小学五年、夏 後編
「……う、」
息苦しさで意識が浮上する。ぐう、と肺が圧迫されていて呼吸がしづらい。
毎夜のように何かしらの安眠妨害をしてくるあいつは、今日はおれに直接のし掛かることを選んだようだった。
囁き声が聞こえる程度ならまだマシだったのに。瞬間的に湧き上がってきた苛つきを堪えながら目を開けると、案の定想像通りのそいつが視界に飛び込んできた。
ふう、と気合いを入れながら胸の上の重り目掛けて右手を振る。
常夜灯で僅かに見える人影がおれの腕にぶつかってぶわりと揺れた。
「どけよ」
あまり大きい声を出しては両親に聞こえてしまう。出来るだけ絞ったつもりの声は、怒りからか思ったよりも室内に響いた。
おれの抵抗なんてこれっぽっちも効いていないそいつは、実に楽しげにおれを覗き込んでくる。
「──どっか行けよ! ほんとに何なの、お前」
「何だと思う?」
揶揄うようにそれが笑った。暗い室内、小さな照明で逆光になったそいつの顔はちらりとも見えない。
けれどどうせあのにやついた顔をしているんだろうというのは容易に想像がついた。
「知らないよ、どうせ悪霊かなんかだろ」
「ふうん」
おまえがそう思うんならそうなんじゃない? そう言いながらそいつはゆっくりと立ち上がった。
嫌がらせの内容は様々だけれど、おれが抵抗してすぐに姿を消す事もあればこうして文句に対して返事をしてくる事もある。おれにどう対応するかはその日の気分なのだろう、今日のこいつは後者であったらしい。
胸の上の重さが消えて、ほう、と思わず息を吐きながら枕元の時計を見る。午前一時半。
こんな時間にまあまあしっかり目が覚めてしまっている、最悪。腹いせにティッシュ箱を放り投げると、もやを擦り抜けて壁に当たった。
そいつはまだそこに佇んでいる気配がある。
「──あの時の河原の黒い石、直せばお前消えてくれるの?」
幼稚園児の頃からずっとおれに嫌がらせをしてきて──聞き齧ったオカルトものの言い方をするならば取り憑いてきていて、何かとおれの平穏を乱してくる。目的なんてよく分からないけれど、きっかけと言えるのはやはりおれが割ってしまったあの河原の黒い石だろうと思っている。
こいつが何者なのかは知らない。だけどきっと、封印とか何かそういうものがあの石によって為されていたのだろう。おれはそう結論付けていた。そうしなければならないくらいしつこくて面倒なものなのだろう、そう実感していたから。
四歳の頃大泣きして逃げるように帰ったあの大きな公園。何があったかは分からないが嫌がって泣いていたのだからと両親はあれ以来おれをあそこに連れて行ったことはない。あれが最初で最後の一回になってしまっている。
ずいぶん時間が経ってしまったから、今更あの河原に行ったところで同じ石を見付けるのはもう難しいのかもしれない。けれどこうして毎日のように嫌がらせをされるくらいなら、またあの広大な公園に連れて行ってもらって黒い石を探すくらいは大した労力ではないだろう。
そう思いながらそれを見上げた。これまでゆっくり会話をしたことなんてない、おれたちはそんな穏やかな関係ではないからだ。嫌がらせをする側と、される側。とてもじゃないが仲良くなりようもなかった。
だが訳も判らず安眠妨害をされて、幾度も怪我まで負わせられるこの日々におれは疲れ切ってしまった。
フラストレーションを溜めるばかりのこの生活から解消されるのなら、害悪でしかないこいつと対話をして解決法を導き出すのも吝かではない。
幸いこいつは言葉も通じて、気紛れだろうが質問すれば答える日もある。お前が電気消したの? そうだよ。みたいな、これまではそんな下らない内容ばかりだったけれど、些細なものとは言え実績はあった。
だからこそおれからこうして歩み寄った。
なのに。
「石なんて関係ないけど」
逆光のシルエット、その上の部分が微かに揺れる。首を傾げているようだった。
「石って何?」
「え、……は?」
秒針がかち、かち、と動く音が部屋に響く。思わず固まってしまったおれの様子を窺っているのか、そいつも特に動き出す気配がないままこちらを見下ろしている。
「……え、だって。じゃあ、お前、何なの」
「さあ」
「何だよそれ」
「そうとしか言いようがないから」
驚いて更に質問を重ねたけれど、まだ気紛れが続いているのかそいつが答える。実に落ち着いたゆったりとした返事だった。思っていた回答が得られずに焦るおれを見て、愉快そうにそいつはゆらゆらとぼやけた輪郭を揺らしている。
ずっと、こいつがおれに取り憑いてきたのはあの黒い石を割ったからだと思っていたのに。
石が関係ないのなら、どうしておれはこんな目に合っているのだろう?
「お前が幽霊とかなら、成仏とかしないの。お前は何者なの。名前は?」
「さあ」
「だから、さあって何だよ!」
「名前なんて覚えてないから。何者なんだろうね」
一気に捲し立てる。けれど全てはぐらかされた。
そう認識した途端に、いまこうして起こされた事だとかこの頃余計な怪我が増えたことだとか、そういう積もり積もったものがいっぺんに脳裏に過ぎった。
途端に怒りが限界に達して、おれは枕を掴んで再度そいつ目掛けて思い切り放り投げる。
先程のティッシュ箱と同じように当然それは擦り抜けて、今度は壁際に置いてある本棚に当たってぼすりと落ちた。
瞬間、常夜灯がばちばちと点滅を始める。腹を抱えて笑うそいつの様子が明滅に合わせてパラパラ漫画みたいに目に焼き付いた。
そのうちに真っ暗になった瞬間に闇に溶けるようにそいつはすっかり姿を消して、代わりに聞き慣れたげらげらという笑い声が部屋中に響き渡った。
「何なんだよ。何なんだよ!」
物理的にどうにもできない相手に怒りの矛先を向けようもなく、タオルケットを思い切り握り締めてどうにかやり過ごそうとする。心の中での悪態が止まらなかった。
聞こえ続ける笑い声が大きくなってきたと思ったと同時に耳鳴りが響き始めて、尋常ではない不快感に襲われる。
その耳鳴りがストレスからなのかあいつによるものなのかおれには判別が出来なくて、意味もないのに両手で耳を塞いだ。痛いほどの音圧に涙が滲み始めて、恐ろしさよりも悔しさを覚える。
もう嫌だ。馬鹿にしやがって。
興奮したせいで自分のばくばくと鳴る鼓動が聞こえてくる気がした。
今日ももう眠れないのかもしれない。そう感じながら、せめて少しでも音を遠ざけようとタオルケットに包まって丸くなる。安寧とはほど遠い現状が辛くて堪らなかった。
いつの間にか常夜灯は点滅を止めて、ぼんやりとした輝きを取り戻していた。
次の日は予報通りによく晴れていた。
隣のクラスと合同で入るプールは少し狭くて、体育館や校庭で行なわれる授業よりも皆浮き足立っている。
高学年になろうと子供は子供だ、おれたちはこの合法の水遊びに全力を尽くして生きている。
「ねえ、忘れてないよね? 競争だかんね」
熱されたプールサイドは火傷を負いそうなくらいに夏本番を伝えてきている。それにきゃあきゃあと悲鳴を上げるクラスメイトたちを嗜める教師の声がホイッスルと共に響いた。
そんな騒がしい準備運動の中で、友人が隙を見ておれに耳打ちをしてきた。昨日の帰り際に話した内容だろうと振り向けば、にまにまと楽しそうな顔がこちらを見ている。
「……平泳ぎでやってくれんの?」
「まじ怒られるってそれは!」
睡眠不足の目にかんかん照りの日光が突き刺さる。正直休んで寝ていたかったけれど、怪我が増えている上に学校まで休みがちになってしまってはいよいよいじめの疑いが強まってしまう。
おれ以外には聞こえないし見えないあいつからの被害をどれだけ両親に訴えたところで、心配そうに優しくされるだけだった。だったらいっそ何も言わずに過ごした方が幾分マシ、これまでの数年間でおれはそんな風に達観し始めていた。
本当に学校では辛いことなど何もないのだ。むしろ、日中はあいつに何かされたとしても転ぶ程度で済んでいるのだからこうして友人たちと過ごしている方が気力的には随分と休まっている。体力的に辛いだけ。
夜にもっと寝られればなんて事はないのに。
ぬるくて塩素のにおいを孕んだ風が頬を撫でる。担任が号令を掛けて、興奮を抑えきれない級友たちが我先にと水面に向かって駆けていった。
「次、ニ組! 一番から並んで!」
ぴ、と鳴らされたホイッスルに合わせて順番にスタート位置につく。
おれと友人は出席番号も近い。互いに目配せして、そろそろだ、と小さく笑い合った。
クロールのタイム測定の授業なのだから、昨日も先程も茶化して言ったみたいに実際に友人が平泳ぎをする事はない。ふつうに並んだ全員でクロールで泳ぎ切って、そうしておれが友人にボロ負けをする事実は確定していた。
それでは勝負もくそもない。ならばせめてと話し合い、自己ベストを各々更新出来るか競争しようということになった。
更新出来れば勝ち、過去の自分に並ぶか下回ったら負け。負ければ今度待ち合わせて行く予定の夏祭りでかき氷を奢ることになったが、二人とも結果が同じなら互いに自腹で一緒に食べようということになった。平和なものである。
わくわくとした感情を抑えきれない様子の友人を横目に並ぶ。いよいよおれたちの順番が巡ってきた。
「位置について! 用意!」
おれは泳げない訳ではないけれどかと言って得意でもない。水泳教室はクロールを覚えてから辞めてしまったから、連続で泳げるのは現状クロールでの二十五メートルが頭打ちだ。
水に浸かるのは気持ちいいし、楽しい。だけどそれだけだ。授業のプールは嬉しいけれど、浮き輪を持ってウォータースライダーがあるようなプールに行く方が当たり前に楽しいし、体育だったらバスケなんかの球技の方が好き。そう告げた時の友人の顔を思い出す。──オレ冬でもプールに入ってたいけど! 勝手に入りなよと返した気がする。
今日は四時間目が体育だから、このあと給食を食べたら五時間目は眠気との勝負だろうな。そんなことを考えながらざぶざぶと腕を振る。
今回の測定では五十メートルを泳ぎ切らなければならない。ターンが出来る人はターンで、難しい人は折り返し地点で一度足を着いて良いよ。そう言っていた担任の言葉に甘えて迫ってきた壁に手を付いてから立ち上がり振り向く。友人はとうに折り返して、随分と先で水飛沫を上げていた。
残り半分、おれも頑張らないと。息を吸い込み顔を沈めて、思い切り壁を蹴り上げる。
足底が壁から離れた瞬間、左の足首に何かが巻き付いた気がした。水温よりもっと冷たい、ぞっとするような嫌な感触。
それは足を振っても離れていかなくて、何だこれと思う間もなく物凄い勢いでおれを下に引き摺り込む。
一気にプールの底が近付いてきて、慌てるあまりにがぼりと息を吐いた。見下ろしたおれの足首には黒いもやが絡み付いている。
──あいつだ。これまで放課後や家での嫌がらせばかりだったから授業中には何もしてこないだろう、と油断していた。しまった、と気付いた瞬間どっと心臓が跳ねた。うなじの辺りにぞわぞわと冷たいものが走る。
これまでとは全然違う、水の中はまずすぎる。
必死に右足で蹴飛ばすけれど、そんな抵抗はもやを通り越して自分の足にぶつかるばかりで全く意味がない。そうだった、おれはこいつに触れない。
苦しくてもがく内に鼻に水が入ってくる。つんとした痛みと苦しみで前がよく見えない。おれの視界を塞ぐように、大量に吐き出した空気の粒も邪魔をしていた。
どうする、どうしたらいい。こいつはまだ離す気配がない。
嘘だろう、もしかしておれはこのまま殺される? 今まではこんな命に関わる嫌がらせはなかった。左右を見渡しても級友たちはとっくに先に行ってしまっていて、周囲には誰もいない。
肺の空気が底をつきそうになってきた。
どれだけ暴れても足首が解放されることはなく、いよいよ意識を失いそうになった時、すぐ近くでばしゃりと大きな音と共に圧力が押し寄せてきた。腕を掴まれて水面に引き上げられる。
プールサイドで監督していた隣のクラスの担任が飛び込んで助けてくれたようだった。しっかりしろ、と肩を揺すられる。
永遠みたいな時間は実際には数秒だったらしい。ひゅうひゅうと咽せながら空気を思い切り肺まで送り込むと、大丈夫かと慌てた様子で背中を叩かれた。大丈夫です、と途切れ途切れに返事をする。
もう上がりなさい、と指示されて、言われるまでもなくと思いながら側面の梯子に向かう。
振り向いたプールの底にはもう何もいない。測定を終えた友人がゴーグルを外しながら駆け寄ってきて、申し訳なく思いながら顔の水を手で拭った。
勝負が駄目になってしまった。
「溺れたの!? 大丈夫?」
「多分足攣った。ごめん」
「いや全然、けど、がちで大丈夫? 保健室とか行く? オレ付き合うよ」
「そこまでじゃないよ。ありがと」
もう休んでいなさい。そんな担任の言葉にありがたく従って、ぐちゃぐちゃの顔を拭きたくてフェンスにかけておいたタオルを取りにプールの端へ歩き出す。
クラスの友人たちに口々に心配されて恥ずかしい。足が攣ってしまった、と再度同じ説明を繰り返した。
こうして些細な嘘で誤魔化すのも慣れてきたけれど、やっぱりストレスだなと思う。嘘なんか別につきたくもないのに。
自分のループタオルを探し当てて、陽に晒されて温められたそれに手を伸ばした。同じタオルを使っている奴が他に二人いて少し気まずい、特に拘りなんてないスポーツブランドの適当なデザインのもの。
タオルを掛けていた錆びたフックに触れようとした時、視界に自分の手が入った。
小刻みに震えている。
ああ、おれは怖かったのか。
それはそうだ。生まれて初めて溺れかけた。
生まれて初めて、死にかけた。
遅れて実感したそれに、一瞬頭が空っぽになるのを感じた。
あれは誰にも見えない。聞こえない。どうしたらあいつが居なくなるのかも分からない。──石が原因じゃないなら、解放のトリガーは一体何? おれはいつか本当に死ぬまであいつに脅かされ続けるのだろうか。
拳を握り締めて深呼吸をする。落ち着け。大丈夫。そう自分に言い聞かせていると、嘲笑うように背後にどろりとした気配を感じた。毎日毎日何かしらを仕掛けてくるそれには、何年経ってもちっとも慣れない。
未だに震えが治まりきっていない手、それを上から覆うように握り込まれる。
ひんやりとしたその感触は、水中で足首に絡み付いたのと同じ温度のものだった。
「助けてもらえて良かったね」
振り向いたらすぐそこにあれが居るのだろう。そう確信できるほど近く、顔の真横から声がした。
一瞬潰されるかと思うほどに握られた手に力を込められる。ぎちぎちと音さえ鳴るような気がした。痛みに声を出しそうになった瞬間、そいつは気配ごと姿を消した。
錯覚かと思ってしまうほど僅かな時間だったが、呆然と視線を下ろせば紛れもなく現実だった。じんじんと痛む手でタオルを掴んでしゃがみ込む。顔を埋めたタオルからは、いつもの柔軟剤と、アイロンをかけたあとみたいなにおいがした。
「畜生」
見下ろした手にはあいつの指の跡がまだ赤く残っていた。気持ち悪い。気持ち悪い!
うう、と言葉にならない恨みつらみだとかの感情を声を殺してやり過ごす。残り僅かな体力はすっかり使い切ってしまって、ふかふかのタオルでもなかなか癒されそうになかった。
すぐそこでは水音がして、きゃはは、と歓声が響き渡る。
どうしておれだけこんな目に合うの。幾度もぐるぐると考えては答えが未だに分からないその疑問に、応える声は終ぞなかった。
次回からは1話ずつ、隔日更新になります。




