第10話 積めば積むほど愛着湧くやつ
「来月から繁忙期なんだよね」
配信前の準備をしながら、和太郎さんがぽつりと言った。
ゲーミングノートを開いて、配信ソフトの設定を確認している。
いつもの手つき。
「繁忙期、ですか」
和太郎さんの仕事。
小さな会社で、展覧会グッズの企画と、ショップ運営をしているらしい。
ちゃんと聞くのは初めてだった。
「繁忙期自体は毎年あるんだけどね。今年はちょっと任されること増えちゃって」
眉尻は下がっているのに、口元だけ少し嬉しそうだった。
「展覧会の開幕前がいっちばんヤバくて。グッズの納品とかショップ設営とか——土日も出なきゃいけないし」
「早くて20時退社かな。遅いと23時。流石にそこまでいったら翌日のことしか考えらんないけど」
「……きついですね」
「まあ仕方ないよ。配信はちょっとお休み増えるかも」
何でもないように言って、画面をスクロールしている。
「止めたくはないんだけどね。せっかく最近、調子いいし」
……和太郎さんの地力と、この防音室。
その両方があって、今の調子がある。言葉にはしなかった。
「でもさすがに毎回は無理だから、今日リスナーに言おうと思って。しばらく不定期になりますって」
「——そうですか」
(和太郎さんの配信が、減る)
和太郎さんは配信ソフトに向き直ったまま、コーヒーに手を伸ばした。
「それにさ、最近あっちの部屋ほとんど寝に帰るだけだし。繁忙期はそういう日増えるから、ちょっとさみしいなって」
笑っていた。でも、目がどこか遠かった。
「よし、準備おっけー。行ってくるね」
和太郎さんが防音室に入った。
俺はタブレットで配信画面を開いた。
◇ ◇ ◇
20時。和太郎の配信が始まった。
『待たせたなっ! 昭和の良心、昭 和太郎だ! 今夜も20時! 全員集合だぜっ!』
おじさんの間合い。息遣いと抑揚だけで、喋りがおじさんになる。
コメント欄が流れ始める。いつもの常連に混じって——
『最近の和太郎さん声の通りやばくない?』
『わかる 先月あたりから明らかに変わった』
『環境変えた? 音がクリアになってる気がする』
——俺の耳が、反応した。
声を6割に殺していた和太郎さんが、防音室で全力を出せるようになった。
俺もずっと聞いていた、この変化を。
リスナーの耳が拾ってくれたのが、少し誇らしい。
コメント欄に、ちとせさんの名前が見えた。
『ちとせ:和太郎さん最近すごくいいよね~。なんか余裕がある感じ?』
——あのときVRで言ってた言葉と、同じだ。今度はコメント欄で、みんなの目の前で。
『おっ、ちとせちゃんありがとよ~。マイクの位置ちょっと変えたんだ。それだけだぜ?』
さらっと流して、話題が変わった。今日は90年代のハード周辺機器。
『今日はな、あの伝説のタワーの話するぞ。知ってるか?』
和太郎さんの声を聞きながら、これまでのことを、ぼんやり考えていた。
『CDユニットの上に本体載せて——』
——音声機材を貸したのが、最初だった。
『さらに拡張ユニット突っ込んで——』
——防音室。終電。いろんな話をした。
『コンバーターまで噛ませる! もうね、見た目が完全にバカ。設計思想バラバラのものを積んでんだからな』
——これから、どうなるんだろう。
『でもな——動くんだよ、これが』
コメント欄が笑いで流れた。
『積めば積むほど愛着湧くやつ』
『このメーカーだからこそ成立する無茶w』
『だろぉ? 無茶なのにちゃんと噛み合ってるとさ、なんか愛しくなるんだよなぁ!』
——手が、止まった。
なんだろう。今の、妙に刺さった。
常連がツッコミを入れて、新規の人もコメントし始めて。
和太郎さんの声が、楽しそうだった。心底、楽しそうだった。
——配信の終盤。
『あ、そうだ。最後にちょっとお知らせがあるんだがよ——』
『何何!?』
『新企画?』
『和太郎さんのお知らせ楽しみ!』
コメント欄が沸く。
和太郎さんの声が——一瞬だけ、止まった。
俺も、息を止めていた。
『……あー、やっぱ次にすっか! 今日はこのまま終わるぞ!』
『えーっ』
『じらすねー和太郎さんw』
『次回予告! 気になる!』
『わはは、悪い悪い。んじゃ今日はここまでだ! みんなありがとな! また次の配信で会おうぜ。チャンネル登録、高評価よろしくな!』
配信が終わった。
防音室のドアが開いた。
「……言えなかった」
小さな声だった。
さっきまであんな声を出していた人とは思えないくらい、肩が小さくすぼんでいた。
◇ ◇ ◇
冷たいお茶を出した。配信後の、いつもの。
「……あそこで言わなくてよかったと思いますよ。あの空気で言ったら、和太郎さんが一番つらいじゃないですか」
少し間があった。
「……ありがと」
和太郎さんがコップを受け取った。結露で指が濡れる。
防音室は空調を切って配信するから、5月はもう暑い。
お茶を一口飲んでから、ぽつりと言った。
「盛り上がってるのにさ、水差せないじゃんね。声のこと言ってもらえて——嬉しかったし」
——さっきの配信のことだ。タブレット越しに、ずっと見ていた。
リスナーが音質を褒めるのも、ちとせさんが「いいよね」と言うのも、和太郎さんが嬉しそうに笑うのも。
お知らせを飲み込んだ瞬間も。
全部、見ていた。
——何か、できることはないか。
和太郎さんのコップに、水滴がゆっくり伝っていく。
「毎回20時は無理でも、できる日はありますよ」
和太郎さんが顔を上げた。
「……え?」
「少し遅くなる日だけ、開始時間ずらすとか。来れる日だけでも使ってください」
「……でも、遅くなると帰るのしんどいし。紗雪ちゃんの配信もあるし」
「そこは上手く調整しましょう。紗雪の配信予定は多少融通も効くので大丈夫です」
「そうは言ってもなぁ……ん?……いっそ、ここから職場通った方が早い?」
——それだ。
「……あ、ごめん。今の、さすがに巻き込みすぎ――」
和太郎さんの言葉を遮るように言った。
「部屋は分けられますし、問題ないと思います」
——和太郎さんの目が、一瞬だけ大きくなった。
伸びかけた手が、行き場をなくしたみたいに宙で止まる。
「……え」
「繁忙期の間だけ、お試しで。そうしましょうか」
自分でも驚くくらい、自然に出た。
配信と生活の問題を、最短距離で解決しただけだ。
——なのに、一瞬、何かが引っかかった。
思わず、目をそらした。
(……和太郎さんの配信が止まる方が、問題だ)
タブレットを引き寄せた。地図アプリを開く。
「職場、ここですよね」
「うん」
「和太郎さんの部屋が、ここ」
「うん」
「うち、この間なんですよ」
「……ほんとだ」
和太郎さんが身を乗り出して画面を覗き込んだ。肩が触れそうな距離。
俺が経路をタップすると、和太郎さんの指も画面に伸びてきて「ここ乗り換え」と駅をなぞった。指が交差する。
目が、真剣だった。配信のときとは違う、素の目。完全に、打ち合わせの顔だった。
「20時に出たら、20時半には着きますよね。配信を21時開始にずらすのはどうですか」
「……いける。できないよりずっといい」
「23時退社の日は配信なし。次の日もあるし、無理はしない」
「うん」
「じゃあ紗雪ちゃんの配信は?」
「スケジュールが被らないように調整すれば問題ないです。紗雪の方は融通ききますから」
和太郎さんが、タブレットから顔を上げた。
「……迷惑じゃない?」
和太郎さんが、少しだけ声のトーンを落とした。冗談ではなくなっていた。
「効率の問題ですし。生活リズムは……こっちで合わせます」
「遅い日は無理せず、配信できる日だけ回しましょう。荷物も最低限でいいです。必要になったらその都度考えれば」
和太郎さんが、じっとこちらを見ていた。
……なんだろう、この顔。眉が少し下がって、口が半開きのまま止まっている。
指先が落ち着かなさそうに、タブレットの縁を行ったり来たりしていた。
驚いているのか、困っているのか、どちらとも読めなかった。
——ふっと、和らいだ。
少しだけ、はにかんだ。
「じゃあ、お試しルームメイト……毎日、わたさゆシークレットだね」
タブレットの地図が、まだ二人の間にある。職場と、うちと、水野さんの部屋が、一直線に並んでいる。
◇ ◇ ◇
お試しが決まった後も、何も変わらなかった。
いつものお茶。いつもの距離。
和太郎さんはソファで足を投げ出して、さっきの地図をスクロールしている。
決まる前と、決まった後が、同じ景色だった。
「——あ、やば」
和太郎さんが急に顔を上げた。時計を見て立ち上がる。
「終電!」
バタバタと玄関に駆けていった。靴を引っかけて、ドアノブに手をかける。
「急いで帰って、明日着替えとか持ってくるね!」
「……はい」
「じゃ、明日な! うぉお!」
和太郎モードの声だった。
ドアが閉まった。
——と思ったら、開いた。和太郎さんが顔だけ覗かせる。
「……ありがと」
小さな声だった。和太郎じゃない、素の声。
ドアが、もう一度閉まった。
——静かだ。
ローテーブルにコップが二つ。タブレットが、まだ地図を映している。
玄関に、和太郎さんのスリッパが揃えてある。
タブレットの地図を閉じた。画面が暗くなる。
あの終電を逃した夜も、ドアが閉まって、こうなった。
「いない方が落ち着かない」と思った、あの夜も。
同じ静けさのはずだった。
——でも、違う。
この静けさは、何かが減った音じゃなかった。




