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第36話 紗雪ちゃん、ありがとな


 玄関のドアが開いた。


「ただいまー! (すばる)さん昴さん、聞いてよ」


 靴を蹴るように脱ぐ音。スリッパがぱたぱた近づいてくる。


「会場の近くにあるレトロゲーショップ、ハイパーナゲットさんとのコラボが正式に決まった!」


「……おお」


「実機の貸し出しオッケー、買取販売コーナーも隣に出してくれるって。和太郎(わたろう)ブースの横に」


 アキラさんがソファにどさっと座った。カーキのブラウスの袖が肘までまくってある。


 額に汗が光っている。七月の帰り道は、もう暑い。


「で、今日それの最終打ち合わせ行ったんだけどさ」


「うん」


「ハイパーナゲットの店長さんがね、めちゃくちゃ和太郎チャンネル見てくれてて。『和太郎さんのレトロゲー愛はホンモノですね、ぜひご一緒したかった』って」


「……へぇ」


「で、私はにこにこしながら『ありがとうございます、和太郎さんにお伝えしますね』って返して」


「…………伝える相手、自分じゃん」


「自分なの! 帰社してからさ、報告書に『和太郎氏側との連携は円滑に進行中』って書いたの。和太郎氏側、私なんだけど!」


 笑った。声に出して笑った。


「あとね、田所さんが横で必死に真顔キープしてるの。だめだよ田所さん、目が笑ってるよって」


「……それは、きついな」


「きついの! 会議で誰かが和太郎さんの配信数字の話始めると、田所さんがこう——ちらっと目配せしてきてさ。目配せしないで! 余計こわい!」


 アキラさんが膝を抱えて笑っている。今日一日の疲れと興奮が全部まぜこぜになった顔だった。


 ——面白い。本当に面白い。


 でも、ハイパーナゲットとの折衝も、会議の立ち回りも、全部アキラさんが一人で回している。制作チームが素材を繋いでくれるし、権利関係は法務が見る。


 俺が選んだアーカイブリストは、ちゃんと採用された。でもそれは先週の話だ。もう、俺のやることは終わっている。


「あ、そうだ。今日配信で発表しちゃうから。重大発表って煽っちゃった」


「……今日?」


「うん。鉄は熱いうちに。見ててね」


 立ち上がって、配信部屋に向かっていった。ドアが閉まる。リビングに一人。


 麦茶のグラスに汗が滴っている。エアコンの風が、さっきアキラさんが座っていた場所を冷やしていく。


◇ ◇ ◇


 ノートPCで和太郎チャンネルを開いた。配信開始の通知が来ている。


 画面に和太郎のアバターが映った。レトロゲーナイトのいつものセット。がっはっはの笑い声。コメント欄がぽつぽつ動き始める。


 いつもの雑談。今日遊んだゲームの話。コメント欄のツッコミに和太郎が返す。


 ——さて。和太郎の声が一段落ちた。


『今日は皆さんにお知らせがありまして』


『!?』

『なになに』

『引退とかじゃないよね!?』

『みやぢー:ドキドキしますね〜何だろう』


『いやいや引退じゃねぇよ。むしろ逆だ。——八月に、秋葉原で開催されるゲーム文化展示会に参加することになったぜぇ!』


 コメント欄が一気に流れた。


『パルサー:えええええ!!行きます!!絶対行きます!!!』

『マジ!? おめでとう!!』

『レトロゲーナイト リアル版じゃん』

『みやぢー:和太郎さんの展示……人間国宝ついに国に認められた……?』


『国じゃねえって。しかもだ。秋葉原のレトロゲーショップ、ハイパーナゲットさんとのコラボも決定。実機触れるぞ。買取販売コーナーも横に出る』


『ガチすぎる』

『ハイパーナゲット知ってる!あの店すごいよ』

『みやぢー:実機プレイ可能って、令和に実機触れる機会ほんと貴重ですよ』

『パルサー:和太郎さんのブース、絶対混む!前の方で待機します!!』


 画面の中で、和太郎が嬉しそうに笑っている。


『あと、ブースでは過去のアーカイブ映像も展示する予定だ。これまでコラボしてくれたみんなの映像も映したいんで、個別に許可取りに行くからよろしくな』


『全コラボ回見返す準備できてます!!』

『みやぢー:和太郎さんのコラボ回、全部再生リスト入れてますよ〜』


 ——指が動いた。紗雪(さゆき)のアカウントで、コメント欄に打ち込んだ。


『夜空紗雪:和太郎さんおめでとう〜!楽しみにしてるね!』


『おっ紗雪ちゃんきた』

『みやぢー:紗雪ちゃんお久しぶりです〜』


 和太郎がコメントを拾った。


『おお紗雪ちゃん! ありがとな! また対戦しようぜ!』


『ブラック紗雪また期待してますw』

『格ゲー回の再来頼む!!』

『パルサー:格ゲー回じっくり見返して大笑いしました!!あれ絶対外さないで!!』


『そうだなぁ、紗雪ちゃん頼むよ! あの回外すのは俺も惜しい』


 ——打った。


『夜空紗雪:……わかりました(しぶしぶ)』


『しぶしぶ許可が出たw』

『紗雪ちゃん優しいw』


 コメント欄が流れていく。次の話題に移っている。和太郎が展示のコンセプトを語り始めている。


 指をキーボードから離した。


 「しぶしぶ」は嘘じゃない。格ゲー回、あれはあれで恥ずかしい。


 でも本当に言いたいことは、そんな言葉じゃなかった。


 コメント欄では、みやぢーさんが場を回している。


 パルサーが興奮して連投している。みんな自分の名前で祝福している。


 ——俺だけが、紗雪の名前で書いている。


◇ ◇ ◇


 配信部屋のドアが開いた。


「おつかれー! いい配信だった!」


 アキラさんがリビングに出て近づいてきた。頬が少し赤い。配信の興奮がまだ残っている。


「紗雪ちゃんコメントありがと!」


 ——至近距離で、満面の笑み。


 それだけ。理由は言わない。ただ嬉しそうだった。


(……反則だろ)


「反応すごかったね。パルサーさんが絶対行くって」


「ね! みやぢーさんも人間国宝って言ってくれてたし。あ——おなかすいた。ごはんどうしよっか?」


「冷蔵庫にそうめん茹でて入れてあるよ」


「えっ、最高。昴さん最高」


 台所に向かうアキラさんの背中を見ていた。冷蔵庫を開けて、器を出して、つゆを注いでいる。


 鼻歌がかすかに聞こえる。知らない曲だった。


 笑顔の宛先が、わからなかった。


 紗雪のコメントが嬉しかったのか。俺がそうめんを作っていたのが嬉しかったのか。


 たぶん、全部同じなんだ。この人の中では。


◇ ◇ ◇


 夜。布団が二枚並んでいる。いつもの配置。


 電気を消した。


「……ごめんねぇ、勢いで決まっちゃったかな。格ゲー回上映」


「……いや。和太郎さんのブースが盛り上がるなら本望だし」


「ん」


 しばらく黙っていた。アキラさんの呼吸が少しだけ浅い。考え事をしている時の呼吸だった。


「……なんか、速いね。いろいろ」


「……速い?」


「コラボも決まって、発表もして、チームも動き始めて。嬉しいんだけど、なんか——」


 言いかけて、やめた。


 そのまま、黙った。呼吸が深くなっていく。今日一日の疲れが、一気に来たらしい。


 ——先に、眠った。


 暗闇の中で、寝息だけが聞こえている。


 そのとき、指が触れた。


 アキラさんの手が、布団の隙間を越えて伸びてきていた。眠ったまま、俺の手を掴んでいる。


 指は少しだけ冷たくて、でも力がある。寝ている人の手だとは思えないくらい、しっかりと。


 ——振りほどけなかった。


 天井を見ていた。


 さっき紗雪として「しぶしぶ」を打った指が、今アキラさんの掌の中にある。



 配信では、紗雪の言葉で祝福した。帰ってきたアキラさんには「本望だし」と返した。


 全部嘘じゃない。全部が本当でもない。


 手の中の温度だけが、確かだった。


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