41話 ダンス・ザ・ペイン・アウェイ キスと一輪のオレンジジュースを
もうどうが立ち上がる気配はなかった。きつしはひじかけに両の手をついて立ち上がると覗き穴を目指す。インターホンはあるにはあるが、ここを訪れる人はみな押してはいけないと分かっている。
覗き穴を見る。
鈴音だ。ついでに利恵菜も。何をしにきたのか。
鍵とかんぬきを外してドアを開ける。
「ど、ど、どうしたの」
鈴音だ。ボタンの二つあるブラックデニムとオレンジのタートルネック、上から黒いレザーのジャケットを羽織っていた。目元は黒ずんでいる。 黒ずんでいる、という表現が合っているのかは分からないが、とにかくそういうメイクをしていた。
利恵菜はまだ制服だった。学校が終わったのがおそらく十五分ほど前だから納得だ。女子高生特有の制服で色々行動するというやつではなさそうだ。
「ごめん、いきなりきちゃって。利恵菜ちゃんとちょっと寄ってみようって」
「邪魔だった?」
「いや、別に、じゃ、じゃ、邪魔ではないけど。まあ、入ってよ。寒いでしょ」
きつしはドアが閉まらないように支える。 鈴音と利恵菜はするすると入っていく。二人が入るとドアを閉めて再び施錠する。
「は? お前、は?」
もうどうは二人の姿を認めると、案の定立ち上がって憤怒の声をあげた。
鈴音は特に何も言わない。利恵菜は鳴きながら擦り寄ってくるいぬの頭を撫でている。
「おい、いぬ。その女にはよるな。下着の色は紫だし左足の小指が異様に長い。きったねぇぞ」
「ちょっと、見たの?」
「撃たれたお前を医者のところに連れて行ったのは誰だ? 見たわけじゃないぞ。見えたんだ」
「見たんだから一緒でしょ」
「だが紫は気色悪いよ。欲求不満色じゃねぇか。出っ歯は何しにきたんだよ」
「別にあんたに会いにきたわけじゃないから。きつしに会いにきたの。利恵菜ちゃんに酷いこと言うのはやめて、かわいいんだから」
「ほう。子供を作らせてごめんって言いにきたのかと思った」
「悪いとは思ってないわよ」
もうどうはテレビを消してリモコンを奥に投げた。
「飲み物なんか出さないぞ。早く出ていけ」
「まあまあ、もうどう」
きつしは両手に緑茶を持ちながら宥めた。飲み物はちゃんとあるから。
「せ、せ、せっかくきてくれたんだからさ。ちょっと話でもしようよ」
もうどうは珍しく黙ると、ため息をついて椅子に座り崩れた。
きつしは飲み物をテーブルに置くと、右奥の部屋からパイプ椅子を二つ持ってきた。鈴音をソファの方に座らせる。
「何の話をするんだ? 俺たちは忙しいんだよ。とっとと帰れ」
「テレビ見てたじゃない」
利恵菜が咎めた。
「宇宙の情勢を見極めてたんだよ」
「へーそう」
「お前、この腰のものが見えないのか?」
「ま、ま、ま、まあまあ」
「うるせえ、きつし。てめぇは出っ歯とやっとけよ」
「ふ、ふ、ふ、不謹慎だぞ」
「黙れ。てめぇ胸糞悪い生き者を俺に作らせて、挙句始末させたくせに」
「あれまだ教室にあるよ」
唐突に鈴音が言った。
これが、本当なのだと思った。
今までしてきたことは偽物だったのだと、本気で思える。宇宙人と戦いながら組織を拡大? 武器を作って売り捌く?
そんなのは何か、よっぽど感情移入のできる映画かドラマだったのだ。親友と恋人と、友達と家でしゃべるなんて普通かもしれない。
だけど普通であることこそ最高の思い出であり、幸せなのだ。今日の日はずっと覚えていても、この瞬間のことはいずれ思い出せなくなるだろう。でも、それでいい。それがいい。忘れる日常が一番幸せなのだから。傷ついてもきっと、その時のことを思い出せばいい。いつか忘れた日常がそこにあったことを思い出せばいい。
そんな日常にキスしてやればいい。失った者をグラスの底に探すよりも。
「掃除はしてよね」
「きつし、言われてるぞ」
「一緒にするのが筋だろ」
うるせえ。
そ、そ、そ、そ、それは違うんじゃないかい。
もういいじゃない。
でも、掃除はしてよね。
しない
す、す、す、するよ
ほんと?
信じられないわよね




