中学二年、秋 後編
占いのブースを出たあと、友人の前でどう振る舞ったのかいまいち記憶が定かではない。
しきりに心配されていたような気はするからきっとよほど呆けていたのだろう。食べ盛りを自認している友人がドーナツやらジュースやら奢ってくれたような気がするし、ずいぶん占いで手酷い結果を言われたんだなと何度も慰められた事も何となく覚えている。
間違いではないが正しくもない。気を遣わせてしまって申し訳ないとようやく謝ることが出来たのは解散して自室に到着してからだった。
『今日ほんとごめん、朝飯抜いたせいで貧血かなんか起こしたんだと思う』
『もう大丈夫なの??こっちこそ具合悪かったのにごめんて』
『大丈夫。明日は部活あんでしょ?次のオフはまじゲーセンも行こう』
『釣りのやつ?』
『釣りのやつ』
約束だ、と書かれたスタンプが送られてきて、おれも似たようなスタンプを返した。
ひどく疲れた。一瞬どうにかなると思ってしまったから、その分の落胆でどっと疲労が来てしまった。ぬか喜びしたのはおれの勝手な都合だし、占い師はなにも悪くない。
ただ、もう少し早く教えてくれていたら。それがどうしても悔しくて我慢が効かない。もっと早く教えてくれる誰かを探して会えていたら、今頃もっと楽に日常を送れていたのだろうか。きっと正しいだろう対処法を教えてくれた分、ここまでそれに気付かなかった自分が憎々しくて堪らない。
年々あれがよく見えるようになってきていたことも、嫌がらせの内容が悪質になってきていたことも分かっていたのに。
肺を空っぽにするくらいの長いため息が溢れた。
どうやらそのまま眠ってしまったらしい。スマホを確認すると十九時を少し回ったところだった。喉が妙に渇いている気がして、キッチンに行こうと体を起こした。
動いた拍子に関節に痛みが走る。心当たりのない全身の違和感に、げ、と思わず声が出る。
額に触れると僅かに熱いような気がした。
「ねえ、寝てるのー? ご飯どうする?」
ぱたぱたとスリッパの音がして、のんびりとした声がドアの向こうからかけられる。母がなかなか降りてこないおれを呼びに来たようだ。
「なんか風邪ひいたかも」
「え、大丈夫? 熱は?」
「測ってないけどありそう」
「食欲はある?」
「分かんない。あんまりない」
体温計持ってくるね、と足音が遠ざかっていく。吐いた息が妙に熱く感じて、絶対あるよなこれ、とげんなりしてしまう。
人混みに行ったせいでどこからか風邪を貰ったのだろうかと思ったけれど、精神的なものかもな、と思い直してぎゅっと目を閉じた。今日はショックがでかすぎた。
少し頭も痛むような気がする。
『なんか風邪ひいてたんかも。うつしてたらごめん』
もしもこれが風邪だった場合友人がおれのせいで部活を休まざるを得なくなったら最悪だな、と思った。メッセージを送ってから、いつも謝ってばかりだ、と無性にしんどくなる。体調不良を自覚した途端にメンタルが落ちる自分がおかしくなってきた。
誰かに全部言えたら良いのに。
頭がおかしくなったと思われるだろうか。それとも誰か一人くらいは信じてくれるものだろうか。
全部幻覚かもしれないと自分ですら疑っていた。誰にも見えない、聞こえない。何かいるんだよとどれだけ訴えても気のせいだと一蹴されてしまった幼い頃の記憶。
けれど占い師が何かを感じたというのなら、もはやおれの勘違いではないということが確定してしまったのだ。
オカルト好きの友人は信じるだろうか、もしかしたら喜ぶのかもしれない。
──言ってしまおうか。これまでに何度も思ったそれ。けれど、あいつがおれに付き纏う理由がわからない以上どうすることも出来ない。
小学生の頃、引き摺り込まれたプールでの恐怖がどうにも忘れられないでいる。生まれて初めて本気で死ぬのかと感じた瞬間の絶望感は今でも鮮明に思い出すことができる。真夏だったのに一気に手足が冷えて、意識が遠退くあの感覚。
もしも話したことがきっかけであいつが友人に鞍替えしたら? 水泳に腐心している友人がもしもあれに何かをされるとしたら、何もしていないおれよりも遥かに危険が伴うんじゃないのか。
そう思えば思うほど誰にも言えなくなった。毎日電車で通勤している父にも、調理で刃物や火を使う母にも。
「どうしたもんかな」
絞り出した声は少し掠れて、我ながら情けない響きだった。
その後測った熱は夜が更けるほど上がっていった。八度台後半で留まった熱に両親が心配そうに覗きに来たが、発熱と頭痛程度の現状に慌てて病院に行くほどでもない、と今夜はとにかく眠ることにした。
ぼんやりした意識で天井を眺める。寝る前に母が常夜灯に変えてくれた照明は部屋中を照らすほどの灯りがない。
天井の四隅ってこの明るさだと真っ暗なんだ、と普段は目にしないようなところを眺める。さっき暗い中スマホで時間を確認したから、視界の真ん中で瞬きの度に残像が邪魔をしていた。
熱のせいだろう、生理的な涙が滲んだ。オレンジ色の灯りの輪郭が揺らめいて見える。目尻に溜まった感覚が不快で、ティッシュ箱に手を伸ばそうと寝返りをうつ。
横を向いた瞬間にぎょっとした。黒い影がおれの枕元に静かに佇んでいた。
「なに、いたの、」
神出鬼没の言葉通り、こいつは常におれの近くにいる訳ではない。──いや、それはただ単におれが知覚できていないだけかもしれないけれど。
見える時は見えるし、見えない時は見えない。見えている時は大抵何かしらの嫌がらせをしてきているから、てっきりいないものだと思い込んでいた。けれど今日のショッピングモールでもいないものだと思っていたのに見計らったように現れたから、やはりおれが気付いていないだけなのだろうか。そういえば今までもそうだったかもな、とだらだらと思考の連鎖が続く。
ほとんど吐息みたいな問いかけがぽつりと部屋に落ちた。
あいつはそれに何も返さないで、やはり枕元でじっとしているだけだった。いくら昔に比べて段々とはっきり見えるようになってきたと言っても、暗い部屋で見上げるかたちで立たれるとやはり黒いシルエットにしか見えない。
「何だよ……」
他の幽霊がどんなものなのかは知らないけれど、こいつは普段から口数が多い訳ではない。それでもおれを馬鹿にすることに余念がないそいつが黙っているのが気持ち悪くておれも静かに見つめ返した。おれの場合は具合が芳しくないからいつもみたいに悪態をつく余裕がなかっただけかもしれない。
拭き損ねた涙がとうとうぽろりと溢れた。もういいや、と思って袖で拭ってそのまま目を瞑る。
瞼を閉じようとしたその瞬間、そいつの顔が通りを走る車のライトでカーテンの隙間から一瞬照らされるのが見えた。
いつもなら見慣れたあのにやついた顔でおれを馬鹿にしてくるのに、やはりそいつは何も言わない。
普段は弧を描くように愉快そうにしている目、それがただおれを見下ろしているだけのような気がした。
気が付いたら外はすっかり明るくなっていた。寝起きで回らない頭で、ずいぶん汗をかいたなと横になったままぼうっと外の音に耳を澄ませる。
額に貼った冷却シートは仕事を終えて薄っぺらくなっていた。意外と残っていた粘着力で剥がしづらいそれを捨てるついでに背伸びをして起き上がる。寝る前ぶりに熱を測ると、ほぼ平熱の範囲内の数値を示していた。
「おはよう。起きて大丈夫なの?」
「おはよ。なんか熱下がったわ」
「まだ無理しないでよ」
階段を降りると、母が朝食の準備をしているところだった。壁の時計をちらりと見て、いつものおれならまだ寝てる時間だったな、と思いながら頷く。一応お粥作るけど、という母の声に再度頷いて冷蔵庫を開けた。汗をかいたせいで無性に喉が渇いていた。
「やっぱり若いと良いね、すぐ熱下がって良かった」
「十代だから。シャワー浴びるけど良いよね」
「上がったらで良いから洗濯機回しておいて。 解熱剤とか飲んだの?」
「いや、すげえ寝ただけ」
熱が下がったならシーツも出しておいてと言われて、一瞬考えてから部屋に戻ることにした。風呂上がりに部屋に戻ったらもう降りるのが面倒になってしまいそうだった。
しかし本当によく眠れたなと清々しい気分で階段を昇る。ずいぶんと久しぶりの心地だった。
まるで一晩中何事もなく眠れたような、
「……一晩中、」
ふと足が止まった。そうだ、おれは昨夜あれから一度も起きることなく朝を迎えた。
あれから。──あいつがいつになく静かに、枕元に立っているのを見てから。
熱があったから夢かもしれない。だから確かにいたとは言い切れないが、あれは何だったのだろう。
首を傾げながら足を進めてドアノブを握る。開けた瞬間に視界が黒一色になった。
さわさわと撫でられるような、虫が這ったみたいな感触。一気に鳥肌が立ってぎょっとして一歩後ろに下がる。
気持ち悪さに腕で顔を拭っていると、ひひひ、と思わず漏れたみたいな笑い声がした。
瞬間的に血圧が上がった気がして、落ち着け、と自分に言い聞かせながら顔を上げる。開けられたドアの空間の上部にあいつが逆さまになってぶら下がっていた。頭だけが見えている。
どうやらおれにぶつかったものはあいつの髪の毛であったらしい。
虫より最悪だ、と思った。気持ちが悪い。
「なんだ。生きてたのか」
「そんな簡単に死なねえだろ!」
シーツを勢いよく剥ぎ取って叩き付けようと振り向くと、既にそいつの姿はなかった。
代わりのように笑い声だけが部屋に残されていて、落ち着け、落ち着け、と呪文のように唱え続ける。
平静を保つようにした方がいいと思う。占い師の言葉が頭に過ぎる。何をされても苛つかなければいいだけ、それは分かってはいても難しい。そんな菩薩みたいになれる日が来るのだろうか。
閉められたカーテンで薄暗い部屋の中に、親子で散歩でもしているらしいきゃらきゃらとした小さな子供の声が外から聞こえてきた。秋晴れで気持ちのいい日曜の朝だ。
シャワーを浴びて、シーツを換えて、今日はもうゆっくり休もう。ぶり返してはいけない。
昨夜はきっと熱のせいで嫌がらせにも気付かなかったのだろう。また熟睡出来ることを願って、せめてもと籠もった空気を入れ替えるべくおれは窓に手をかけた。
朝食を食べてから二度寝をして、録画だけしていてなかなか見ていなかったアニメをようやく消化し終えた。遅い昼食を食べ終えてからは本格的にやることがなくて、久しく進めていなかったゲームに手を伸ばした。
発売されたのも購入したのも何年も前のことだけど、敵が強くて進めなくなって放り出してしまっていたタイトルだった。
今日はどうせ出掛けることもないし、久しぶりにやろうか。そんな軽い気持ちでロードしたけれどどこまで進めていたのかさっぱり記憶がない。
何かの武器が足りないんだったか。補助アイテムだったっけ。首を捻りながら操作感を思い出す。自由度が高いことを売りにしたそれは自由すぎて何から手を付けたらいいのか分からない。
とりあえず目の前にいた大したアイテムも落とさない敵を倒して、地図上の適当な位置にピンを打ってアタリを付ける。動き回っていれば何かしら記憶にある場所に出ることだろう。
破壊しながら移動して幾つか地形を変えた頃、ようやくぼんやりと思い出してきた。そうだ、ここの崖の奥にいた敵が強すぎてその先に進めなかったんだったな。だから、ええと、何だっけ。
攻略サイトはなるべく見ないように進めていたけれど、もどかしくなってきて見てしまおうかと逡巡する。握り締めたスマホのロックを解除して、でもせっかくここまで自力で来たのだから、と電源ボタンを押してまた暗くする。無意味なことを何度か繰り返した。
そうして画面を明滅させていると、友人からメッセージが届いていたことに気付いた。今日の昼過ぎに送られてきていたそれに目を通す。どうやら部活の昼休憩の間に送信してきたようだった。
『オレは何ともなかった!奇跡!そっちは体調どう?これでも見て元気出しなよ、さっき先輩が顔出しに来たとき教えてもらった』
貼られていたURLに、どうせまた心霊系の何かだろうとスタンプだけで返信をする。よく利用している動画サイトのリンクではなかったそれを開くのが億劫だった。何らかのテキストサイトか何かだった場合読むのが面倒すぎる。
メッセージアプリを閉じて、検索バーにそっと触れた。ゲームタイトル、攻略。そこまで入れて、数秒悩んでスマホをベッドの上に放り投げた。
「いややっぱ駄目だわ、決めたんだから自力で終わらせないと」
「あは」
ぎょっとして肩が跳ねた。頭の上から降ってきた声に驚いてそちらを向く。
「いいこと言うね」
珍しく肯定してきたそいつの顔は、いつもとは違う顔で笑っていた。
居心地が悪くなって、何だよ、とぼそぼそと呟く。
それ以上そいつは何も言わなかった。けれど普段みたいにすぐ消える事もなくて、諦めたおれは放っておくことにした。
気を取り直してテレビに向き直り、ポーズ画面を解除する。握ったコントローラーに気合いを込めて、よし、と歩かせ始めた瞬間にぷつりと画面が暗くなった。
「あ」
再度そいつに振り向けば、さっきまでの穏やかさが嘘みたいな表情だった。こちらの反応が楽しみなのか、にやにやとおれを見下ろしている。
にやついているが、しかし。
「……オートセーブあるから無事だけど?」
焦らないおれを見て、期待したリアクションと違ったのだろうそいつがひょいと片眉を上げた。
電源を入れ直すと、若干遡りはしたものの特に問題のないデータがそこに残っていた。目で見るまで一瞬不安はあったが確認できてほっとする。
「ほらな」
「何だ。つまんねえの」
「お前そんなのも知らないわけ? 生きてるうちにゲームとか全然やんなかったの」
「まあ、何も覚えてないかな」
やり返せたようで今度はおれが少しにやついてしまう。いつもこいつにはやられてばかりだから、今は本当に気分が良かった。
つまんねえの、と言った割にはそいつは特に興味がなさそうで、おれがゲームを再開するといつの間にかまた見えなくなっていた。
平静に。冷静に。平常心。
なんだ、意外と出来るじゃないか。かちかちとボタン操作をするうちに嫌な感情はすっかり晴れて、母が電気を点けなさい、と小言を言いに来るまでおれは冒険の旅に集中し続けていた。
夜には熱は完全に下がっていた。念のためにと何度か測った数字はどれも平熱のそれで、ほとんど症状もなかったからやはりストレスによるものだったんだろうと納得する。
ぐっすりと眠れたおかげで夜だと言うのに眠気はこれっぽっちもなかった。ゲームは疲れて夕飯前には終わらせた。今日一日でかなり進んだそれにはだいぶ満足して、特に詰まった訳ではないがしばらくやらなくてもいいかもしれないなと思うほどだった。一度に進めすぎた気がする。
見るともなしに見ている動画にも飽きてきてスマホを何となく触る。幾つか入れているゲームのログボは全部貰ったし、熱心に進めたいものも今は特にない。
グループに届く同級生からの他愛無いメッセージに適当に返事をしていると、SNSかゲームのログイン履歴でも見たのか友人から個人的にメッセージが届いた。みた? と一言だけのそれ。
そういえば昼にURLが届いていたな、と今更ながら思い出す。
『上のやつ?見てない』
『体調万全?見なよー』
『どうせまた心スポとかでしょ』
『違うよお』
イヤホン推奨、とハートマークの乱舞が続く。
中身なんだよ。動画なの? そう返した返信に、見れば分かるよとまたハートマークが付けられた。
『先輩に教えてもらってオレも今日見たやつだけど、めっちゃウケたやつ。良かったら見てよ』
ウイルスとかじゃないし、明日会えたら感想聞かせてね。その言葉を最後に友人はメッセージの連投を辞めたようだった。スマホが一気に静まり返る。
何の動画だよ。もしかして音楽系? とりあえず心霊系ではなさそうだと判断をして、ため息をつきながらイヤホンを手に取った。
友人は面倒くさい人間だが、ジャンプスケアみたいな騙し討ちを仕掛けてくる人間ではない。良くも悪くも素直な性質だからきっと、良かれと思って教えてくれた何らかの動画なのだろう。
ベッドに座ったままイヤホンの接続を待ってURLをタップすると、見たことのない動画サイトがパッと表示された。黒を基調としたそれに、グロいやつじゃねえだろうなと警戒を覚える。まさかすぎる、そんな裏切りは求めてないんだけど。
送られてきたのはそのサイトにアップされたうちの動画の一つであるようだった。件名が英語で書かれていて、何の動画だろう、と考える。サムネイルに映る人物は日本人に見えるから多分中身は日本語の動画だろう。深く考えずに再生ボタンに触れた。
警告みたいな文言が短い間映されて、ヤバかったらすぐ停止しよう、と緊張しているうちに動画はスタートした。
明らかに十代には見えない女性がコスプレみたいなぺらぺらの制服を身に付けて、これまた十代には見えない学生服を着た男性とどちらかの部屋で勉強会をしている様子だった。テストが近いらしい、と会話の内容から何となく推測が出来る。
グロや心霊系ではなさそうだ、と少しだけ安堵した。苦手ではないが今そういうものを見たい気分ではない。しかし映画やドラマにしてはあまりにも二人とも棒読みすぎて、何の映像なんだろうかと疑問は残った。
次第に二人の距離が怪しいほどに近づいていって、女性は言葉だけ嫌がってはいるが特に拒否などの行動には移さないようだった。
男性の手が女性に伸びる。
何だこれ、と呆けているうちに気付くと画面にはずいぶん肌色の面積が占めるようになっていた。ぎょっとして画面を伏せる。
伏せたところで停止ボタンを押さない限り動画は再生が続いていく。慌てて再度スマホに向き直った。
別にイヤホンを着けているから親に聞かれる心配もないのに、妙に焦って操作が覚束ない。ゼロ距離になっているらしい二人から出た水っぽいリップ音が耳元に直接送られてくる。
勘弁してくれ、と思うのと同時に一瞬雑音が混じる。音楽を聴く時には集中したいから、ノイキャン性能の高いイヤホンを買っていたはずだった。
え、なに、と固まるおれの耳に冷たい何かが触れた。
柔らかくてかさついたそれがすっと耳朶を撫でる。
すぐ傍に気配を感じた。
「手伝おっか?」
「うわあああああ!」
イヤホンとかノイキャンとか、全部を無視してあいつの声が耳元で響いた。囁くようなそれが聞こえるはずもないのに。
急いで振り向けば信じられないくらいの至近距離にあいつが居た。心底愉快そうな顔で、おれの手元を見てからゆっくりと目線を上げる。
「あはは、やばいねお前」
見られた。最悪だ。最悪の相手に、最悪のタイミングで見られた。
パニックだったんだと思う、何か言おうとして、でも声が出なくてはくはくと口を開閉するだけのおれをそいつは見下ろしていた。
いつもみたいに口角を上げて、目元は弧を描いている。笑っているのに不快な印象を受ける表情。
不意に腕が伸ばされた。おれの顎を鷲掴みにして無理矢理上を向かせてくる。
数秒無言で目が合った。子供が蟻の行列でも観察しているみたいな、何の温度もない瞳だった。
「人間ってこんなに一気に顔赤く出来るんだ。息できてんの?」
はは、と漏れた吐息が顔にぶつかる感触がした。──がきのくせに一丁前だね。そいつの笑顔が深まる。
顎を掴んだままの手が俄かに蠢いた。冷たい指先が耳朶にぶつかってぞわりと鳥肌が立つ。
さっき何かが掠めた場所だった。
「熱すぎ」
堪えきれない、といったようにそいつが声を上げて笑う。とどめを刺すように耳を一瞬引っ張って、ようやくそれが離れていった。
その瞬間に全身の硬直から解放されたような心地がした。ぶるぶると震えが起こる。恥ずかしさからなのか怒りからなのか、おれ自身にも分からなかった。
「……し、」
「うん?」
「死ねーー!!!」
「あはははは!」
イヤホンをむしり取ってそれに投げ付けると、やはり当たることはなく軽い音を立てて壁に当たって落ちていく。
もう死んでるよ。震えを抑えきれないような声を残して、そいつは腹を抱えるように蹲るみたいにかき消えた。
荒い呼吸が耳に届く。うるさいと思ったそれが自分のものだと気付くまでには少しの時間を要した。
「……なんかゲームとかしてるの?」
あんまり嫌な言葉使っちゃ駄目よ。そんな母の声がドアの向こうから聞こえてきて、そんなんじゃないよ、と返した自分の声はまだ少しも落ち着きを取り戻していなかった。
小さなイヤホンの行方も見当が付かなくて苛つきが留まるところを知らない。本棚の隙間やラックの下を照らしてみても、掃除しきれなかった埃が目立つばかりだった。そこにあったことも気付かなかったいつかのプリントにすら腹が立ってくる。
冷静になれとか平常心とか。無理に決まってるだろ!
一度上り詰めてしまった怒りのボルテージはなかなか収まらず、おれは八つ当たりみたいに友人にメッセージを送り付けた。ふざけんなお前なんだよあれ。ご機嫌なスタンプが間髪開けずに返ってくる。
『みた?あれめっちゃうちの制服に似てね?』
一気に脱力してどうでもいい気分になった。そんなもので。しょうもない。どうでもいい。深く息を吸って吐く間に知らずに笑いが込み上げてきた。
お前明日覚えてろよ。そんな脅迫じみた返事を送って、おれはベッドに倒れ込んだ。




