふんぞり返っていた。


 私はゆっくりとグラスをテーブルに置き、扇を開いて口元を隠した。

 動揺? 悲しみ? 絶望?

 いいえ、私の胸の奥底で渦巻いていたのは、到底言葉にはできないほどの深い『疲労』と、そして甘美な『歓喜』だった。


(ああ……やっと。やっと、この愚かな男のしりぬぐいから解放されるのね)


 私がユリウスの婚約者となったのは、わずか十歳の時だった。

 我がクロムウェル公爵家は、建国当初から王家を財政・軍事・魔法技術のすべての面で支えてきた、王国最大の柱石である。王太子妃教育という名のもとに王城に上がった私を待っていたのは、遊んでばかりの愚鈍な王太子と、腐敗しきった王宮の官僚たちだった。

 私は血を吐くような努力で政治、経済、法学、軍事学を修めた。ユリウスが狩りや夜会で享楽に耽っている間、私は冷たい執務室に籠り、何千枚もの書類に目を通してきた。

 領地の税収不足を補うための新しい農業政策、隣国との国境紛争を回避するための血を吐くような水面下の外交交渉、魔物討伐のための騎士団への予算配分。彼が「聡明な王太子」として民衆から称賛を浴びていたその功績のすべては、私が徹夜で組み上げた計画書と、クロムウェル家の財力による裏付けがあってこそのものだった。


 私は彼を愛していたわけではない。ただ、次期王妃としての「義務」を果たすためだけに、己の青春と人生のすべてを捧げてきたのだ。

 それなのに、彼は一年前にこの男爵令嬢を見初めると、みるみるうちに骨抜きにされた。「エレノアは口うるさくて冷たい。リリアは私を癒してくれる」と公言し、私が忠告すればするほど意固地になっていった。


「黙っているということは、自らの罪の重さに言葉も出ないということだな!」


 私の沈黙を「恐怖」と勘違いしたらしいユリウスが、勝ち誇ったように声を張り上げた。


「貴様は私がリリアを愛していることに嫉妬し、彼女に対して数々の陰湿な嫌がらせを行った! 彼女のドレスを切り裂き、階段から突き落とし、あろうことか彼女の食事に毒を盛ろうとした! 証拠も、証人もすでに上がっている!」


 ユリウスの合図とともに、三人のメイドと一人の男が前に引きずり出された。彼らはおどおどと周囲を見回しながら、「間違いありません、エレノア様が指示されました」と震える声で証言した。

 広間の空気が変わる。王族への毒殺未遂や危害は重罪だ。いくら公爵令嬢であっても、首が飛ぶ可能性があった。


「それだけではない!」

 ユリウスの追及は止まらない。彼はここぞとばかりに私の罪状を並べ立てた。

「貴様は公爵家の権力を笠に着て、国庫の金を長年にわたり横領していたという証拠もある! 救貧院へ送られるべきはずの資金を抜き取り、己のドレスや宝石に変えていたそうだな! この国賊め!」


 国庫の横領。

 その言葉が出た瞬間、私は思わず扇の裏で声を出して笑いそうになってしまった。

 横領? 私が?

 限界まで張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れる音がした。同時に、十年間私を縛り付けていた鎖がバラバラに砕け散るのを感じた。


 私はゆっくりと扇を閉じ、静かな、けれど誰もが振り返るような凛とした足取りで、壇上のユリウスへと歩み寄った。コツ、コツ、とヒールの音が広間に響き渡る。

 私の堂々たる態度に、ユリウスは一瞬たじろぎ、リリアは彼の背中に隠れて「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。


「……ユリウス殿下」


 私は冷ややかな声で口を開いた。その声には一切の感情が込められていなかったが、広間の空気を氷点下まで下げるには十分だった。


「まず、私からいくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか?」

「な、なんだ! 今さら命乞いか! 貴様の罪は明白だ!」

「命乞いなどいたしません。ただ、あまりにも事実と異なる点が多いものですから」


 私は証言台に立たされたメイドたちを一瞥した。

「リリア男爵令嬢のドレスが切り裂かれたという件ですが、それは先月の『星降る夜会』の日のことでしたね?」

「そ、そうだ! リリアが控室で泣いているのを見つけた時、貴様の姿が近くにあったという証言がある!」

「奇妙な話ですわね。その日、私は隣国の通商代表団との最終交渉が難航しており、夜会には出席すらしておりません。一晩中、宰相閣下および財務卿と共に執務室におりました。……宰相閣下、そうでしたわね?」


 私が群衆の中に視線を向けると、初老の宰相が真っ青な顔をして一歩前に進み出た。彼はハンカチで額の冷や汗を拭いながら、深く深く首を縦に振った。

「は、はい! エレノア様のおっしゃる通りです! あの日、エレノア様が一歩も執務室を出られなかったことは、私だけでなく、共に徹夜をした十名以上の文官が神に誓って証明いたします!」

「なっ……」

 ユリウスの顔が引き攣る。


「次に、階段から突き落としたという件ですが……それは二週間前の火曜日の午後ですね。その時間帯、私は東部国境で発生した魔物の異常発生に対処するため、騎士団長と共に魔石の防壁強化の陣頭指揮を執っておりました。王都から馬で三日かかる距離にいた私が、どうやって王城の階段から彼女を突き落とせるのでしょうか? 空間転移の魔法でも使ったと?」

「そ、それは……っ!」

「そして毒の件ですが」

 私はさらに冷酷に事実を突きつける。

「その証人として立っている男は、三日前に賭博の借金で首が回らなくなり、王城の厨房を解雇された元下働きですわね。彼に借金の肩代わりを条件に偽証を持ちかけたのは、殿下の側近であるボルク伯爵令息です。……証拠の念書と、金の受け渡しの記録なら、ここにございます」


 私はドレスの隠しポケットから数枚の羊皮紙を取り出し、ユリウスの足元へひらりと落とした。

 群衆の中からボルク伯爵令息が「ひぃっ!」と悲鳴を上げて後ずさりする。すべてが崩れ去っていくのを目の当たりにして、ユリウスは口をパクパクと金魚のように開閉させていた。


「嘘よ……嘘ですわ! この女が嘘をついているんです!」

 それまで大人しくしていたリリアが、突然金切り声を上げた。

「私、見ましたもの! エレノア様が私を睨みつけて、『お前なんか消してやる』って! だから殿下、早くこの女を捕まえて、牢屋に入れてください!」


 見苦しくわめき散らす男爵令嬢を、私はひどく冷めた目で見下ろした。

「……消してやる、ですか。私が貴方のような何の実害もない小石に、わざわざ手を下すと本気で思っているのですか?」

「なっ……こ、小石……!?」

「ええ、小石です。殿下が貴方と遊んでくださるおかげで、私は執務に集中できて大変助かっておりました。貴方は私にとって、優秀な『王太子の玩具』でしかありませんでしたから」


 広間が水を打ったように静まり返る。公爵令嬢が王太子とその寵姫に向かって放った、あまりにも侮蔑的な言葉に、誰もが息を止めた。


「き、貴様ぁっ! 不敬であるぞ!!」

 ユリウスが顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

「私が何と言おうと、貴様が国庫を横領していた事実は変わらない! 救貧院の資金が消えているのは事実なのだ! 貴様しかそんなことをできる権限を持つ者はいない!」


 ああ、と私は小さく息を吐いた。

 ここからが、私の十年間に対する本当の『精算』の時間だ。


「セバスチャン」

 私が短く呼ぶと、広間の入り口から、黒燕尾服に身を包んだ初老の男が音もなく進み出てきた。私の専属執事であり、クロムウェル家を裏から支える影の筆頭である彼は、背後に五人の従者を従え、彼らにはそれぞれ抱えきれないほどの分厚い書類の束を持たせていた。

 セバスチャンは私の前に恭しく一礼すると、その書類の束を壇上のテーブルにドサリと積み上げた。


「エレノアお嬢様、ご指示の品をお持ちいたしました」

「ご苦労様。……さて、ユリウス殿下。そして、この場にお集まりの貴族の皆様。これより、この国の『真実』をお見せいたしましょう」

 私は一番上にあった革張りの台帳を手に取り、バン!と音を立てて開いた。


「殿下は私が国庫の金を横領したとおっしゃいましたが、それは大きな間違いです。なぜなら——現在の国庫には、横領できるような金など一束たりとも存在しないからです」

「……は?」

 ユリウスが間の抜けた声を出した。


「今から三年前。殿下が毎晩のように開かれる豪華な夜会、リリア男爵令嬢をはじめとする愛妾たちに贈られた数々の国宝級の宝飾品、そして殿下の派閥に属する貴族たちによる無計画な領地開発と中抜き……これらによって、グランヴェル王国の国庫は完全に底を突きました」

「な、なにをでたらめな! だったらなぜ国は回っている! 夜会は開かれ、騎士団には給金が支払われているではないか!」


「ええ、回っていますとも。——私が、クロムウェル公爵家の私財を投じて、あなた方の吐き気を催すような浪費の穴埋めをしてきたからです」


 広間に衝撃が走った。誰もが自分の耳を疑うように顔を見合わせている。

「この三年間、王宮で消費されたワインの一滴、シャンデリアの魔石の欠片一つに至るまで、すべて我がクロムウェル家の資金で賄われています。救貧院の資金が消えたのではありません。そもそも国から拠出する予算がなかったため、私が個人的な寄付という形で支援を継続していただけのことです」

 私は書類の束を次々と開き、広間の貴族たちに見せつけるように掲げた。


「これは王家の収支決算書。そしてこちらは、王家および殿下の派閥の貴族たちが、我がクロムウェル家が経営する商会や銀行から『個人的に』借り入れた負債の証明書です。そのすべてに、王家の印と殿下のサインが記されています」

「そ、それは……! 私はただ、書類にサインをしろと言われたから……!」

「中身も確認せずにサインをしたと? 王国を統べる者が? 呆れて言葉も出ませんわ」


 私は氷のような視線をユリウスに突き刺した。

「殿下。貴方は自らの手で、この国を支えていた最大の柱石を叩き折ったのです。私がこの負債の事実を黙っていたのは、貴方がいつか王としての自覚を持ち、国政に向き合う日を信じていたからです。ですが、貴方は私の献身を嘲笑い、無実の罪を着せ、公衆の面前で私の名誉を泥で汚した」


 私は深く息を吸い込み、広間の隅々にまで届く声で、はっきりと宣言した。


「ユリウス・フォン・ランカスター王太子殿下。婚約破棄の件、喜んでお受けいたします」

 私は完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。ドレスの裾が美しい円を描き、誰よりも優雅な所作で頭を下げる。

 そして顔を上げた時、私の口元には、この十年間で一度も見せたことのない、心底冷酷で、残酷な微笑みが浮かんでいた。


「同時に、我がクロムウェル公爵家は、本日をもって王家に対する一切の支援を打ち切ることを宣言いたします」


「……なっ」

 ユリウスの喉から、ひゅっ、という奇妙な音が漏れた。

「明日より、我が領地を通るすべての王国軍の通行を禁じ、主要な交易路を封鎖します。また、王都に派遣していた我が派閥の文官、魔術師、そして騎士団員のすべてを直ちに引き上げさせます。王都の結界を維持している魔術師の八割は、我が家の息がかかった者たちですから、明日の朝には防壁の魔力は途絶えるでしょう」


 広間から「ひぃっ!」という悲鳴があちこちで上がり始めた。

 王都の結界が消えれば、森から魔物が容易に侵入してくる。交易路が封鎖されれば、三日で王都の食料は尽きる。優秀な文官がいなくなれば、行政は一瞬で麻痺する。

 この瞬間、彼らはようやく理解したのだ。この国を統治していたのは王家ではなく、目の前に立つ二十歳の令嬢であったという事実を。


「ま、待て! 待ってくれエレノア! そ、そんなことをすれば国が滅ぶぞ! お前は自分さえよければ国がどうなってもいいというのか! 悪魔め!」

 ユリウスが顔面を蒼白にして叫ぶ。


「ええ、そうですね。ですが、それはもはや私の知る由ではありません。『冷酷で傲慢な悪女』が、なぜ貴方たちの世話を焼かなければならないのですか?」

 私は肩をすくめてみせた。

「愛するリリア男爵令嬢がいらっしゃるのでしょう? 彼女の『愛』と『癒し』で、国を回してみせればよろしいではありませんか。魔法のように金が湧いてくるかもしれませんわよ?」

「あ……あ……」


 ユリウスはついに膝から崩れ落ちた。玉座の床にへたり込み、震える手で頭を抱えている。リリアは何が起きているのか完全に理解できていないらしく、「ユリウス様……? どうなさったの? 早くこの女を捕まえて……」と間抜けな声を出し続けていたが、もはや誰一人として彼女に同調する者はいなかった。


 その時、広間の巨大な扉が乱暴に開け放たれた。

「何事だ! この騒ぎは!!」

 血相を変えて飛び込んできたのは、病床に臥せっていたはずの国王陛下であった。急使から事の次第を聞きつけ、寝着の上にガウンを羽織っただけの姿で駆けつけてきたのだ。

「ユリウス! 貴様、エレノア嬢に何という真似を! 今すぐ謝罪しろ! クロムウェル家を失えば、この国は終わりなのだぞ!!」

 国王は息子の胸倉を掴み、狂乱したように怒鳴り散らす。


 しかし、もう遅い。

 私は冷ややかにその親子劇場を見下ろした。


「国王陛下。大変申し訳ございませんが、すでに決定したことです。さらに申し上げますと……」

 私は手元に残っていた最後の一枚の書類を、ヒラリと宙に放り投げた。

「先ほど申し上げた、王家の抱える金貨八千万枚の負債。これにつきましては、明日付で一括での返済を求めさせていただきます。返済が滞るようであれば、契約に則り、王家の所有する直轄領すべての割譲をもって代えさせていただきますわ」


「はち、せん、まん……?」

 国王の口から泡が吹き、そのまま白目を剥いてその場に倒れ込んだ。

「陛下!!」「お医者様を!!」

 広間は完全なパニック状態に陥った。泣き叫ぶ令嬢、逃げ出そうとする貴族、倒れた王を介抱する者。建国祭の美しい夜会は、文字通り地獄絵図へと変わった。


 私はその阿鼻叫喚の光景を、ただ静かに、瞳の奥に焼き付けた。

 十年の苦労。吐血しながら書類に向かった夜。冷たい言葉を投げつけられながらも、国のためにと耐え忍んできた日々。

 そのすべてが、今、この瞬間報われたのだ。


「殿下」

 私は、床に這いつくばってただ震えているかつての婚約者に向けて、最後の言葉を紡いだ。


「本日をもって、あなた達は終了です」


 私は踵を返し、倒れた人々やパニックに陥る貴族たちの間を、悠然と歩き出した。

 群衆はモーセの十戒のごとく、恐れおののいて私を避けて道を空ける。誰も私を止めることはできない。私を引き留める権利を持つ者など、この国にはもう存在しないのだから。

 広間の重厚な扉を抜けるとき、背後から「エレノア! 頼む、私を見捨てないでくれ!」というユリウスの情けない叫び声が聞こえた気がしたが、私は一度も振り返ることはなかった。


────


 王城の喧騒から離れた、夜の静寂に包まれた裏庭。

 冷たい夜風が火照った頬を撫でる。私は大きく息を吸い込み、そして、十年間溜め込んでいた重い息をすべて吐き出した。

「……終わったわ。本当に、全部」

 ぽつりとこぼした呟きは、誰に聞かせるためのものでもなかった。


「随分と派手な幕引きだったな、エレノア」

 不意に、暗闇の中から低く、しかし心地よいバリトンの声が響いた。

 驚いて視線を向けると、巨大な樫の木の陰に、壁に背を預けて立つ大柄な男の姿があった。

 漆黒の軍服に、夜の闇に溶け込むような黒髪。そして、野を駆ける肉食獣のように鋭く、黄金に輝く瞳。

 北方の国境線をたった一つの軍団で守り抜き、他国から『北の怪物』と恐れられている男。グランヴェル王国大公にして、北部辺境伯——レオンハルト・フォン・シュタインベルクだった。


「レオンハルト様……。いつからそこに?」

「お前があの馬鹿王太子に、借金の証文を突きつけたあたりからだ。いやはや、あんな痛快な見世物は戦場でもなかなかお目にかかれない。最高のエンターテインメントだったぞ」

 彼はニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、長い脚を交差させた。


「聞いていたのなら、止めに入ればよかったではありませんか。王族の危機でしたのよ?」

「冗談を言うな。俺が乱入して、お前のあの美しくも恐ろしい断罪劇の邪魔をできるわけがないだろう? ……それに、俺はずっとこの時を待っていたんだ」

 レオンハルトは私に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。彼の大きな身体が月明かりに照らされ、圧倒的な存在感を放つ。彼は私の目の前で立ち止まると、おもむろに片膝を突いた。


 それは臣下が主君に行う最上級の敬礼。

 いや、騎士が愛する姫君に忠誠を誓う時の姿勢だった。


「よく耐え抜いたな、俺の美しく気高き氷の女王」

 彼は大きな手で私の小さな手を取り、その手の甲に、火傷しそうなほど熱い口づけを落とした。

「お前が王家の鎖に繋がれている間、俺はただ北で牙を研ぐことしかできなかった。だが、お前は自らの力でその鎖を引きちぎってみせた。見事だ、エレノア」

「レオンハルト……」


 彼の不器用で、けれど真っ直ぐな言葉に、私の胸の奥底で固く凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出していくのを感じた。

 十年間、誰からも「よくやった」と褒められることはなかった。完璧であって当然。尽くして当然。そう扱われてきた私にとって、彼の言葉はどんな宝石よりも尊いものだった。


「馬車は用意してある。我がシュタインベルク領へ向かう用意はとうにできているぞ」

 レオンハルトは立ち上がり、私に向かって大きく力強い手を差し出した。

「くだらない王家の泥船から降りて、俺のところへ来い、エレノア。俺はお前の知略を、その冷酷さを、そしてその奥にある本当の優しさを、誰よりも愛している」


 突然の愛の告白。

 しかし不思議と驚きはなかった。彼が北方の地から定期的に送ってきてくれた無骨な手紙の数々に、私がどれほど救われてきたか。彼がどれほど私を想ってくれていたか、薄々は気づいていたのだから。


 私は差し出された彼の手を見つめ、そして、この十年間で初めて、心からの純粋な笑みをこぼした。


「ええ。喜んで、レオンハルト様。私のすべてを懸けて、今度は貴方の領地を大陸一の豊かな土地にして差し上げますわ」

「ははっ! それは頼もしい。あの馬鹿どもには過ぎたる宝を、ついに俺が手に入れたというわけだ」


 レオンハルトは私の腰を抱き寄せると、そのまま軽々と私を抱え上げた。

 私たちは夜の闇に紛れて待機していた漆黒の馬車へと乗り込む。

 背後にある白亜の王城からは、いまだに悲鳴と怒号が聞こえていた。明日の朝になれば、この国は未曾有の混乱に陥り、やがて緩やかに滅亡への道を辿るだろう。彼らがこれまでに犯してきた愚行の報いを受ける時間は、これからたっぷりと用意されているのだ。


 馬車がゆっくりと動き出し、冷たくも自由な夜風が窓から吹き込んでくる。

「さあ、帰ろうか。俺たちの城へ」

 隣に座るレオンハルトが、愛おしそうに私の髪を撫でた。


 沈みゆく泥船を捨てた令嬢の、本当の人生の幕開け。

 これから始まるのは、誰かのための犠牲の物語ではない。私自身の手で掴み取る、至上の愛と幸福の物語だ。

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