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26話 アイ・フィール・イット・カミング 迫りくる何か

 


    村山きつしの章



 それからどれくらい経つかだなんて明白だった。極めるところこの体勢を保っていることは苦痛でしかなかった。いつになく足元が不確かでどこもかしこもなくなってしまいそうな感じがしていた。

 

 いつもどこか宙に浮いているような感覚だった。大事な取引の時も処刑に立ち会う時も裏切り者を探す時も、常にもうどうの隣にいてその足場は何よりも強固なもののはずなのに部分的に見るとふわふわと歪んでいた。自分は本当はここにはいないんじゃないかという疑い。実体を伴わない虚像。


 小林もうどうという疑いようのない実像の隣にいる虚像。


 今は。


 全ての関節が悲鳴をあげている。幸と言うべきか、痛みを無視する方法は心得ているつもりだった。

 煙はなお部屋に立ち込めている。


 さっきと比べるとましになっているが、足元がおぼつかないのは変わらない。


 かつしは銃を握りしめて空をきりながら進んでいる。杖のように周りを確かめながら父親を探している。時々面白くって何かを砂にすることはあっても決して上を見ることはなかった。見れないと言った方がいいかもしれない。


 バスルームに近づきはしないかという不安はあったが、未熟なハンターは目の前の獲物のみを追い求めるという習性を思い出した。


 一度狙って仕留め損ねた獲物は、いつか自分を狙いにくるかもしれないと恐れるようになる。


 かつしの歩方はキッチンに向かった。手探っている。


 探し物が見つからなくて一番最初に探したところをもう一度見てみるような感じだろう。キッチンに隠れているんじゃないかという発想だ。キッチンのどこに、ろくに隠れられる場所があるかという疑問は赤ん坊には難しすぎる。


 攻撃から逃れたとはいえ状況は何一つ好転していない。敵の死角にいるだけだ。 


 考えないと。


 何か、あの赤ん坊の弱点を。致命的であってはならない。ただ、しばらく動けないぐらいの、そういう弱点が欲しい。


 腕時計を見る。一時三十二分。


 そろそろ昼休みが終わる頃だ。


 クラスのみんなはどうしているのか。きっと自分の状況なんか想像もできないはずだ。当たり前だろう。いや、利恵菜は違うかもしれない。もしかしたらもうどうと自分がいない理由を色々勘繰っているのかもしれない。「未熟なハンターは目の前の獲物のみを追い求める。


 一度狙って仕留め損ねた獲物は、いつか自分を狙うかもしれないと恐れるようになる」


 だからもうどうは裏切りに過剰に反応する。


 やってきたことが、いつか自分に返ってくるかもしれないという恐怖があるからだ。何もかもを自分から奪うかもしれないと分かっているからだ。


 賢い人間は良い状況がいつまでも続かないと知っている。激動にいるほどそれは早くやってくると知っている。だから沙織が隣にいてもそれは本当の幸せではなかった。沙織と別れたくない気持ちはあったろうに。別れを防ぐことは一つもしなかった。


 彼女を死なないようにするとか、そういうことはできたはずだ。


 どんな厄災からも守ることはできた。それでもしなかったのは、変化を好み、維持を恐れていたからだ。


「人間も、文明も、発明も、滅びゆくからいいんじゃないか」


 本当にそうだったのか。もうどうは、沙織を失った時その言葉を思い出したろうか? 


 そうじゃない。答えは今のもうどうに滲み出ている。


 滅びゆくのがいいと思っているなら、組織内の裏切り者を探す行動は矛盾そのものだ。沙織がいればきっと裏切り者を許すことだってできたはずだ。


 沙織はただの演算記号じゃなかった。もうどうの行いはただの処理でしかない。そう考えれば「裏切り者の処理」と軽く片付けられるのかもしれない。


 組織を失いたくない本当の理由は沙織だ。


 もうどうの全てのリソースは初め、「沙織を取り戻すこと」に注がれていた。できないと悟ると「あの男」を探す方に切り替わった。


 そのために金を稼ぎ、そのために組織を大きくする。


 ただそれだけのことなのだ。


 子供に殺されそうなんだ。


 教育を間違えた。こんなに早く。純粋な赤ん坊を猟奇殺人鬼にしてしまった。


 足がむずかゆい。感情ゆえのかゆさか。いや、違う。まて、違うぞ。何かが、変だ。


 足。右足。何かが這っている。


 くもだ。


 分かった。


 ぬるぬるしたものを撒き散らしている。聞いたことがある。ある種のくもは死ぬ時、体を爆発させる。そしてその前には体内の糸を全て吐き出す。


 家にいたくもが天井にへばりついている自分の足を登って、しかももっと悪いことに死にかけている。スタンドバイミーという映画で主人公の男の子が川を渡った際、一物についているヒルを見つけて泣きそうになるシーンを思い出した。男の子の名前はゴードンだったが、ゴーディーだったか。


 今まさにそんな感じだ。この、生き物が、体をぬるぬる這う感じ。何物にも変え難い不快感がある。しかも死にかけているんだ。爆発するんだぞ。耐えられない。


 落ち着け。たかだかくもじゃないか。今までくもの爆弾を抱えるよりひどいことをしてきた。


 手榴弾をくわえたこともあるし宇宙人のゲロ袋に手を突っ込んだこともある。


 だけど、どうして。この状況が信じられなかった。信じたくなかった。


 どうしてこんな目に。チェーンにかけていた右足を離して下に向けて振る。ちょうどかつしが下にいる。


 慌てて足を引っ込める。 


 気づかれたらおしまい。そんなことはわかってる。だったら、くもの爆発ぐらい我慢しろ。


 待てよ。タレテル。垂れてるぞ。垂れてるって。


 くもが吐き出した糸が、垂れてるじゃないか。すーっと、そんな単純な表現では言えないほどの正当性としなやかさで、確実に地上を目指している。


 かつしがこのままこっちを向かずにキッチンまで進んでくれればそれでいい。その間にこの糸を、たぐりよせて。


 かつしの頭が糸の方に向いた。


 心臓が止まった。


 明らかに今まで部屋の中になかったものが垂れてきている。


 赤ん坊故の好奇心からか、ハンター故の疑心からか、その糸を見つめた。小さな指で触れる。


 固唾というやつが喉を鳴らした。

 上から垂れてきているものだと知ったようだ。


 糸から手をはなすと、少し、後退る。




 なんだ、何が始まる。


 倒れた。べちゃりと、床に頭をつけて、上を見たのだった。


 目が合った。


 なんとも嬉しそうに、笑った。にやりと、口の端をあげて。もう、人間の顔になっていた。


 銃が向く。 



 チェーンから足を離す。

 発砲音。プラズマ弾の光粉。


 チェーンから手を離す。体が宙に踊る。

 今の今まで大事に握っていたチェーンが砂になる。


 足から、くもがひらりと降りていく。その体は、たくさんの糸と共に粉々になった。


 窓ガラスにつっこむ。破片がポケットに入っていくのが見えた。外に投げ出される。



 家と家に囲まれているから外とはいっても、家と家の狭い隙間だ。


 背中が外の家の壁に叩きつけられる。首が曲がる。そのままずり落ちる。頭が地面に打ち付けられるのを手で防ぐ。捻れた体が狭い路地に転がる。 


 痛みで何も考えられなかったというのは嘘だ。


 かつしが追ってくる。すぐに。そしてついに外に出る手段を与えてしまった。すぐに立ち上がった。身体から何かが折れる音や破れる音が聞こえた。少し遅れて感覚も伴ってきた。両足首を捻挫した。右手の肘から血が出ているのが分かった。


 服は破れていないのに。どうして出血したのか。血管疲労、筋肉疲労というやつか。


 鈴音は。


 次に考えたのはそれだった。かつしは自分は死んだと思って次は鈴音を狙うかもしれない。


 遠くで、水が流れる音が聞こえてきた。

 

 何か不吉な音だ。聞こえてきた、というよりは今までも流れていたのかもしれないが隠れるのに必死で気が付かなかった。


 鈴音が、危ない。


 家に身を乗り出す。


 銃まだ自分に向いていた。どうしてさっきまで見えなかったのか。


 そんなことはどうでもよかった。銃が向いていた。


 左によけた。ガス給湯器に鼻をぶつけた。


 鼻が熱くなった。後ろでガラスをじゃりじゃり踏む音が聞こえた。かつしだ。ガラスを踏んで怪我してはいないか。


 給湯器を乗り越えて、明るい場所に出る。


 種類が分からない木の葉に顔を叩かれながら、路地を抜けて外に出た。地面に倒れる。


「危ない!」


 女性の声がした。自転車のタイヤも見えた。


 体を思い切りよじると、自転車も止まった。タイヤがあるのはさっきまで自分が寝ていた位置だ。


「す、す、す、すみません」


 咄嗟に謝る。女性が自転車から降りて駆け寄ってきた。


 女性は大学生ぐらいの年だった。


 身長はきつしよりも低い。ダウンジャケットにライトグレーのスラックス。さっぱりとした顔で、目鼻立ちは整っている方だ。自転車はいわゆるママチャリというやつだ。


 女性の方は異常を感じ取ったようで「大丈夫ですか?」と訊いてきた。


 カバンからスマホを取り出した。時間を確認しているのか。急いでるなら、早く行けばいいのに。


「けがしてるんですか?」


 顔を近づけてきた。まだあどけない顔だ。


 雑な化粧に気付いた。寝坊でもして遅刻したんだろう。遅刻した日というのは調子が狂うものだ。今も、どこかに遅れそうなのか。それでも自分に構ってくれるのか。


 追い詰められた時のちょっとした優しさは何よりの救いだった。


「い、いや」


 なんとなく左手で右肩を触った。なんとなくというか、ほこりを払うような感じだった。


 女性は、きつしの左手見ると、目を輝かせた。


 なんだ。


「あの」


「え……?」


「時計、詳しいんですか?」


 は? 


 ああ、誕生日にもうどうにもらったロレックスをしているからか。それよりも一目でロレックスと分かったのか。


「あの、父の誕生日が近くて、時計プレゼントしたいなって思ってて。よかったらアドバイスもらえませんか?」


 しばらく瞬きができなかった。 


 決して、良い出会い方をしたわけじゃないのに。純粋に、相手にそんなことを言えるなんて。


 虹色の気配だ。この世の全ての人間に対する好意だ。


 沙織と同じ。


 優しさ。驚きではない。


 思い出だった。沙織だ。沙織はこんな感じだった。もうどうの隣でニコニコしている沙織はいつも、誰に対しても興味津々で、優しかった。


 この女性を、もうどうに会わせてあげたい。もうどうは、また幸せになれるかもしれない。

 もうどうのことを好きになってくれないかい。


「あ、あ、あの」


 何かが光った。


 砂が降り注いだ。目に入ったが、全く気にならなかった。


 今気付いた、絶望が隣にいる。いつもそうだ。優しいココロの人間は必ず傷つく運命にいるのだ。


 もうどうも。沙織も。さっきの名前も知らない女性も。


 前を見た。


 硝煙を上げる銃。にやにやする赤ん坊。砂のついたおむつ。ブニブニの腕と足。


 目の前にいるのは、悪魔だ。赤ん坊の皮を被った、何か。






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