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6話 アイム・クライング・アー・ユー? 涙はあなたのものじゃない

 もうどうは布を取る。


 緑色の溶液の中で、ぷくぷくと小さな泡を吐いている、ソフトクリームのような胎児。


 きつしは素早く二、三回瞬いた。自分の子供。小さな背中を丸めて小さな両手で小さな両足を抱えるその生き物。自分の子供なのだ。


 鈴音はすり足で培養液に近づいて手をついた。


 出産ドキュメンタリーというものを見たことがある。母親が出産の末、初めて我が子と対面したシーンは正直なところ作り物の匂いがした。映像を見てすすり泣くタレント、号泣する母親と赤ん坊、感動的な音楽ともったいつけたナレーション。どうしても映画やアニメと同じ感動しか得られなかった。


 番組終わりに、クレジットの後ろで母親が保育器越しに我が子を見る映像が流れた。


 透明なプラスチックだかガラスだかに手をついて上から我が子を見つめる。その目は完全なる母親だった。今までお腹の中にいた我が子だ。痛みを乗り越えてこの手にした我が子を俯瞰する。その母親の目を見た時、きつしは静かに泣いた。そこからは作り物の匂いはしなかった。純粋ななまもの。鮮やかな自然さ。母が子を見つめる目。それにはなぜだか何事にも変え難い美しさがあった。何物にも変え難い感動があった。


 水の流れる音が少しこもって聞こえた。


 鈴音は培養液の中の子供を見つめていた。


「どうだ。お前らの子供だ。男の子だ。抱いてみるか」


「あ、ああ。な、なんて言ったらいいか」


「我が子と対面してもどもるんだな」


「ありがとう、もうどう」


「いや、こんなの暇つぶしだよ。おい勝手に開けるなって」


 鈴音はどうやったか、培養液のふたを開けて黄緑色の液体にまみれた子供を抱いていた。鈴音の腕が培養液で濡れる。床に培養液がこぼれる。赤ん坊は泣き出す。きつしにはその泣き声が、記憶にある鈴音の笑い声と同じに聞こえた。


 きつしは淡々と泣いた。自分が何者であるかということも忘れて。ここがどこか、何があった後か、もうどうのことすらも忘れて泣いた。涙は出ていない。ただ、あふれた感情が顔中で氾濫していた。涙にならぬ感動の震えで、立っていられなかった。


 その子は自分の子供だ。自分は父親になったのだ。母親は泣き声を聞いて我が子を判別できるという。きつしも、その時それに似た確信を持っていた。


「まあ説明しておくと」


 もうどうの声も聞かずにきつしはすぐに鈴音に駆け寄り、右手を鈴音の肩に置いて左手を赤ん坊の濡れた頭に置いた。赤ん坊は鈴音の腕の中で四肢を振り回して泣いていた。左手でどうにか、鈴音の顔を触ろうとしている。その手に鈴音の涙が落ちる。


「そいつは確かにお前たちの子供だ。生物学的に正しい遺伝により生まれた。栄養も十分だし今日生まれた他の赤ん坊と何ら変わらんだろう」


 もうどうの足音が近づいてくる。


「ちょっと落ち着けって。ちゃんと説明聞いとけ」


 もうどうは赤ん坊を取り上げると金属のベッドの上に寝かせる。


「かわいそうでしょ、そんなところに寝かせたら」


 鈴音はすぐさま抱き上げてベッドにかかっていた布でおくるみをする。


「うるせえなあ。母性氾濫くそ出っ歯が。じゃあきつし、説明聞いとけ」


「説明があるのかい? ほ、ほ、他の赤ん坊と育て方が違うのかい?」


「いやぁ、そういうわけじゃないが。注意点がある。出っ歯。おい出っ歯」


「なによ」


「赤ん坊の腕を触ってみろ」


 鈴音は言われた通りに赤ん坊の左腕に触れる。


「なんなの?」


「どんな感じだった」


「どんな感じって、その、わたしと同じような感じだけど」


「そうだろうな。じゃあ耳たぶを触れ」


 言われた通りに耳たぶを触る。


「別に、なんともないけど」


「だろうな。いいか? そいつは確かに人間だ。クローンでも何でもない。普通の人間の赤ん坊だ」


 もうどうは目を瞑って語気を強める。


「だが所詮その赤ん坊は作り物だ。科学は万能じゃない。そいつがどういう風に育ったとしても誰にも責任はない」


「わたしたちが育てるんじゃないの」


「その通りだ。だが人はなるべきものになる。お前は出っ歯に。俺は科学者に。その流れは誰にもいじくれんものだ。我が子に期待なんかするな。過剰に干渉するな。その子の好きなようにさせてやれ。子供が科学をやりたいと言ったら無理にバイオリンなんか弾かせずにそうさせることだ」


「……何の話?」


 鈴音は舌足らずにそう言ったが、きつしははっとした。


「何でもない。重要なことだから言っておくが、そいつはお前らの遺伝子を半分ずつ持ってるんだ。だからどうな

ろうがそれはお前らの一要素の拡大にすぎない。だからもし自分たちの期待外れに成長しても文句はいうなよ。これは」


 もうどうは金属ベッドの下から怪しげな黒いダッフルバッグを持ち出した。


「この中には赤ん坊の情報が入ったフォルダや育児に必要なものが一式入ってる。当分はこれで事足りるだろうから」


 バッグをきつしに押し付ける。


「ありがとう」


「育てる場所も手配してある。家からも学校からも近い。住所を渡しておく。移動のための車は門の前に止まってる。鍵はカバンに」


 もうどうは住所の書かれた紙切れをきつしに手渡す。


「ありがとう」


「じゃあくそみたいな育児生活を楽しんでな。ていうか出っ歯。お前、親には何ていうつもりだ。さすがに四六時中母親が一緒にいないのは子供がかわいそうだ」


「ほ、ほ、ほ、ほんとだ、どうしようか」


「修学旅行ってことにするわ」


「想像力があるなら発揮してみろ。そんなんで通ると思ってるのか。もういい、出っ歯のクローンを作って生活させよう。当分はそれでいいだろう。大事なことだから口をすっぱくしていうが、変に期待するな。それにその時分で子供を持つなんて間違ってるんだからな。あとで俺に『だから言ったのに』って言われないようにしろよ」


「ああ、ありがとう?」


「てめぇ、出っ歯。てめぇのことだろ。なんだその返事は」


「だっていきなりクローンとか培養液とかよくわかんないんだもん。あと説教はうざい」


「分かった、分かった。理解しなくていいからもう消えろ。ほら、とっとと育児でも家事でもしてこい」


 鈴音は泣いた赤ん坊を抱いたまま部屋を出た。

 きつしはバッグを肩にかけた。


「も、も、もうどう。ありがとう」 


「別にいい。ただの暇つぶしだ」


「これから君はどうするのさ」


「フェンネルの言う通り、裏切り者を見つけて始末する。そのために今からサンボーンが取引を決めてから通信した相手を調べる。かなり複雑に暗号化されてるが、まあ大丈夫だ」


「て、て、手伝おうか」


「ポーズだけの言葉はいらない。早く、あの出っ歯について行ってやれ。二人で愛を育むんだろ」


「そうだね。ありがとう……」


 きつしはドアを目指す。部屋を出ようとして、やめる。


「あの、さっき言ってたことだけど」


「なんだ」


 きつしはもうどうの方を振り返る。もうどうは床にこぼれた液体に雑巾を投げていた。


「あ。あ、あの、教育のくだり。人はなるべきものになるって。子供が科学をやりたいと言ったら無理にバイオリンなんか弾かせるなって言ってたでしょ。あ、あれは君のことかい」


「いや」


「ほんとに? き、き、君とご両親の間に色々あったのは何となく分かるけど、もし辛くなったら、ぼ、ぼ、僕に話してくれていいんだよ」


「さっき否定しただろう。あれはただの例え話だ。世に親なんて五万といる。そういう親もいるだろうという推測で、お前らはそうなるべきではないという戒めだ」


「ああ。そ、そ、そうなの。分かったよ」


「さっさと行け。俺は忙しいんだよ。当分はお前が隣にいない仕事を楽しむさ」


「そ、そっか。ありがとう。じゃあ、もう行くね」


 きつしは部屋を出た。鈴音がエレベーターのドアの前で待っていた。


 きつしはキーパッドにパスコードを入力する。「1216」


 鈴音は駆け足で階段を登っていった。後を追う。少し変な気持ちだった。もうどうのあの言葉。否定されても何を言われても、頭から離れなかった。


 エレベーターへ向かうとき、デスクのランプが赤く点灯していることに気がついた。バッグを置いてデスクに駆け寄る。侵入者だ。 更衣室のドアを開けた者がいる。すかさずもうどうの衛星電話にアラートを送る。振り返って子供を抱いている鈴音に一瞥をくれる。


 侵入者は現在エレベーターに乗って降りてきている。

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