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32話 ラブ・ユー・ライク・ラブ・ソング 虹色の気配



    あともう一つだけのココロ


 

 実際遅刻していても、遅刻、遅刻、と思いながら向かっている人間なんていないだろうというのが自分の意見だった。大抵は急いでいても何か他のことを考えているはずだ。 


 今朝は大学にも遅刻した。遅刻した日というのはなんとなく調子が悪い。


 午後から研究の一環で駅に取材に行っていたのだ。


 事前に駅員さんにアポをとり、こういう大学のこれこれこういう事情でお話を伺いたいのですがよろしいでしょうかという感じで会いにいった。


 一時間ほどの予定だったのだが駅員さんが妙に饒舌になって、二十五分もオーバーしてしまった。


 大学には連絡しておくと言ってくれてたが、遅れれば咎められることに変わりはない。


 熱心になりすぎる、と言われることがよくある。


 相手の話を熱心に聞くのは良いことだけど、それで相手が喜んで話に拍車がかかるとこっちの時間を奪われることになる。

 学校の授業で高齢者施設を訪れた時も、あるおばあさんの話に長いこと付き合っていたせいでみなに置いて行われた。  


 話を聞いてあげないとかわいそうだと思うわけではない。相手に気に入られたいと思うわけではない。きちんと聞かないと失礼だと思うだけなのだ。それ以上に、相手が自分に向かって話しているだけで喜んでくれるのが、この上なく嬉しいのだ。


「熱心になるのはいいけど取捨選択しなさい。誰にでもココロを開きすぎるのはかえって危険よ」


 母親に常々言われていることだ。「もう大学も卒業するんだからいい加減に自分の状況と照らし合わせて、考えられるようになりなさい。人を信用しすぎないようにしなさい」


 どういうことなんだろう。 


 友達からも言われる。警戒心がなさすぎる、と。「誰に対しても優しく楽しそうに接せられるのは羨ましいけど変な男に引っかかったりしないようにしなよ。キモい男に勘違いされたら厄介だよ」


 良く言えば博愛主義、悪く言えば世間知らず。そういう印象を持たれているらしい。

 別にいいじゃないの。意識してるわけじゃないし、優しくされて嫌がる人なんていない。疑うよりも信じたいだけなのだ。


 大急ぎで自転車を漕ぐ。


 角にぶつかるたびに左に曲がっていけば、大学につける。


 頬にぶつかる空気に歯を鳴らしながら、前だけを見る。


 お父さんはいいよね。クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントもいっぺんにもらえて。


 幼い頃の会話を思い出した。もうすぐ父の誕生日だ。


 今年こそは、自分で稼いだお金で何がプレゼントしたいと思っていた。時計が一番いいだろうと思っていた。今年の春から内緒で本屋と飲食店でバイトをしていた。それなりに稼いだつもりだ。 


 時計は目玉が飛び出るほど高いというイメージがあり調べてみると確かロレックスは三百万が相場。流石に無理だ。


 父が好きな俳優(確かディエゴ・クラテンホフ)がつけているのがタグホイヤーアクアレーサーのクロノグラフ。


 通販サイトで見てみると大体二十五万円。買えなくはない。父にぴったりだしプレゼントすればきっと大事に使ってくれるだろう。ただ、もっと他にも良いものもあるんじゃないかという気持ちもあった。一つの選択肢を選ぶことによって失う別の選択肢。


 それに得られたであろう結果などを機会損失というらしい。その機会損失がタグホイヤーよりも良いかもしれないという心配を抑えられない。


 前から車が来た。


 右の歩道によける。


 車が去ると歩道から出て、車道を走る。


 左に駐車場が見える。右には植木が。なんだか閉じた空間だ。


 ブレーキをかけた。


 とっさだった。


 目が何を見たかということを脳に教える前に、ブレーキをかけていた。


「危ない!」


 自分の声の大きさにびっくりだ。


 人が、落ちてきたのだ。正確には、横から滑り落ちてきた。


 家と家の間の溝から落ちてきた。しかも怪我をしている。


 自転車から降りてかけよる。


 身長の高い、優しい顔の男の人だった。自分より年上にも年下にも見える。ブレザーとシャツ、制服のようなものを着ている。あちこち汚れていて傷も見える。


「す。す、す、すみません」


 相手は謝ってきた。


「大丈夫ですか?」


 救急車を呼んだ方が良いのか。自転車のカゴのかばんからスマホを取り出す。でも、このままでいいのか? 怪我をしている。もしかしたら誰かと喧嘩でもしているのかもしれない。だとしたらずっとここにとどまっているのは危険だ。救急車を呼ぶにしたって、彼はそれを望んでいないかもしれない。 


「けがしてるんですか?」


 相手の目を覗き込む。怯えているような、警戒するような目だ。しまった。寝坊したせいで化粧が雑なんだった。ばれてないといいけど。


「い、いや」


 男の人は左手で右手の肩を触った。ほこりを払うような感じだった。ふと、左手首の輝くものが目に入った。腕時計だ。文字盤には王冠と「ROLEX」の文字。ネットで散々調べて、もう覚えていた。


「あの」


「え……?」


「時計、詳しいんですか?」


 無礼を承知で、訊いてみた。だってプレゼントとして贈る時計を悩んでいる時にロレックスをした人が目の前に現れた。しかも落ちてきた。ロレックスをしているんだから時計には詳しいはず。いや、一概にはいえないのか? でもこの人はいい人そうだ。それに、この制服。見覚えがある。自室のクローゼットの一番右端にかかっているブレザーと同じ。後輩くんだ。この人はきっと良い人。


「あの、父の誕生日が近くて、時計プレゼントしたいなって思ってて。よかったらアドバイスもらえませんか?」

 


 相手は、少し驚いた顔をしていた。当然だろう。ぶつかりかけた相手にいきなり時計のアドバイスを求められるなんて。驚くはずだ。でも、教えてくれるはず。この人は絶対に良い人だから。 


 かたまっている。怖がっているのかもしれない。いや、違う。懐かしむような目をしている。誰かを思い出しているようにも見えた。きっと、近しくて、親しかった人だろう。自分に似ているのか。そう思ったら少しおかしかった。期待しているようにも見えた。希望で、瞳が震えている。


「あ、あ、あの」


 その人の声と、その人の顔はしばらく意識に残っていた。何が起こったか分からなかった。 


「起こったこと」について何か感じることも、触れることもできなかった。ただ、終わった。




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