小学五年、夏 前編
小学五年、夏 前半
黒いもやはどうやら、おれに付き纏って嫌がらせをすることに決めたらしい。
その内容に命が脅かされるような致命的なことはなかったが、行動するたびにいちいちストレスを覚えるようになってしまった。
忘れた頃に天井から急に降ってきては「ばあ」と顔を出し、廊下の角を曲がればまた「ばあ」と眼前に飛び出してくる。
それにいちいちうわあああ! と反応するおれが面白いようで、その度げらげらと気分の悪い笑い声を響かせていた。
寝ようとすると耳元でぼそぼそと話し声が聞こえるのも参った。何を言っているのかまでは分からない。それがまた嫌で堪らなかった。耳をそばだてれば遠ざかり、目を閉じればまた近付いてくる。
夜にトイレに入った際に照明を消された時は、パニックのあまり泣き出した。手探りで触れたスイッチを押しても暗いままの現状に焦ってドアを開けると、廊下どころか家中全ての照明が落とされ真っ暗になっていた。全部点けてここまで来たはずだったのに。まるでこの世におれ一人、闇に呑み込まれたようだった。
おかあさん、と叫ぶおれの背後から、ひいひいと苦しそうな呼吸が聞こえる。その黒いもや──悪霊の類いなのだろう──そいつの笑いすぎた事による息苦しそうなそれだった。命はなくとも息が出来ないのは辛いらしい。
朝玄関に行った際、おれの靴だけがびしょ濡れになっていたのはかなり堪えた。前日も当日も晴れていたのに何のいたずらをしたのか。そう母に雷を落とされてしまったのだ。
おれじゃない。そんな言い訳をしたら更に怒られるのは目に見えて分かった。事実なのに。
悔しさと母への恐怖から涙目になるおれを見て、やっぱりそいつは楽しそうに腹を抱えていた。
その頃には心なしか、輪郭が微かに見えるようになっていた。
「……ねえ、本当に虐められたりしてないのよね? 意地悪な子とか居ないの?」
朝の報道番組が元気に占いを読み上げている。最下位はごめんなさい、──座のあなたです。話半分でぼんやり眺めていたから自分の順位は見落としてしまったが、どうやら最下位ではないようだった。
おれには関係のないラッキーアイテムを聞きながら、そろそろ出る時間だと椅子から立ち上がる。昨日持ち帰るのを忘れた宿題を仕上げるために、今朝は早めに学校に着かなければならない。
ランドセルを背負うおれに、食器を洗っていた母が手を拭きながら不審げな視線を向けて近付いてきた。玄関まで見送ってくれるのだろう。
ハーフパンツから覗く真新しい絆創膏に母の目が向いている。
「そんなの居ないよ、友達もクラスもみんな仲良いから。おれが一人で転んだだけ」
「本当に……?」
信じられないらしい。そりゃあそうだ、と分からんでもないがそれ以上は何も言うことが出来ない。
最近低くなり始めた声は少し出しづらい。引っかかるような声で、行ってきますと無理矢理切り上げて母の視線を振り切った。
あの河原であいつ──あの厄介な悪霊のようなものがおれに目を付けてから数年が経った。
おれは幼稚園を卒園して、今や小学校は高学年になった。両親にはまだまだ及ばないが身長も随分伸びたと思う。
あいつは相変わらずおれの近くをうろついて、隙を見計ってはおれにちょっかいをかけてくる。
はじめの頃は──表現がむかつくが今と比べれば──可愛いものだったその嫌がらせは、最近では少し悪質なものになり始めていた。
また増えた絆創膏が視界に入り、はあ、とため息が溢れる。
「辛気くさ」
不意に降ってきた声はいかにも楽しそうに揺れていた。不快でしかない。
そのうざったさに斜め後ろを振り向きながら眉を顰めると、晴れて気持ちのいい青空の下、蝉が鳴き始めていかにも夏と言った爽やかな朝の空気にそぐわない存在がそこにいた。
あの河原から着いてきてしばらくの間ただのもやにしか見えなかったそいつは、おれに嫌がらせをする内にほんの少しずつではあったが──けれど、確かに存在感を強めてきている。
薄ぼんやりして、たぶん笑っている。それくらいにしか見えなかったのに今はすっかり表情が分かるくらいに見えるようになってきていた。
晴天の日の昼最中、物陰に入っている人を外側から見ている時みたいな。そこだけ妙に暗くてピントが合わせづらいような。けれど誰かがそこにいるのは分かる──今のそいつはそんな、あの頃とは明らかに違う見え方をしていた。
最初は気のせいだろうと思っていた。怖くて直視出来ないから、というのもあった。
けれど、低学年の頃、夜中のぼそぼそとした囁き声があまりに気になって目を開けた時。そいつはおれの目の前に顔を寄せて、それの存在に気付いたおれが驚いて息を呑むところをつぶさに観察していた。
そのにやついて細められた半月型の両目と正面から視線がぶつかってしまった瞬間に、これは気のせいではない、とおれはようやく実感した。
目が合うなんて有り得なかったのだ。細かいところなんて判別出来ない、人型の輪郭がようやく認識できる程度のはずだったのだから。こいつは明らかに日増しに鮮明に見え始めている。
それに比例するように増えていく嫌がらせも、濃くなり始めたそいつの存在感も。
どちらの理由も意味も分からないままだった。
「つまんねえな、何か言えよ」
どん、とランドセルに衝撃を感じた。蹴られたのだろう。奥歯を噛みながらじろりと睨めば、にい、と口角を上げたあと、おれが瞬きする間に消えていた。
幼稚園の頃は寝ている間に音が鳴るとか手洗いでの照明とか、嫌がらせはその程度だった。些細と言えば些細だが小さいおれにとっては死ぬほど怖かったそれらは、年齢が上がるにつれて直接的な物へと変化を遂げている。
今みたいに蹴られるのは可愛いものだ。ほんの一歩だけよろけた程度で済んだから。
ここのところは友人達と公園で走り回っている時やアスレチックに登る時、急に足を掴まれるようになることが多くなっている。
放課後校庭で鬼ごっこをしている際に初めて足を取られた時は一人で盛大に転んで、慌てた一人が真っ青になっておれの母親を呼びに家まで駆け出すほどだった。
ださ、とその時笑ったあいつの声が聞こえてはいたが、あまりの痛みにそれどころではなかったのはもう半年ほど前になるだろうか。
両親を心配させたくなくて極力怪我をしないように気を付けてはいるけれど、それでも見えないところから急に攻撃されては防ぎようがない。
──前は怖いばっかりだったけど、今はそれに加えて本当に厄介だ。
毎日気が休まらない。ため息をもう一つついて、おれは学校へと駆け出した。
「ねねね、明日プールあるじゃん。競争しようよ」
何事もなく終わった一日にそっと胸を撫で下ろす。家まで油断は禁物だが、今のところは怪我を増やさずに帰る事が出来そうだった。
同じ帰り道、前を歩く友人の閉まり切っていないランドセルの金具ががちゃがちゃ鳴っている。何か落とすのではないかと後ろからぼんやりそれを眺めていると、ぱっと友人が振り向いた。
ふざけて去年ランドセルの蓋にべたべたと貼ったキャラクターもののシールが、友人の動きに合わせてきらりと反射する。
「だる。おれ絶対負けるもん、やだよ」
「だから競争したいんじゃん」
「終わりすぎだって性格」
けらけらと彼が笑った。入学した年は水に顔もつけられずにぶすくれていたという友人は、二年に上がる前に通い始めた水泳教室にどっぷりとハマってしまったらしい。
バタフライを覚えたと言っていたのは去年だったか今年の頭だったか、クロールで二十五メートルを泳ぎ切るのがやっとのおれがそんな彼といい勝負を出来るはずがない。
「おれがクロールでそっちが平泳ぎならやってやんないこともないけど」
「クロールのテストじゃんか明日。性格終わってんのオレだけじゃないって」
小突き合いながら歩道を進む。じりじりと照らす陽の光は容赦がない。
ベタついて張り付くシャツが何とも鬱陶しくて、ぱたぱたと仰いで空気を入れて息を一つ吐いた。
「夏休みはどっか行くの」
小石を蹴飛ばす友人がほんの少し首を傾げた。じいちゃんちくらいかなあ、と唇を尖らせる。
「今年は姉ちゃんの部活あるから旅行出来ないって言われた。オレ関係ないのに! お盆にじいちゃんち行って終わりだってさ」
「きょうだいいるとそういうのあるんだ、つまんないね」
「うん。だから今年はほとんど家にいる予定」
「じゃあいっぱい遊べんね」
ぱっと顔を上げた友人が顔中でニカっと笑った。
彼は喜怒哀楽がはっきりしていて面白い。よく連むようになったのはクラスが同じになった去年からだが、一年からずっと同じクラスになり続けている奴よりもすっかり打ち解けてしまっている。
「めっちゃ良いじゃん! せっかく夏休みだもん少しくらい遠くとか行きたいよね、母ちゃんに連れてってもらおうよ! どこ行く!?」
「まだ早いって」
あまりの興奮に思わず笑ってしまう、夏休みまではまだ日にちがある。今から指折り数え出しそうな友人をどうにか宥めておれたちは別れ道までを歩き続けた。駅前や市民プールなら学区内だから余裕で行ける、早速親の了承を得よう、そんな話で盛り上がりながら。
「──じゃあ、また明日! 明日もっかい相談しような!」
大きく手を振る友人におれもぶんぶんと振り返して、通りの向こうに見える自宅を目指して歩く。
何だかんだ言ってもおれも同じく楽しみで、きっと彼とおんなじ笑顔になっていたことだろう。
ランドセルと密着している部分がじっとりと濡れて気分が悪い。けれど気持ちは浮き上がっていた。
夕暮れにはまだ遠く、じりじりと真夏の日差しが照り付けていた。




