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第37話 これでよければ

 あれから二週間。


 アキラさんは日に日に忙しくなった。帰りが遅い日が増えた。


 配信は頻度を落としながらも続けている。


 会場の設営計画が具体化し、ポスターの色校が出て、当日のオペレーションを詰める会議が毎日入っているらしい。


 俺の方は、紗雪の配信をちょいちょいやりつつ、仕事をして、ごはんを作って、アキラさんの分をラップして冷蔵庫に入れている。


 展示の素材はとっくに渡してある。たまに頼まれたことを手伝う。


 でも基本的にはそれだけだった。


 帰りを、待っている。


 ——待っている、という言い方は正しくない気がした。


 でも他に合う言葉が見つからなかった。


 八月初旬の夕暮れ。窓を開けると蝉の声が入ってくる。


 リビングのテーブルにアキラさんのマグカップが置きっぱなしになっている。


 今朝、慌てて出ていったから洗う暇がなかったんだろう。


 スマホを見た。LINEが一件。


『今日も遅くなる〜ごめんね! ごはんあったら食べといて!』


 ——分かっている。忙しいのは当然だ。応援したい。嬉しいことだと思う。


 分かっているのに、部屋が静かだった。


◇ ◇ ◇


 玄関のドアが開いたのは十時を過ぎていた。


「ただいまー……」


 いつもより声が小さい。スリッパの音も遅い。


「おかえり」


 アキラさんがリビングに入ってきた。グレーのリネンシャツに紺のワイドパンツ。


 髪がひとつに束ねてあって、後れ毛が首に貼りついている。暑い中を歩いてきたんだろう。


 俺の顔を見て——苦笑した。


「……ただいま。ほんとにただいまだ。訳すとリアル・ジャスト・ナウ?」


「……おかえり。ごはん食べた?」


「……食べてない」


「作り置きあるから温めるよ。豚しゃぶと、なすの煮浸し」


「……天才。養って」


 ソファに座り込んだ。靴下を脱いで足を投げ出す。力が抜けている。


 冷蔵庫からおかずを出して、レンジに入れた。チンと鳴る間に麦茶を注いだ。


「ありがと……」


 食べ始めた。箸が遅い。疲れているのに、ちゃんと「おいしい」と言った。


(すばる)さん、今日何してたの?」


「いつも通り。仕事して、紗雪の配信ちょっとやって」


「あ、配信あったの? 見たかったなー。アーカイブ残してある?」


「勿論、残してある」


「あとで見る……」


 目が半分閉じている。箸を動かしながらうとうとしかけている。


「……寝た方がいいんじゃ」


「んー……もうちょっと起きてる……」


 起きていたいらしい。目をこすりながら、今日の出来事を話し始めた。


「ポスター、三回やり直しになってさ」


「三回」


「でもね、最終版めちゃくちゃ良くって。和太郎(わたろう)ブースの案内ポスター、実機の写真がどーんと載ってるの。ハイパーナゲットさんが貸してくれたやつ」


「……見たい」


「来たら見れるよ。あ、そうだ——会場のレイアウト変わったんだ。ハイパーナゲットさんのコーナーが和太郎ブースの真横になったの。前は通路挟んでたんだけど」


「それは、いいな」


「でしょ? 田所さんが交渉してくれたの」


 楽しそうに話している。疲れているのに話したがる。この時間が、この人にとって何なのか。


 ——分かっている。分かっているんだ、頭では。


「あとね、当日の動線がまだ決まりきってなくて——」


 箸が止まった。目が完全に閉じかけている。


「……寝なよ」


「……うん」


 素直だった。食器をシンクに置いた。


 食器を洗った。なすの煮浸しが少し残っている。ラップをかけて冷蔵庫に戻した。


 リビングに戻ると、アキラさんがソファに沈み込んでいた。


 足を投げ出して、クッションを抱えている。


「……まだ足りない」


「……足りない? おかわりする?」


「ごはんじゃなくて」


 怪訝に思いながら、隣に座った。


 ——瞬間、倒れ込んできた。半分眠ったまま、肩のあたりに顔を埋めてくる。


 くん、と。首元を嗅がれた。


「……何してるの」


「ひっしゅえいようその、ほきゅう……」


「…………え?」


「必須栄養素の……補給……」


「……栄養素?」


 もう一回嗅いだ。鼻先が首筋に触れる。くすぐったい。


「あ゛~~~これこれ! 生き返るなぁ!」


 和太郎の間合いだった。


「……昴さんの匂いも、好きなの」


 今度は、素の声だった。


「……」


「今まで言ってなかったけど。フェロモン?」


「…………」


「あっ! 身体目当てとかじゃないからね!!」


 ——噴き出した。


 声に出して笑った。腹が震えた。アキラさんも笑っている。肩越しに振動が伝わってくる。


「……これでよければ、いくらでも」


 軽く言った。そのつもりだった。


 アキラさんが黙った。


 一秒。二秒。肩にもたれたまま、呼吸だけが聞こえる。


「……じゃあ遠慮なく」


 いたずらっぽく笑った気配がした。


 また、くんと嗅いだ。首元から鎖骨のあたりに鼻先が移動する。Tシャツの襟ぐりに沿うように。


 ——近い。


 顔が上がってきた。顎のライン、頬のあたり。息が肌に当たる。


 さっきまでの、眠そうな呼吸じゃない。


 次第に呼吸が速くなっていく。


 少し走ったあとみたいな、浅くて速い息。肩が小さく上下している。


 指先が、Tシャツの胸元をつまんだ。引っ張るでもなく、離すでもなく。ただ掴んでいる。


「昴さん、もう……」


 体重が、じわりとかかってきた。もたれていた肩から、胸のほうに。


 ——息を、呑んだ。


 心臓が跳ねた。アキラさんの顔だけが近い。


 身体が傾いてくる。このまま受け止めるのか。押し返すのか。


 ——頭が、真っ白になった。


 気づいたら手が動いていた。アキラさんの肩に触れていた。引き寄せようと——


 ……すぅ。


 ——寝息。


 手が、止まった。


 アキラさんの頭が、俺の肩に落ちていた。完全に、落ちていた。体重が預けられている。


 伸ばしかけた手を、静かに引いた。


 肩に、まだ息がかかっている。


 心臓がうるさい。顔が熱い。身体の真ん中あたりが、どうしようもなく落ち着かない。


 ——寝てる相手に、どうしろっていうんだ。


 呼吸を整えようとした。整わない。鎖骨のあたりに鼻先が触れた感触が、まだ残っている。


 ……しばらく、そのまま動けなかった。


 アキラさんの寝息が、ゆっくりとリビングを満たしていく。規則的で、深くて、安心しきった呼吸。


 ——匂い。


 和太郎を支える人は、もうたくさんいる。


 会社が動いて、コラボが決まって、ファンが応援して。


 俺にしかできないことなんて、そうはない。


 なのに——この匂いだけは、取りに来た。


 こんな単純なもの。でも——俺にしかない。


(……そんなんで、良かったのか)


 胸のあたりが、ふっと軽くなった。身体はまだ熱いのに、胸だけが軽い。


◇ ◇ ◇


 アキラさんを起こさないように、ソファから腕を回した。


 膝の裏と背中に手を入れて、持ち上げた。——軽い。ちゃんとお昼食べてるのか。


 配信部屋の奥、布団が二枚並んでいる。いつもの配置。


 ゆっくりと、敷布団の上に下ろした。


 掛け布団をかけるとき、近かった。アキラさんの寝顔が、真下にある。


 後れ毛が頬に貼りついたままだった。


 指が伸びた。髪を払おうとして——やめた。


 代わりに、掛け布団の端を整えた。


 自分の布団に入った。


 和太郎の重大発表配信の夜は眠れなかった。


 紗雪(さゆき)として祝福した自分と、もやっとした気分を抱えた自分の間で、ずっと天井を見ていた。


 今夜も眠れない。でも——理由が、全然違う。


 展示会まで、あと十日ほど。


 ——何か、できることあるかな。


 浮かんだのはそれだけだった。技術の話じゃない。素材の話でもない。


 ただ、あの人の一番いい日を、一番近くで見たい。


 ……いや、見たいじゃなくて。


 見届けたい、のかもしれない。


 目を閉じた。


 ——閉じたのに、見える。


 がっはっは、と笑う和太郎。スマホの光に照らされた、れとろの笑顔。


 初めて会った日、片目をぱちりと閉じた顔。


「うぇー」と嫌いなものを食べた子供みたいな渋い顔。


 片足パンプスで「まだ余裕あった」と苦笑いした朝。はにかんだ顔。


 配信部屋から出てきた満面の笑み。


 そして——「もう」と言いかけた瞬間の、潤んだ瞳。


 あれだけは、どの顔にも似ていなかった。


 全部、同じ人。


 さっきまで、俺の肩で眠っていた人。


 ……眠れるわけがなかった。


 ふと、自分のTシャツの襟を引っ張って、嗅いでみた。


 ——くさいのか? 俺。


 アキラさんの匂いがした。


 ……なおさら眠れなかった。


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