第39話 今夜は寝かせねえぞ
「その前にシャワー! 汗やばいから!」
コンビニ袋をテーブルに置いて、アキラさんが洗面所に駆け込んでいった。
袋の中身を出した。チューハイが四本。柿ピーと、チーズ鱈と、枝豆。
……完璧なラインナップだった。
シャワーの音が聞こえている。グラスを二つ出して、氷を入れた。
◇ ◇ ◇
「おまたせ!」
髪を下ろして、キャミソールにショートパンツ。シャワー上がりの肩が少し赤い。
さっきまでの仕事着とは別人だった。
「かんぱーい」
「おつかれさま」
グラスにチューハイを注いで、合わせた。かちん、と氷が鳴った。
——いい音だ。
つまみを開けて、枝豆をつまみながら。展示会の話になった。
「今日、なんかすごかったね」
「うん。すごかった」
「和太郎ブース、思ったより人来てくれてさ。ありがたかったなぁ」
「POPも評判よかったよ。写真撮ってる人何人もいた」
「ほんとに? もー、昼にも聞いたけど何回でも嬉しい」
アキラさんがグラスを一口傾けて、ふっと笑った。
「あとね、田所さんが一次会の終わりにウインクしてきたの」
「……ウインク?」
「『今日はもう帰りな』って。なんでウインク? 意味わかんない」
「……さあ」
二人で首をかしげた。
「それはそうと。展示会終わったけど、これからどうする?」
「どうするって?」
「配信とか。紗雪ちゃんも、なんかやりたいことあるんじゃない?」
「……まあ、ちょっと考えてる。VRゾーン見て、なんか……ああいうのも出てみたいなって」
「いいじゃん! やろうやろう。コラボもまたしよ」
チューハイが進む。二本目を開けた。
窓の外は暗い。エアコンの音。
柿ピーの袋に同時に手を伸ばして、指が触れた。
引きかけた。アキラさんも引きかけた。
また同時に手を入れた。指が触れたまま、一掴みずつ取った。
「えへへ……」
アキラさんが微かに笑って、柿ピーのスナックを口に運ぶ。俺はピーナッツを口に運ぶ。
「こういう、気を使わない飲み方っていいよねぇ。会社の打ち上げも楽しいけど、こっちのが楽しい」
……うん。全然いい。
三本目を開けた。アキラさんの頬がほんのり赤くなっている。
俺も、たぶん同じくらい。
ほろ酔い。ちょうどいい。頭はちゃんとしてる。ただ、肩の力が全部抜けている。
「はぁ~~~……昴さん好きぃ」
アキラさんの声。力の抜けた、柔らかい声。グラスにチューハイを注ぎながらの軽い声。
「……うん。俺も」
ただ、挨拶を返すみたいに返した。自分の声が、やけに静かに聞こえた。
……。
グラスに注ぎ足そうとしていたアキラさんの缶が、止まっていた。
「…………え?」
「え?」
「……昴さん、今なんて?」
頬が赤い。酔いだけじゃない。たぶん、俺も。
なんで言ったのか、わからない。ただ口から出た。嘘じゃなかった。
「……俺も、好き」
「…………うん」
しばらく、二人とも動けなかった。
エアコンの音だけが鳴っている。グラスの氷が、かすかに溶けている。
◇ ◇ ◇
「…………あー!! だめ! 必須栄養素足りない!! ちょっと吸わせて!!」
——アキラさんが先に動いた。
ソファの上で、首元に顔を埋めてくる。くん、と嗅がれた。
あの夜と同じ動き。でも今夜は目がしっかり開いている。
「ちょっ、シャワーまだなんだけど。くさくない?」
「これがいいの。熟成された昴さん」
「……熟成って」
「あ゛~~~これこれ! くぅう! 生き返るぜぇ!」
和太郎の声だった。この人は本当に、どんな場面でもこれをやる。
……でも、嗅ぎ方が変わってきた。
首元から、鎖骨のあたりに。Tシャツの襟ぐりに沿って、鼻先がゆっくり移動する。
あの夜と同じ動線。でも——ずっと丁寧で、確かめるように。
息が、だんだん荒くなっていく。ふう、ふう、と。肌に当たる呼吸が熱い。
「んぅ~~紗雪ちゃん、たまんねぇなぁ」
——まだ和太郎のまま。おじさんの調子で鼻をすりつけてくる。
「ちょっ、和太郎さんっ……」
——自分の声が、妙に高かった。情けない声だったと気づき、顔が一気に熱くなる。
「……今の、ちょっと紗雪ちゃんぽかった」
「…………」
「紗雪ちゃんもだいすきだぞぉ」
和太郎のまま。おじさんが美少女に好き好き言っている絵面。
「……それ、事案ですよぉ」
「愛があれば関係ねぇ!」
「……ぷっ」
「やばい、我ながらやばい。あはははは! もう事案でよくない?」
「よくない、よくない」
——二人で、笑った。声を上げて。ソファの上で崩れるように。
気づいたら、二人ともソファに寝そべりかけていた。
アキラさんの頭が肩のあたりにあって、俺の腕がいつの間にかアキラさんの背中に回っている。
笑いが収まっていく。息だけが聞こえている。
背中に回した腕に、少しだけ力を込めた。
アキラさんが、顔を上げた。
「……ねえ」
声が素に戻っていた。視線をそらして、小さく。
「……おふとん、いこ?」
◇ ◇ ◇
並べた二つの布団。今夜は、大きな一つの布団として使っている。
電気を消した。
暗闇の中で、アキラさんが上からのしかかってきた。
下から、見上げる形になった。
「ここで問題。わたさゆシークレット、なんで"わた"が先かわかる?」
「……なんで?」
「先に来る方が、攻だから」
「それBLじゃないですか……」
「細かいことはどうでもいいの」
笑い声が近い。息がかかる距離。
「——今夜は寝かせねえぞ」
和太郎のボイスで言い直す。がっはっは、と低く笑う。
——声が、変わった。
耳元に、唇が近づいてくる。
「…………だいすき」
知らない声だった。
心臓が跳ねた。耳の奥が熱い。
和太郎でもない。いつものアキラさんでもない。
少し芝居がかった、甘くて、柔らかい声。
どこかで聞いたことがあるような——ないような。
そして。
「……えへへ」
——もう、どの皮も被っていなかった。
ただ嬉しそうに笑っている。演技じゃない。和太郎でも、さっきの声でもない。
アキラさんだった。全部脱いだ、アキラさん。
——手が動いた。
アキラさんの両肩に触れた。掴んだ。
そのまま——布団の余っている方に、ころんと転がした。
横向き。向かい合う形。両肩はまだ掴んだまま。
「え?」
暗闇の中で、目が合った。近い。鼻先が触れそうなくらい。
一拍。
そこからさらに、もう半回転。
アキラさんを潰さないように。丁寧に。ゆっくり。
上から、見下ろす形になった。
「こちらも散々、モヤモヤしてたんで」
「……」
「たまには」
「——あれ? え? ……これ、私が寝かされないやつ?」
「……」
無言で、顔を近づける。
「あ」
——。
長い、長い夜になった。




