10話 チューズ・ライフ わたしの人生
村山きつしの章
「こ、こ、これでいいかな?」
「上手ね」
鈴音は笑った。
腕の中のかつしは、哺乳瓶の乳首をくわえて、くっ、くっ、くっ、とミルクを飲んでいる。首があまり動かないのが気になるが。
「く、く、首を動かせないのかな」
「赤ちゃんて首が座ってないから、上向いたりできないの。ちょっと動かすのも難しいみたい」
「そうなの?」
「そうよ」
そうなの? 子供に訊いてみた。こっちを向きもしない。ミルクを飲むことに夢中で父親のことなんか気にもならないらしい。
「か、か、か、か、かわいいね、ほんと」
「そうよね」
「こ、この目元のところとか、きみに似てるよね」
「ほんと? 適当に言ってるんじゃなくて?」
「いや、ほんとだよ。ほ、ほんとに似てると思ってさ」
「そう?」
「そうだよ」
なんとかミルクはやれたがまだ問題はある。寝かせるところがないこと。ダッフルバッグには雑にたたまれた毛布が何枚か入っていたがずっとそれを使うわけにもいかない。
ベビーベッドが必要だ。
「ず、ず、ずっとこうしとくわけにもいかないよね」
鈴音を見た。
「まあ、そりゃそうだけど。バッグにさ、折り畳みのベビーカーとかベビーベッドとかないの」
「いや、な、な、なかったと思う」
「買いに行こうか」
個人の銀行口座にはもちろん大金があるが地球では引き出せない。地球の金は用意していることにはしているが別の場所にある。手元の財布には一万円と五百円ほど。ベビーカーやベビーベッドはもっと値が張るはずだ。
「とりあえず、ベビーベッドはいるわよね。ずっと床に毛布敷いただけのところに寝かせておくのはかわいそうだし」
「じゃ、じゃあ、ベビーベッドだけ買いにいこうか。どこに売ってるんだろ」
「ホームセンターとかに売ってると思う。あとアカチャンポンポとか」
「そ、そうなの。じゃあ行こうか」
しかしかつしをこのままタオルに包んだ状態で出歩くのは少し危険だ。確かバッグに抱っこ紐があった。
「あー、だ、だ、抱っこ紐ってどうやって使うんだろ」
「それも家庭科で習ったんですけど」
「ど、ど、ど、どうやるの」
「見てて」
鈴音はバッグから抱っこ紐を取り出すときつしの腹に当てた。きつしは一度かつしをリビングの毛布の上に寝かせた。哺乳瓶も机の上に置いた。
「ウエストベルトを装着するのよ。まずは」
鈴音はするするとゴムループを通して、ストラップを調整した。
「これで」
かつしを抱き上げると、背中が当たる部分にもたれかけさせた。きつしはかつしの背中を支える。
「膝を持ち上げながら脚を開くのよ」
「こ、こ、こうかい」
言われた通りにする。脚も温かくて、ぶにゃぶにゃしていた。
鈴音は抱っこ紐で背中をカバーすると、きつしの頭にストラップを通す。
「それ、肩通すのよ」
右手を通して左手を通した。
「あとは」
鈴音はストラップの紐を引っ張った。
「どう? ちょうどいい?」
「も、も、もうちょっと緩めがいいかな」
「ほんとは、自分でやらなきゃいけないのよ」
「か、か、家庭科は苦手なんだ。それに、授業にはほとんど出てないし、仕事があるから」
きつしは脇のあたりに出ているストライプキーパーを浮かせて、多少紐を緩めた。かつしの腕と脚を抱っこ紐の外に出してやると、心地良さそうに動かしていた。
お腹も膨れたようで泣き止んだ。きつしは本能的に体を左右に揺らした。かつしはきつしの脇にしがみついて力を入れているようだ。手の硬直具合で分かる。赤ちゃん特有の特に意味のない行動のようだった。そしてそれがこの上なく微笑ましい。
ハンドリガード、という言葉を思い出した。家庭科の授業ではないがどこかで聞いたことがあった。赤ちゃんが自分の手だけをじっと見ることをいうそうだ。
きつしは眠っているかつしを支えたまま暖房を消すとダッフルバッグを引っ掴んだ。鈴音はすり足できつしの後についていく。
車の後部座席にダッフルバッグを投げる。 携帯で近くのホームセンターを探す。球場を超えたあたりに一つあった。二キロ先。このあたりに住んでいる人間は大体球場を越えると「遠いなあ」と思ってしまう。それを抜きにしても、いつももうどうの車に乗っているからたかが三キロぐらいでも遠く感じてしまう。ベビーグッズを売ってる店を探した方が早いか。
ネットで検索をかけると二キロ圏内で二つ見つかった。高速道路に近い方とに近い方がある。二つともショッピングセンターに入っている店舗だ。店舗ごとのレビューが掲載されている。ベビーグッズの品揃えはよさそうだ。
ただ駅の方はレビューを見る限り狭そうだった。近い方に行くか。
高速道路下の信号を目指して車を飛ばす。
かつしはきつしの胸の中ですやりと寝ている。
パトカーとすれ違った。運転席にいたのはふてぶてしく口髭を生やした警官だった。日本の警官は髭を生やしてはいけないという話を聞いたことをなくもなかった。
信号で止まる。横目で歩道の信号が赤になったのを確認する。信号が青になる少し前にスタートする。まっすぐ行くとたちまちショッピングセンターの黄色い壁と、黒いフェンスの駐輪場が見えてくる。駐車場は駐輪場のすぐ隣にあった。
正確には駐車場に向かうための螺旋状の道だ。屋上の駐車場の空いているスペースに停めた。太陽が照りつけて眩しいったらありゃしない。
鈴音は車を降りると、眩しさに目を細めて両手を眉毛のあたりに上げていた。
駐車券を取ってエレベーターに乗る。自分たちの他には誰もいない。ドアの上のフロアマップを見る。ベビー用品が売っているのは三階だ。
かつしはまだ寝たまま。
エレベーターはすぐに三階に連れて行ってくれた。
ベビー用品売り場、アカチャンポンポはロフトの真ん前にあった。そこまで混んではいないが空いてもいない。
「ど、ど、どんなのがいいんだろう」
「え?」
困惑したような鈴音の声が聞こえてくる。
「どうしたの」
「さっきパトカーとすれ違った時でしょ」
「そ、そ、それがどうしたの」
「抱っこ紐しながらの運転は違法なのよ」
「そ、そ、それも家庭科の知識かい?」
「いや、ショート動画で回ってきたの」
「そ、そうかい」
店に売っているベビーグッズは、なんというか進化していた。
自分が使っていたものなんて覚えていやしないがとにかくこんなものがあるのか、と思わされるものばかりだった。
AI搭載のベビーモニターや冷風ファン付きベビーカーシート。思わず手を伸ばしてしまいそうだ。店内で流れている音楽が「Speed demon」だったのが少し気になったが。
細々したベビーグッズのあたりにはあまり人はいなかったがベビーベッドやベビーカーのコーナーになると人が増えてきた。
すれ違う人々が向けてくる視線がきつしは少々不快だった。親に見えないのだろう。
きつしは長身だからなんとでもいいわけがたつ。鈴音はまだあどけない顔で、背も低い。しかも制服を着ている。子供を産んだようには見えないだろう。この昼間に学生がベビー用品を買いに来ているのだ。しかし別に難しく考える必要はない。弟だか妹だかを産んだ母親を労って自分たちが買い物してるんですとか、いとこですとか適当な言い訳はたつ。
きつしは怪訝そうな視線には別段意識を向けずベビーベッドを探した。かさばらないものがいい。箱の大きくない組み立て式のものが望ましいだろう。予算は一万円。正直その値段で売っているのかというのが最大の懸念点だった。
「これ、いいんじゃない」
鈴音が背伸びをした。上の段の、小さめの箱のものだ。
「よ、よ、よ、よく見つけたね」
よく鈴音はこんなのを見つけたな、と思った。鈴音の身長では上の段なんて見えないだろうに。長身のきつしですら気付かなかったのに。
パッケージは赤ん坊と母親が一緒に写っているというありがちなものだった。組み立て式で、大きさもちょうど良い。
モビールなんかを備え付けることもできるようだ。
赤ちゃんが勝手に出ることができないように柵の高さを調節することもできるようだ。裏を見てみる。組み立てには電動工具は一切必要なく、付属のネジとドライバーだけで簡単に組み立てが可能。折りたたむこともできるらしい。
「こ、こ、こ、これにしようか」
「いいと思う」
幸いなことにレジは混んでいない。カウンターは二つある。
「こちらどうぞ」と言ってくれた方に行く。アルバイトだろうか、大学生くらいの若い女の人だった。メガネにポニーテール。奥では気難しそうな年配の女性店員がタグの確認をしていた。
「お品物お預かりします」
愛想の良い声だ。鈴音は少し後ろに下がった。変に怪しまれることを警戒してだろう。
値段が表示される。店員から告げられる前に財布から一万円を取って青い皿のトレーの上に出す。
「九千百二十円になります。一万円お預かりします」
いかにもマニュアル通りの手続き。これがいい。この機械的なやりとりがいい。怪しみも訝しも、なにも含まないこの天然の声でいい。
「駐車券お持ちでしょうか?」
「も、も、持ってます」
馬鹿正直に駐車券を出す。これもいい。おそらく駐車券は持っているかどうか訊くのを忘れて今頃付け足したのだろう。このライブ感。このあくまでもマニュアルから抜けない感じ。とてもいい。このまま何もないまま終われば尚のこと良い。
店員がレシートを切ったところで奥の年配の女性店員と目が合った。きつしは特に気にせずにすぐに逸らした。
若い店員がレシートを渡そうとしてきた時、年配の女性店員がきつしは目の前に大きな手をつきだした。
「お客様、大変申し訳ありませんがこちらの商品、確認しましたところ身分証明証の提示が必須となっておりました。恐れ入りますが、運転免許証やマイナンバーカードなどご提示いただけますでしょうか」
後ろで鈴音が小さく声を出したのが聞こえた。
そうきたか。長身でごまかせると思ったが、しかしどうしてベビーベッドを買うだけなのに身分を証明しなければならないのだ。未成年だとして(実際そうだが)何か問題があるのか。重ね重ね疑問に思うがどうしてベビーベッドを買うだけで身分を証明しなければらないんだ。
「な、な、何か問題ありましたか?」
気になって訊いてみる。
「お客様、ご存じありませんか? 最近は反社会勢力が、稼いだお金を誤魔化すためにこういう安価なベビー用品を購入するんです。そういった犯罪を防止するためにもベビー用品の購入時はレジでの身分証明証の提示をお願いしております」
意地の悪い話口に顔。結婚指輪をしていない。独身か。大体分かってきた。
隣のレジに夫婦が来た。さっき見たAI搭載のベビーモニターを買ったようだ。運転免許証を見せた様子はない。すんなり会計をすませて出ていく。
「あ、あ、あの人たちは提示しなくていいんですか」
若い店員が罰が悪そうに下を向く。いや、罰が悪いというよりは上司の嫌がらせを詫びるような顔色だった。
「そちらの商品とは仕様が異なりまして」
後ろの鈴音がこづいてくる。焦っているようだ。適当な言い訳でごまかせる段階はとっくに過ぎている。きつしは、取引の場で見せるような無機質な表情を作る。二人の店員が少しく顔をこわばらせた。
「駐車券を持っていらっしゃるのですから、もちろん免許証は持っていらっしゃいますよね」
強がって言ってくる。さっきほどは嫌味に聞こえない。
「…………」
きつしはなお、彼女の顔を見る。
制服のブレザーの内ポケットから「運転免許証」を取り出して若い方の店員に渡す。
底意地の悪い魔女のような店員は、その免許証を凝視する。
「中本大河」もちろん偽名だ。データベースで照会されても困らない。もうどうが偽の記録を仕込んでいて、そこに行き着くだけだ。
魔女は疑いと狼狽の目を見せた。
「もう、いいですか?」
あえてどもらずに言ってみる。
「……失礼しました」
免許証を返してくる。鈴音の安堵のため息が聞こえた。。
レシートと駐車券を引っ掴んで商品を受け取り、すぐに店を出る。
「死ぬかと思った」
「どうして?」
「だって……。あんな嫌がらせにあったの初めてだもん」
「まあ、そうだろうね。き、き、き、君のご両親に嫌がらせをしようだなんていう人はいないよ」
鈴音はため息をついて、きつしの手を握った。
とりあえずは、安心だ。




