四歳、春
自給自足のために書きました。
忘れた頃に読み返して自分でニヤニヤする用の話です。けどどこかの誰かに刺されば嬉しいな。
まだ夜は少し肌寒くて、でも日中の陽の光の下なら暖かい。過ごしやすくなってきた、そんな時期の出来事だ。
具体的な日時は覚えていない。ただ道中の車内で見た、その頃熱を上げていたアニメ映画の記憶があるから何となく四歳頃だろうという印象はある。
いつもは家族での外遊びと言えば近所の狭い公園に歩いて行く程度だったのに、その日は珍しく父の運転で少し遠くの大きな公園に行った。父が職場の人に聞いた場所だと自慢げに話して聞かせてきてから、ずっと訪れてみたかったところだった。
車を降りて駆け出すと、幼いおれが呆気に取られるほど敷地の広い公園だった。幾つもの遊具が向こう側に設置され、全貌を見渡すことが出来ない。家族連れやカップルのはしゃぐ声が遠くに聞こえる。
ぐるりと植えられた並木を抜けて少し歩けばキャンプ場が併設されているとのことだった。その道中には透明度が高くて浅い川がさらさらと流れていて、いつものブランコと砂場しかない公園とは桁違いの景色が視界に飛び込んできた。初めて見るその広大さに鼻息荒く興奮したのを覚えている。
午前中に到着して、ひとしきり遊んでから持参した弁当で腹を満たし、遊具にもシャボン玉にも飽きたおれが水遊びがしたくなって川に近付いた時の事だ。見てろ、と父が得意げに言って幼いおれに水切りを披露してみせた。
恐らく、おれが濡れるのを防ぎたかったのだろう。夏にはまだ早かったために冷えすぎるのが大人には目に見えて分かった。子供が風邪をひくのを嫌がったのだ。
そうしてうまく乗せられたおれは、おれもやる、と特に深く考えずに石を拾った。たぶんそれが全ての間違いだったのだろうと今は思う。
平たい石を選ぶと良いよ。そう言いながら父は川にまた石を放る。恐らく父も大して上手くはなかったのだろう、ほんの数回跳ねては沈んでいくだけだったが、少なくともおれよりは遥かに上手かった。真似して幾度も挑戦してみてもおれの石は一回すら跳ねることなく水底に消えていってしまう。
半ばむきになって足元の石をざっと見た。つるつるとして平たい、ぬらりと光る黒い石。周囲の石に比べてどことなく目立って見えたそれを何の気なしに鷲掴み、川目掛けて投げ付けた。つもりだった。
力の入り方が悪かったのだろう、水面どころか数歩先の石砂利に叩き付けられる形になったその石は、真ん中から真っ二つに割れて断面をこちらに向けていた。
せっかくいい感じのかたちの石だったのに、これではもう跳ねないかもしれない。残念に思いながらその断面をよく見ようと右手を伸ばす。
──表面は真っ黒なのに、中身は灰色なんだ。変なの。
石に指が触れた。その時だった。
ぬる、というか、つる、というか。
表現の難しい感触だった。空気の塊のようなものだったのかもしれない。
視界には何もなかった。けれど確かに、おれの小指には何かが触れたのだ。
何だったのかは分からない。一瞬冷たい何かがおれの指に絡まった。
気分を悪くして手を振り払うと、その感覚はあっさりと解けて離れていった。
「あーあ」
突然知らない声がした。
父のものではない、少し掠れて低い声。
どこか愉快そうな響きのそれに、びくりと肩を震わせる。
「酷いことすんね、くそがき」
はっとして声の方に顔を向ける。目の前、石を拾おうとするまでは確かに誰もいなかった場所。
何かがそこにいた。
そこにいたのは父ではなくて、そして、それは恐らくひとでもなかった。
黒いもやのようなものが割れた石の傍らに見える。それがゆっくりと起き上がるように縦に伸びた。
真昼の明るい公園の中で、明らかに異質な存在。
どことなく人型のように見えたけれど、全身が薄曇りの日の影みたいにぼんやりとしていた。頭がこの辺だろうか、とかろうじて判別出来る程度のそれ。
当然表情は見えない。なのに、それがにやにやと笑っていることだけは不思議と確信できた。
「可哀想にね」
不意にそれが一歩こちらに近付いて来たように見えて、おれは慌てて後ろに駆け出した。
父は少し向こうで呑気に水切りを続けている。思い切り脚に抱きついて、戻ろう、と絞り出したおれの声は酷く小さく震えたものだった。
疲れちゃった? と父が笑いながらおれの手を握る。しがみ付くようにすり寄りながらそっと振り向いたそこには、もう黒いもやの姿は見えなかった。
幾分ほっとして父の手を強く握り返した。どうした? と心配そうに父が背中を撫でてくる。
暖かくて大きな手だ。それにまた少し安心したおれを嘲笑うように声がした。
耳元、後ろ、すぐ近く。
「逃げても無駄だよ」
びくりと肩が跳ねた。
おれの様子がおかしかったのだろう、ひ、ひ、と空気の揺れる音がした。
笑っている。
何かがおれの、すぐ後ろで。
「くそがき。なあ。おまえがやったんだからな」
父の脚にまた抱きついた。ぎゅう、と目を閉じる。
おれには何も聞こえていない。何も見えない。いなくなれ。いなくなれ。浅い呼吸の中で必死に念じた。
恐ろしくて父に訴える事すら出来なかったのだ。
歩きにくいよ、と父が笑っている。
「聞こえてんだろ、なあ。おい。がたがた震えてんのがここまで見えてる」
ゆったりと話すそのテンポだけは落ち着いているのに、耳に届く声は酷く悍ましい。両親や幼稚園の先生みたいに優しさのかけらも含まれていないどころか、全て蹂躙するような響きを持っていた。
つぶされちゃう。瞬間的にそう思った。
じわりと視界が滲んでいく。
ついてきている。何かが。どうしたらいい。幼いおれには何ら解決法が思い浮かばなかった。
ただ、何かとんでもないことをしてしまったのだろうということだけは理解した。
何をした。何をした時にこれは現れた。
遊んではいけない川だったのだろうか。
ならば父も同じだ。しかし父には何も聞こえていないようで、ぐずるおれを困った顔であやし続けている。
おれだけがしてしまったこと。そう考えてはっとした。
黒い石。あれを割ったから?
きっとそうだ。なにか大事な石だったんだ。その石を割った途端に声が聞こえて、それで、
「可哀想にね。気付かなかったんだ」
楽しそうな声だった。
「でも、やったのはおまえだからね」
だからこれはおまえのせいだから。
最後のそれは、物理法則を無視して頭の中に直接流し込まれるようだった。
うわん、と反響するそれに脳味噌を揺さぶられたような感覚。おれはとうとう声を上げて泣き出した。
声を抑えるとか、涙を堪えるとか。そういったことがまるで頭になかった。何一つ身体の制御が出来ず火がついたように、まるで絶叫するようにぎゃあぎゃあと騒ぐおれの様子を見た母が何事かと駆け寄ってくるほどだった。
父がおれを抱き上げる。体が言う事を聞かなくて、危ないと分かっているのに手足をばたばた振り回す。とにかくあれから逃げ出したかった。
そうしてきっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。暴れるおれを父が抑えて、母が宥めて。その後の記憶は途切れていた。
両親の話し声がぼそぼそと聞こえてきて、ああ自分は寝ていたのだろうか、とぼんやりと意識を持ち上げる。
どうやらおれはいつの間にかいつもの自分の席、後部座席に設置されたチャイルドシートに座らされているみたいで、前に座る両親の後頭部がヘッドレストの隙間から見えた。
熱はないみたいだったけど。目を離した隙に転んだんじゃないの……
おれを起こさないようにだろう、母の絞った声が耳を擽る。怪我はしてないと思うんだけど、と父の申し訳なさそうな返事が聞こえた。
おれがないちゃったから、おとうさんがおこられている。
まだ帰るには早い時間のはずだった。夕焼けになるまで遊ぶはずだったのに、家を出る時にそう約束したのに。
何で泣いたんだっけ。
寝起きで回らない頭で考える。瞼が重い。車内の心地良い振動に、今にも再度眠りに落ちてしまいそうだった。
「おい」
うつらうつらしていた意識が一気に浮上した。
男の低い掠れた声。
父のものではないそれ。
公園の、河原で聞いた、
「逃げられると思うなよ」
ひゅう、と喉が鳴った。上手く呼吸が出来ない。
瞬間、げらげらと下品な笑い声が爆発的に拡がった。あまりの煩さに思わず両耳を塞ぐ。それでも声の大きさは変わらず、暴力的なまでのそれに耳鳴りまで起き始める。
両親は相変わらず何事かを話し合っているようだった。笑い声でかき消され、元より小声だった両親の声はもう何を話しているのか見当もつかない。
あのとき冷たい何かが触れた小指が、じり、と疼く。
たすけて。呟いたおれの声は、誰にも届かず空気に溶けて消えていった。
初日のみ3話公開しています。




