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30話 セブンネーション・アーミー この愛は止まることを知らない



    しお花鈴音の章



 歯の震えは止めようと思っても中々止まらない。自分では無理だ。中々、だめなのだ。

 鈴音はバスルームの、冷たく少しぬめった四角形のタイルが敷き詰められた床に座っていた。体育座りをしていた。自分一人と分かっているけどきちんとスカートを膝の下までかけていた。一人だからといってだらしなく座るなんて考えられない。


 寒い。

 肩の震えは、両手でおさえることでなんとかおさまる。下着と肌の間のわずかな熱気だけを頼りにして凌いでいる。


 十二月だというのに、浴槽にはなぜだか冷水が張ってある。このバスルームも、この家も小林が何かをするために使っていたのだろう。小林が何かするということは、もちろんきつしも、ということだ。

 靴下が濡れているのに気付いた。床が少し濡れていたようだ。入ったときは気が付かなかった。水は出していない。どうして濡れているのだろう。


 肩をさする両腕の中に顔を埋める。息が白くなって出ていく。


 リビングの方に耳を集中させる。さっきから嫌に静かだ。何も存在していないみたいに。そもそも何もなかったかのように。

 どこに行ったのだろう。

 ドアを開ける音が聞こえた。

 身を乗り出して、状況を掴み取ろうとする。


 のけぞる。


 銃を撃つような音が聞こえた。


 もしかして、やられたんじゃ。


 ドアを閉める音が聞こえた。


 胸にかかっていた不安の霧が一気に消え失せた。


 大丈夫だ。今のところまだ大丈夫だ。自分に言い聞かせた。


 背中の力が抜けていく。腹の下側にたまるものを感じた。


「………………」


 ここでするわけにはいかない。したくない。だからといって我慢の限界を迎えるのも嫌だ。 


 なんとか、こらえるしかない。


 別のことを考えて気を紛らわせようとした。伸ばしている爪をいじりながら、何かを思い出そうとしてみるが、こういう時に限って何も出てこない。模試や体育の実技テストなど集中しなければいけない時には関係ないことがずるずる出てくるくせに。


 ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー。


 やっとの思いで浮かんだのはこの単語だった。


 ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー。


 まだ付き合っていなかった時、デートしはじめた時期。始めて宇宙に出かけた。小林の車で水星のテーマパークに遊びに行った。


 送迎係は小林だった。きつしが専用の車を持っていなかったから。必要ないと考えていたようだし、今もそのようだ。



 銃声がした。


 

 夜のデートだった。自分で考えつくいっぱいのおしゃれをしてめかしこんだつもりだった。家族に見つかるのだけはごめんだった。でも外に出るには絶対にリビングを横切らなければならない。


 リビングの扉はいつも開け放されていて、必ず誰かがこっちを見ている。そういう家なのだ。その時だけマスクをつけたり、ジップパーカーのフードで顔を隠そうというのも考えたが実際にやろうとしてみると気が引けた。家族を騙すなんてことはできなかった。


 たとえどんなつまらないことだとしても、今まで嘘の一つもついたことがなかった。そういう家でそういう自分なのだ。


 二階の自室で思い悩んでいると、約束の時間になった。迎えにいくから家にいてと言われた。普通はそう言われたら家の外で待っておくだろう。出てすぐのところで。


 どこかで待ち合わせて行ける場所ではないというのは理解していからそれは素直に聞き入れたわけだが、どうやって家を出ようかと思っていた。


 でもきつしは、それも含めて自分のことを理解していたのだ。


 青黒い夕空がいきなり明けたのかと思った。でも違った。もっと良いことだった。


 窓から入ってくるその光の正体は車のライトだった。軽自動車のような見た目の車。両側に円形のエンジンがついただけの車。タイヤが下を向いているわけでも大層な翼があるわけでもない。ただそのエンジンと、そり滑りをする時のボードを大きくしたようなものがついただけの車。


 音も、風もなかった。ただ静かに自分を迎えにきたのだった。シンデレラが王子様に迎えにきてもらった時はきっとこんな感情だったのだろう。


 車はおもむろに右に回った。ドアが開いた。きつし。少し照れくさそうに、手を振っていた。


 涙が出そうになったのを覚えている。どうしてかは分からない。ただ、その窓を開けて彼の手を取るだけで全く

違う世界に行けると考えると、それだけで高鳴りが胸を破りそうだった。



 銃声が、した。喉がきゅっと、締め付けられるのような感触だった。



 箱に閉じ込められた人生だった。


 過保護というわけではないけれど、周りの子よりはどう見たって世話を焼かれてきた。自分が手のかかる子供だったからじゃない。両親がそうしたいと望んだからだ。そういう子供であってほしいと望んだからだ。だからその通りにしてきた。


 そう努力してきた。私立小学校に私立中学校。わざわざ高校で受験し直したのはそういう堅苦しい、お姫様気分にうんざりしていたからだ。自分は特別でもなんでもない。ただの女の子なのに。お金持ちやエリートと結婚することが決まっているような子たちと一緒にいては息が詰まりそうだった。


 窓を開けた。車はこっちに近付いた。


 彼の手をとって、車に入った。ただそれだけのこと。ただそれだけでよかった。学校、家、時々遊びに行く場所。それ以外の場所を知ることができる。


 ただそれだけで、彼の手をとるには十分な理由だった。彼はそれを許してくれる。自分が知ることを。自分が冒険したいと思うことを。自分が別のことに興味をしめすことを。だから好きなのだ。


「ごめんね」


 ところがきつしは開口一番そう言ったのだ。どもらなかった。


 理由はすぐに分かった。

 後部座席には胸を撃たれたエイリアンが乗っていた。


 吐き気とは違う、もっと別の、汚いものが込み上げてくるのが分かった。きつしはそれを受け止めてくれた。自分が座れるように、助手席からどいて、後部座席に移動してくれた。その車は左ハンドルだった。ハンドルを握っていたのはもちろん小林もうどう。


 エイリアンは血を噴きながら、何か言っている。日本語じゃない、地球の言語ではないことだけは分かった。


「どういうことなの?」今まであげたこともない金切り声をあげた。


「だから言っただろ。そんな女放っておけばいいのさ。理解できっこない」


「り、り、り、り、理解してもらおうとは思っちゃいないよ。ただ、好きなんだ」



 ただ、好きなんだ。二人はまるで自分が存在していないみたいに内輪の会話を繰り広げた。


「お前がどの穴を選ぶかは別に自由だが、おぉおう? しかしその出っ歯とは趣味が悪いねぇ。なあ、そう思わないかい。ミスターインプロスキ」


 それがエイリアンの名前らしい。小林の言葉に応えるように何かを言ったが、分からない。


「だ、だ、だ、だ、大丈夫ですよインプロスキさん。もうすぐハヴァキャンプ先生が見てくれますから」


 またエイリアンはうめいた。


「ごめんね」


 きつしはまたそう言った。


 もう理由は知っていた。


「でも、す、す、す、す、水星には行けるから」 


 どの言葉も、耳の外にいたままだった。


「ただ、好きなんだ」この言葉がこれほど理性を失わせるものだったとは思っていなかった。両親に今までしつこく説教されてきた。


「男には気をつけろ。どんなに上っ面が良くってもそこに綺麗さはない」


 きつしを見た。エイリアンの介抱をしながら小林の話に付き合う彼を。彼には気をつけなくていい。そう思った。


「おい、出っ歯。聞いたか? こいつ、村山きつしはお前のことが好きなんだってさ。それであろうことか俺に水星のテーマパークを貸し切らせて、おまけに送迎までさせようという魂胆だ。ほんと。なめられたもんだぜ。まあなんだ。テーマパークには連れてってやるからよ。その前に火星に寄るぞ。倉庫がある。そこで最高の執刀チームがこの患者を待ってるんだよ」


 言ってることは全然入ってこなかった。どうやら「ただ、好きなんだ」の魔法がかなり長いこと効くらしかった。きつしが後ろで困った顔をしているのは見なくても分かった。


 窓の外を見るとすでに地球にはいなかった。真っ黒な宇宙空間。時々キラキラしたものが見えるだけで、本当に何もない空間。ちょっとすると惑星が見えた。クレーターの具合から、月だと分かった。


「ちぇっ。サンボーンの一味がいるよ。俺あいつら嫌いなんだよ。最近フェンネルと仲良くしてるからもしかしたら一緒に仕事しなきゃいけないかもしれねぇ」


「ああ。ち、ち、ち、地球かぶれの嫌な連中さ。しっかりしてくださいよ」


 きつしは小林の話に付き合いながら死にかけているエイリアンを介抱していた。


「気を紛らわすために音楽でもかけてやろうか」 


 小林はそう言うと、カーナビを操作した。すぐに聞いたことのない洋楽が車いっぱいに響いた。


「ああ、これこれ。『ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー』って曲が歌詞にある曲だ。確かポストマローンのケミカルだったか? この曲は。好きなんだなこれが。歌詞がしゃれてるんだよな」



 銃声。体の力が抜けていく。




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