第9話 なんかさ、自分ちみたいで
ドアが閉まった音が、まだ耳の奥に残っていた。
ローテーブルのコップを、流しに運ぶ。二つ。
タブレットは片付けた。
(……静かだな)
静かなのに、昨夜までの賑やかさが、まだ耳の奥に残っていた。
——徹夜明けの疲れが、急に身体に落ちてくる。
冷蔵庫を開けかけて、やめた。
俺は、そのまま寝ることにした。
◇ ◇ ◇
数日が経った。
和太郎さんの配信日。夕方、スマホが震えた。
『今日、ちょっと早めに行っていい? コンビニでよければ晩ごはん買ってくけど。リクエストある?』
和太郎さんからのDMだった。
『全然いいですよ! パスタ系があれば、それでお願いします』
しばらくして、チャイムが鳴った。
「おじゃましまーす」
薄手のロング丈プルオーバーにレギンス。手にはコンビニの袋。パスタに、中華丼。いつものプリンと炭酸水。
「リクエスト通り、パスタね。季節の和風のやつ」
「ありがとうございます」
迷いのない足取りで、和太郎さんがリビングに上がった。
洗面所の歯ブラシは、二本並んだまま。戸棚の中のコップは、定位置にある。
(……前からあったっけ)
自分で買った記憶が、曖昧だった。歯ブラシの予備も、コップも、いつの間にか「そこにある」状態になっていた。
「紗雪ちゃん?」
「あ、いえ。お茶、出しますね」
冷蔵庫からお茶を出す。コップを二つ並べるのは、もう手癖だった。
ソファに並んで、配信前の晩ごはんにした。
和太郎さんは中華丼の蓋を開けて、割り箸を割った。
ソファの上で胡座をかいて、かきこんでいる。
ロング丈のプルオーバーが膝まで被さって、すっぽり収まっていた。
タブレットで誰かのアーカイブを流しながら。
俺も和風パスタのフィルムを剥がした。大葉の匂いがふわっときた。
——そうだ。
「そういえば」
つい、口が動いていた。
「この前言ってた弟さんって、どんな感じの人なんですか」
和太郎さんが、ふと目を瞬かせた。
「あれ、覚えてたんだ」
お茶に視線を落とした。
「なんとなく気になって」
「ふーん」
和太郎さんは、少しだけ笑って、お茶を置いた。
「弟ねぇ。けっこう年離れててね、まだ大学生」
「あ、そうなんですね」
「今はあんまり会わないかな。受験のとき何週間かうちに泊まりに来てたけど、それっきり」
声の調子が、いつもより柔らかかった。和太郎の豪快さでもない、いたずらっ子のからかいでもない。——姉としての顔だった。
「最近ね、ゲーム配信にハマっちゃってて。自分もやりたいって——あ、VTuberじゃなくて顔出しの方ね。好きな配信者がいるらしくて」
「あ、顔出し」
「大学入ってから、そっち系にハマったみたいでね」
「そうなんですね」
「配信やりたいって言われたとき、無駄にドキッとしちゃってさ」
和太郎さんが、困ったように笑った。
「……わかります。身内にそれ言われたら焦りますよね」
話題が、自然に広がっていく。
「紗雪ちゃんとこ、最近コメント増えたよね。新しい人も来てない?」
「あ、わかります? 常連さんが話を振ってくれるおかげで、新規の人も書き込みやすくなったみたいで」
「いいねぇ。うちはね、古株がもう勝手に仕切ってくれてるから楽なんだけどさ」
「和太郎さんのところ、コメント欄の空気いいですよね。ツッコミの間とか絶妙で」
「あれは常連さんの芸だよ。私が育てたわけじゃない」
タブレットの画面が切り替わって、誰かのVR配信が映った。薄暗い西洋の城の中を歩いている。壁に蝋燭が並んでいた。
「あっ、これ。ムチで敵倒すやつに似てない?」
「ああ、階段で落とされるやつ」
「それそれ! 子供の頃めっちゃやってた。思い出すなぁ」
遠くを見るような目で、お茶をすすった。
(子どもの頃の和太郎さん、どんなだったんだろう)
和太郎さんが、お茶のコップを両手で包んで、ふっと息をついた。
「なんかさー」
「はい?」
「自分ちみたいに落ち着くな、ここ」
——っ。
(……ああ、いや)
曖昧に笑い返して、お茶をすする。
——この部屋に越してきた日の、何もなかった景色がよぎった。
和太郎さんは何も気づかずに、画面を見ている。
「さ、そろそろ配信の準備しよっか」
立ち上がって、ぐっと伸びをした。
「——よっしゃ、今日もいくかぁ!」
和太郎の呼吸だった。
◇ ◇ ◇
配信が終わって、和太郎さんが帰っていった。
ドアが閉まった。
——静かだ。
ローテーブルのコップを、流しに運ぶ。
洗面所の歯ブラシが、二本並んでいる。
——どの動作にも、和太郎さんの痕跡があった。
(……いつのまに、こんなになったんだろう)
口から零れそうになった言葉を、飲み込んだ。
いつもの静けさのはずなのに、今日は落ち着かなかった。
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