第三十八話 陽光
「おいハルト!ハルト!!待てってばハルト!!」
雪原を逃げるように去るハルト。その後ろを追うのは三角巾で腕を吊っているクモナだ。
エルギンの本城で起きたハルト救出戦から一日。そして意識を取り戻してから数時間。
ハルトはその精神状況に反して記憶力が明確で、幸か不幸か、数時間も経たぬ内に何があったのかを全て把握してしまった。
ダッキによってあの村が滅ぼされたこと。罪の無い村人が一人残らず殺されたこと。連れ去られた先でアナが凌辱されたこと。アンデルセンやクモナが助けに来たこと。そして、アンデルセンが自分を逃すために死んだこと。
そうしてここ数日の出来事を回想し追憶し、あらゆる全てを把握した時、ハルトは嗚咽した。激しく嗚咽し、胃の内容物を全て吐き終えて尚、吐き気が治らなかった。
あの出来事が、絶望の淵で見たあの光景が夢では無かったと知った時、思考が真っ黒に染まる感覚を覚えたものだ。
逃げ場の無い現実。心臓の奥の方が軋み、目の奥が熱くなり、喉が詰まる。視界は涙でぼんやりと滲んだが、現実ははっきりと見えていた。否、見えてしまっていた。
どうしようもない絶望だった。自分の命が助かったからと歓喜雀躍することは到底出来ない。あるのは耐え切れないほどの悔恨。そして自己嫌悪。あの時戦うことを選んでいなければ、自分一人で生きていれば、或いは一人で自決していたら、こうはならなかったとつくづく自分の愚かさに嫌悪感を催す。
つまり、ハルトにとっての希望の光は既に失われた。
もうハルトには、何も考えられない。
立ち上がる力が無い。再び敵へと向かっていく気力など到底無い。
まるで何事も無かったかの様に、その場から逃避することしか出来ない。
「なぁ!ハルト!!こんな雪の中どこ行こうってんだよ!!止まれっておい!」
支部の外は猛吹雪だ。ハルトの白い髪は雪に吹雪かれる余計に純白に染まる。打ち付ける雪は雨よりも冷たく、彼の心身を芯から凍結させた。身も、心も、全てが凍てついて何も考えられない。
それでも現実から逃避しようとするハルトの歩みは止まらなかった。足取りが重く、雪に掬われそうになっても歩みは止まらなかったのだ。
「なぁハルト!!止まれよ!!そっちには何もねぇって!!くそっ!声聞こえてねぇのか!?」
思わず飛び出してきたクモナの声は、吹雪に阻まれてかハルトに届かない。ハルトがクモナの方向へ振り返ることは無かった。
「ちくしょう!こんな吹雪の中を!止まりやがれっ、ハルト!!」
痺れを切らしたクモナは雪を踏みつけるとハルトの方向へと飛び、その肩をがっしりと掴んだ。
「なぁ、ハルト!どこへ行こうってんだよハルーーート…」
そしてクモナは無理矢理にハルトを振り向かせる。
が、振り向いた顔があまりの生気の無さに息を呑んで瞠目した。
涙と雪でグジュグジュに崩れ、全くもって光を映さない眼球は一体どんな景色を見ているのか。
クモナがじっとハルトのことを見つめようと、まるで焦点の合わない視線が虚に泳いでいた。
「……ハルト。なぁ…。少し、話をしようぜ…?こんな雪の中、どこに行ったって何にもなんねぇからさ…」
「……もう…いい。俺に近寄らないでくれ…。もう俺は…もう……ダメなんだよ」
「ダメって…お前そんな」
「そんなことを言うな」と、喉まで出かかったその言葉をクモナは飲み込む。
ハルトの精神状態は瓦解寸前だ。あと一言で廃人になってしまってもおかしく無かった。
故にクモナは慎重に言葉を選ぶ。何を言うべきか、逆に何を言わぬべきか。理性と自我の狭間でクモナは言葉を探した。
「なぁ…ハルト。俺は、お前に生きてて欲しいよ?お前が今、どれだけ死にたいと思ってても、お前は俺の指標だ。少なくとも俺は、お前に生きて欲しいと思ってんだよ」
「……そっか。ありがとう」
「………。なんだよ…、そんな悲しそうな顔すんなよ…」
クモナの思いの吐露に対し、気の抜けた返事をしたハルト。
クモナから逸らした顔はまたどこかあらぬ方向を向き、再び支部とは別の方向へ歩き出そうとする。
「…なぁ頼むよ、戻ろうハルト。お前に死んで欲しく無いのは俺だけじゃ無いんだぜ?お前の力が必要だからとかじゃ無い。純粋に、人として、お前に死んで欲しく無いんだ」
「………うるさい。そんなの、わかってるよ」
「わかってねぇよ、お前のことをどれだけ思ってるかなんて。アナだって、アンデルセンだってそうだろ?そうじゃなきゃあんな命を削ってまでお前を助けるもんか」
「……うるさい…」
「アナは何のために身を挺してお前を助けたんだよ!?アンデルセンは何のためにお前に命を預けたんだ!?帝国の奴らだって、あの時の村の奴らだって、お前のことをどうでもいいと思ってるわけなーーー」
「うるさい!!!黙ってくれよクモナ!!」
ピシャリと空を打つハルトの叫び。音を立てて凪いでいた吹雪が一瞬止んだように感じるほどの静寂。自暴自棄になった男の絶叫は、クモナを一瞬怯ませた。
しかし、逆にスイッチの入ったクモナはハルトに引き下がる。
「…てめぇ、うるさくねぇって!アンデルセンだって、アナだって、それに…俺だってな!お前にそんな顔して欲しくて助けた訳じゃねぇぞ!」
「っ、!じゃあどんな顔しろってんだよ!生きてるだけで周りで沢山人が死んでいくんだ!色んな人間が不幸になるんだ!それなのに生きろって…それなのに悲しい顔するなって…!!何もわからねぇくせに!!」
「わかるよ!!俺だって疎まれながら一人で生きてきたんだ!少しぐらいわかるさ!だから…、俺が普通に生きれる様になったみたく、お前にも普通に生きて欲しいんだよ!」
「…だったら!!!だったらなんで!俺に希望を持たせたんだよ!!!!」
ハルトが振り返り、絶叫する。
クモナの胸ぐらを掴んだハルトは理性をかなぐり捨て、怒号とも、慟哭とも、哀叫とも取れる劈くような咆哮を彼に向けた。
長い間、ハルトの思いを抑え込んでいた蓋が外れたのだ。箍が外れ、制御不能に陥ったハルトの情念が、まるで津波の如く口から吐き出される。
止まらなかった。止めようとも無駄だった。この数ヶ月で味わったあらゆる苦悩は最早、誰にも止められない。
張り詰めていた何かが、確かにぷつりと切れた瞬間であった。
「お前らが俺に優しくしたからッ!!お前らが俺に期待なんかするからッ!!だから俺は…勘違いしちまったんだよ!!まだ俺にもやれることがあるんだって!まだ俺も生きてていいんだって!!人並みの欲求を持っててもいいんだって思っちまったんだ!!!
でもッ!現実は全部違った!!俺が欲をかく度に人が死んだ!!俺が強くなったと思ってもより強い奴らに蹂躙された!!俺が立ち上がる度に災いが起きた!!俺がッ生きているだけでッ!たっくさんの人間が死んでいった!!
考えてみろよクモナ!!全部誰のせいだ!?!?全部全部…みんなが苦しんでいるのも何もかも全部俺がいるからじゃねぇか!!俺のせいじゃあねぇかよッッッ!!!!!」
「……でも、…」
「それをわかるって笑わせんな!!!誰がわかるんだよ!?生きてるだけで不幸をばら撒く人間の気持ちを!!平穏に生きようとしてんのにそれすら叶わない人間の気持ちを!!誰がッ!わかるって言うんだよッ!!!俺を慰めてぇなら勝手にやれよ!!!!!」
「ッ………。…」
言葉に詰まるクモナ。されど、ハルトの慟哭は止まらない。
「もう…うんざりなんだよ……!俺は俺と言う人間が嫌いだ…!
…何度やってもダメだった。何度頑張ってみてもその度に打ちひしがれた…。もう……俺は頑張れないんだよ………」
抑圧し続けてきたハルトの思いは、やはり止まらなかった。感情の奔流は溢れ続け、溜め込み続けた苦しみの言葉の数々は震えと共にクモナへと叩きつけられる。
ハルトにはもう、取り繕う気力すら残っていなかった。
滂沱と涙を流しながら乾いた笑みを浮かべ、驚く程の寂寞と共に心は崩れ去る。
吐き出した後の彼は最早抜け殻だ。そこに生気は無い。熱が無い。怒りも、哀愁も無い。
あるのは自分と、その運命に対する諦念だけ。
光を映さない眼はまるで底なしの闇の様に暗い。濁っている訳では無く、ただただ虚無であった。
それはクモナに何も言わせない無言の威圧。何を言おうと響くことが無いのだと感じさせる悲愴の殻。
ハルトにはもう、あらゆる活力が残っていない。
「…じゃあ。北方のことも、屍人のことも…全部諦めるのか??」
「………、諦める…。俺はもう…戦えない……」
「お前のことを待ってる人たちには何て言うんだよ。アナには?あの灰色髪の女には?帝国にいる奴らにも、もしかしたら生きてるかもしれないアンデルセンにも…!お前は何て言うんだ…!?」
「………死んだって、伝えてくれよ……。俺はもう、みんなに会いたくもないんだ。会えばまた、やり直してもいいかって思ってしまうから…。クモナも、もう…俺のことは構わないでくれ…。頼むから」
ハルトはクモナを突き放す。
抜け殻同然のハルトも、この時点でやや揺れていたのだ。
クモナに諭され、良くしてくれる人々の顔を浮かべ、また立ち上がってもいいかも知れないとも心のどこかで感じていた。
しかし、それで幾度となく後悔を重ねた二月である。
ハルトの胸中は葛藤で揺れたが、それでももう、これ以上戦うことは出来ないと考えた。
ハルトの、悲哀の籠もった顔を見つめるクモナ。
これ以上何も言うことは無いと顔を逸らして消えゆこうとするハルト。
二人の間に、確実な壁が立とうとしていたその時…
「………だったら…。だったらよぉ!!俺を!俺を殺してから行け!!
このまま何もかんも捨てて!全部諦めてお前が消えるってんなら!!俺の生きる指標は無くなるってことだろ!!ふざけんな期待させやがって!!そんなんだったら俺を殺してから消えろよ!!!」
「え……」
「おら!やってみろよハルト!!逃げてぇなら俺がそれを拒んでやる!!俺が止めてやる!!ホントに行きてぇって言うなら、俺のことを殺してみやがれ!!」
ボグッ、とクモナの拳がハルトの腹を打つ。
折れていない方の腕は万全とは言わないが、確かにハルトの内部に鈍い痛みを与える程に本気の殴打である。
加えて、何が起こったか愕然とするハルトを蹴り飛ばす。
雪の上に勢いよく倒れ込むと、ズンズン前へ進むクモナに対して恐怖心を露わにした。
「なんだよ!逃げたいんじゃなかったのか!?ハルト!」
「う、や…。逃げてぇけど…クモナのことを殺したい訳ねぇ、じゃねぇか!!そーならないために、みんなが死なないために逃げるんだよ!」
「うるせぇ!俺はお前を逃したく無いんだからぶつかり合いになるだろ!それによぉ、お前が逃げたらもっと多くの人間が死ぬぜ。そんなの当たり前だし、お前だったわかってんだろ!?」
振り下ろされるクモナの脚をどうにか身を翻して避けるハルト。
流石のハルトも、クモナが本気で攻撃を仕掛けてきていることに気付き、ふらつきながらも立ち上がった。
「やめろよ……、なんでこんなことすんだよ、クモナ!」
「ほらっ、そーやって避けるじゃねぇか。本当は死にたく無いんだろ!?」
「……そんなの、…そんなの当たり前だろ!!!!死にたくねぇよ!!みんなと一緒にいてぇよ!!でも!!それ以上にもう失うことに耐え切れ無いんだよ!?!?なんでわかってくれねぇんだ!!」
「誰だってそうだろ!!戦場だぞ!人は死ぬもんだ!!その分多くの人を救えばいいじゃねぇか!!」
ハルトの反撃をクモナが受ける。
クモナの顔面を打つ拳は力無く弱々しいものであったが、カウンターを放つクモナの攻撃を正確に避けれる判断力を彼は持っていた。
クモナの蹴りを躱しながらハルトはもがいた。もがいてもがいて、力の入らない拳でクモナの頬を打った。片腕のクモナはハルトに攻撃を中々当てられないものの、的確に一発一発顔面を狙って攻撃を放つ。
そして、互いに顔面を打ち合う死闘になっていく。
言葉では分かり合えなかった。言葉では伝え切れなかった。
しかし幸い、二人は男同士。互いの主張が通らないのであれば残る手段は拳で語り合うのみだ。
「過去にばっかり目を向けやがって!お前の力不足は、お前の働きで取り戻せよ!後悔ばっかりに気にするんじゃ無くて、明日の自分の立ち振る舞いを気にしろ!」
「じゃあどうしろってんだ!!俺のせいで人が死ぬんだ!!俺の周りで人が死んでいくんだよ!!そんなの…俺にどうしろってんだよ!?」
「馬鹿野郎!戦場で人が死ぬのなんて日々起こることだ!戦場で身内が死ぬのも日常茶飯事だ!でもそれを悼むことはしても!自分の責務だと感じて死のうとするんじゃねぇ!!それが死んでいった奴らへの一番の侮辱だろうが!!!」
「んなことわかってんだよ!わかった上で耐え切れ無いんだ!!……希望が…、もう無いんだよ!!!」
殴り合いの中でも、ハルトの悲痛な叫びは止まらない。
心の中では徐々に、答えは出てきている様な気もしていた。しかしそれでも尚、忸怩たる思いは収まらないのだ。切歯扼腕の念をハルトは自分自身に抱き続ける。
ならば、その壁を壊すのは…
「だったら…!だったらなぁ!!俺がお前の希望になってやるって言ってんだよッ!!!!」
クモナの渾身の一撃がハルトの右頬を打ち付け、吹き飛ばした。
空中でもんどりを打ち、雪へと顔から突っ込むハルト。地面に倒れ伏すハルトにはもう、立ち上がる体力が無かった。
同時にクモナも、膝からその場にへたり込む。
「……だからよ。自暴自棄になって死ぬんじゃねぇよ。俺も、アナも、あのポチとか言う女も。全員お前のことを希望だと思ってるし、お前の希望でもある。だから安心して生きろよ」
「でも……でも、俺には…」
「お前に出来ない部分は俺らがやる。俺らだって強くなる。そう簡単に死なねぇし、そう簡単にお前を悲しませるもんか」
倒れ伏すハルトに声をかけ続けるクモナ。
二人は顔のところどころを腫らしながらも、静かに胸中を吐露し続けた。
「希望…お前らが……」
「そうだ。お前が生きる理由に俺らがなってやる。お前が挫けそうになったら何度でも発破かけてやる。お前が死にそうになったら助けてやる。その代わり、お前も俺たちのために生きろ。それじゃあダメか??」
「………」
沈黙が流れる。猛吹雪はやや収まり、しんしんと降る雪は音を立てず地面に落ちる。
一面の銀世界だった辺りは静かに差し込む陽の光を受け、それを反射させた。
言いたいことは全て言ったとばかりに、正座の体制で座っていたクモナは仰向けに雪の上へと身を任せ、倒れ込んだ。
似ている様で対照的な二人は静かな世界で空を見上げ、雲の切れ間から見え隠れする太陽を見て、その後瞑目する。
しばらくの沈黙の後、クモナはゆっくりと口を開いた。
「………なぁ……、太陽ってさ、やっぱり変な形してるよな…。…あれ、何なんだろうな」
「…………わかんねぇ。…でも、確かに変かもな……。どうしてなんだろ…」
ハルトが思案する中、クモナは身体を起こす。雪の上に座り、ぼんやりと空を見上げる。
「ーーーなぁクモナ。俺は、これから、どうすればいいんだろうな?」
「……そうだなぁ…。まぁ、あれだな。やりたい様にやればいいんじゃねぇか?」
「急に適当だな…。…でも、そっか。そうだよな。自分のやりたいこと、ね…」
ハルトは目を開き、ぼやついた視線で考え込む。
そうして二人でしばらくの間空を見上げたまま考え、「よし」と自らの頬を叩いて気合いを入れた。
上半身を勢いよく起こすとクモナに向き合い、自身の答えを発する。
「……じゃあ、アンデルセンを迎えに行くか。アイツ待ってるって言ってたし」
「おっ、そうじゃんか。アイツ案外ケロッとしてるかもしれねぇからな!迎えに行ってやんねぇとだぜ」
「おう。ついでに屍人も全部ぶっ飛ばそう。みんなの為なら…うん。なんとか頑張れる気がするんだ…」
ハルトは俯きつつも、久方振りに微笑を浮かべて決意を改めた。
芯まで冷える様な寒風が吹くなか、しかし雲の隙間から差し込まれた陽光は温もりを持って二人のことを包み込む。
太陽はやはり歪な形をしている。ひび割れたハルトの精神を表す様に不恰好な輪郭であると言えよう。
が、ハルトは崩れかけた心の綻びをどうにか防ぎ、再び前を向いた。
何度も何度も挫け、砕け、打ちひしがれ、地に伏して。その度に誰かの一言で内を補強し続ける。
そうして幾度となく繰り返されたハルトの心の再生は、今確かに盤石な支柱を得たのだ。
もう葛藤は殆ど無かった。自分のことを本当に必要としている人間の本音の吐露。それにより迷いが晴れた。
今まで自分自身の心の平穏のために戦っていたハルトは、誰かのために戦うことにシフトしたのである。
「そんじゃ、戻ろうぜハルト。ずっと外にいたら風邪ひいちまうよ」
「あぁ…そう、だな」
二人は横並びに歩き、帝国の支部へと戻る。
背後の空には、そんな二人を眺める太陽が浮かんでいた。




