第33話 直球でいいんじゃないかな
ソファの上で、アキラさんが固まっていた。
スマホを両手で持ったまま、DMの末尾を見つめている。
会社名は、さっき見た。その下の担当者名を、今、読んでいる。
「……これ、うちの上の人だ」
「……知ってる人?」
「知ってるも何も、直属の上司。この人に和太郎バレしたらもう——」
テーブルの上のコーヒーが、すっかり冷めていた。
「……PCでちゃんと読む」
アキラさんがソファから立ち上がって、配信部屋に向かった。
「あ——和太郎のDM見せるのは、昴さんいつも手伝ってくれてるし別にいいんだけどさ。うちの会社がどう絡んでるかとか、担当が誰とかは——」
「了解。そこはわかってる」
「うん。ごめんね、そこだけほんとに」
ゲーミングノートを開いて、パジャマのまま椅子に座った。
SNSを開く手つきが速い。
DMの本文が画面いっぱいに広がった。
「ねぇ、ちょっと来て。見てこれ」
画面を指さしている。覗き込んだ。肩が近い。
ゲーム文化展示会。会場は秋葉原UPX、個人VTuber数十名参加。
ジャンルはRPG、FPS、音ゲー、インディー、レトロゲーム。
各ジャンルの代表は企画側からの声掛けで、一般枠は公募。
「……これ、社内メールで回覧来てたやつだ。ここから会社の話になるけど——ほんとに内緒ね」
「もちろん。回覧来てたってことは、イベントの事自体は知ってた?」
「イベント自体はね。大元はイベント会社が仕切ってて、うちには企画協力と実務の一部が降りてきてるんだよ。プレスも前に出てた気がするけど、ちゃんとチェックしてなかった」
「……VTuber募集は?」
「聞いてない。上のほうだけで動いてたんだと思う」
アキラさんが小さくごくりと喉を鳴らした。
「……やば、これ普通に機密案件じゃん」と呟いて、でもすぐ画面に目を戻した。
背筋が少しだけ伸びた。機密案件。
自分がここにいていい話なのか、一瞬わからなくなる。
「和太郎さん宛てってことは……レトロゲー枠代表の声掛けですよね」
「……そういうことだね」
アキラさんが画面に顔を寄せた。指で文字を追うたびに、腕がぶつかる。
モニターの光が二人の顔を青白く照らしている。
朝なのに、カーテンを閉めたままだった。
「ねぇこれ見て。『昭 和太郎様のレトロゲーへの造詣と発信力に注目しております』って」
「……数字じゃなくて、中身で見てくれたんだなぁ」
「だよね。登録者数で言ったらうちなんか全然なのにさ——って、ちょっと待って。これ配信ちゃんと見たうえで声掛けてきてるよね」
「……造詣とか発信力とか書いてるし、そうだと思う」
「……上司が、和太郎の配信見てた?」
耳が赤くなっていた。
「がっはっは、とか言ってるの全部見られてたってこと……? うわぁ……」
しばらく両手で頬を押さえていたが、ふうっと息を吐いて画面に向き直った。
「……よし。それはそれとして」
アキラさんの指が画面をスクロールした。参加VTuberの枠組み。
大画面ステージ枠は有名どころの生配信と来場者参加大会。
中小規模枠はブース展示。
「大画面のほうはさすがに無理だけど、ブースならいけるよね。アーカイブ映像流して、推しゲーのPOP並べて……」
「……和太郎さんのコーナーが、リアルの会場にできるってことだ」
「そう! そういうこと!」
声が、少しずつ変わっていた。
「秋葉原UPX、あそこでかいんだよ。弟と昔イベント行ったことあってさ——いやそれはいいんだけど」
画面に目を戻した。展示ブースの概要。アーカイブ映像の上映。POP展示。物販もありらしい。小規模でも、自分のブースが持てる。
「和太郎で、レトロゲーの展示……」
いつかレトロゲーの展示やってみたい——あの夜の声が、耳の奥を掠めた。
「やばい。昴さん、これ——」
腕を掴まれた。
振り向くと、目が潤んでいた。笑っている。頬が赤い。
「ほんとに来た。ほんとに来たんだ」
もう片方の手で画面を指さしている。掴まれた腕に力がこもっている。
「でもさ——」
指が止まった。
DMの末尾。会社名。担当者名。
「……参加したら、会社バレするじゃん」
掴まれた腕の力が変わった。さっきまでの興奮じゃない。指が食い込んでいる。
「うちの会社の共催イベントに、自分がVTuberとして出るんだよ?」
「……落ち着いて。うまくやれば行けると思う」
「……え?」
「上役だけに話して、他のスタッフには普通の参加者として扱ってもらえばいいんじゃ?」
「……でも、当日は? 私スタッフ側で入るかもしれないのに、ブースにも和太郎がいるって——」
「スタッフとして現場に入るのと、和太郎のブースが出てるのは、別の話。知ってるのは上役だけ。他のスタッフには和太郎はただの参加者に見える」
「……見える、かなぁ。まあ権利関係は法務通せばいいし、報酬も会社経由にすれば筋は通る、か……」
アキラさんの呼吸が、少しだけ浅くなっている。でも指の力は、さっきより弱い。考えている顔だった。
「……声でバレない?」
「ブースに本人はいないでしょ。映像とPOPだけだし」
「あ、そうか。そうだよね……」
アキラさんの指が、まだ腕にある。
本人は気づいていない。
(……掴まれてる)
胸のあたりが変な感じだった。
整理しようとしている頭の裏で、何かが鳴っている。
「……昴さん、冷静だね」
「……まあ」
画面を見た。見たふりをした。
しばらく、二人でDMの条件を確認した。報酬。著作権。スケジュール。
「……八月中旬? 今から六週間しかないじゃん」
「……短いなあ」
「うぇー、前の企画展の繁忙期よりやばいかも。あの時は準備三ヶ月あったのに」
アキラさんが片手で髪をかき上げた。社会人の顔になっている。
「ブースの素材選びに映像編集でしょ、POP作って、権利関係の確認して——会社の仕事もあるのに」
「……和太郎さんの準備なら、俺も手伝えるから」
「……もしお願いできるなら、頼っていい?」
「もちろん」
アキラさんの呼吸が、少しずつ落ち着いていくのがわかる。
忙しさの見積もりを始めたということは、もう気持ちが「やる」に傾いている。
「……ねぇ」
「うん」
「参加したい。でも嘘ついたままは嫌だし」
少しの間。
「——言う。自分で言う」
静かだった。でも、確定していた。
アキラさんが、画面じゃなくてこっちを見ていた。何か言おうとして、やめて、笑った。
「……ありがと。整理してくれて」
「どうってことないよ」
アキラさんの手が、ようやく腕から離れた。
指が離れた瞬間、腕がすうっと冷えた。掴まれていた場所だけが、まだ温かった。
窓の外で、ゴミ収集車の音が遠くに聞こえた。ずっとここにいた気がする。
◇ ◇ ◇
夜。布団が二枚並んでいる。昨日と同じ配置。
電気を消した。
隣からかさかさと音がしている。掛け布団の端を指でいじっているらしい。
寝返りを打った。戻った。また打った。
「……ねぇ、起きてる?」
「……起きてる」
「明日さ、なんて切り出そう。『あの、和太郎って私なんですけど』? いやそれ変だな」
「……直球でいいんじゃないかな」
「うぇー……。あ、でもさ、ボイチェンないから声は違うけど、笑い方とか喋りの間合いって一緒じゃん。バレる時はバレるよね」
「……まあ、配信ちゃんと見てる人ならわかるかも」
「あはは、想像したら面白くなってきた。上司の前でうっかり和太郎の間で笑っちゃうの……いや無理無理無理」
布団が擦れた。笑いながらゴロゴロと寝返りを繰り返している。
「……でもさ、嬉しいんだよね。和太郎でレトロゲーの展示って、ほんとに来たんだなって」
声の温度が変わった。さっきまで笑っていたのに、ちょっと弾んで、ちょっと震えている。
しばらく黙っていた。エアコンの音だけが続いている。
隣の布団で、指がまた掛け布団の端をいじっている。
かさ、かさ、と小さな音が暗闇に混じる。
「……昴さん以外に和太郎のこと話すの、明日が初めてだ」
小さい声だった。
胸の奥が、ちくりとした。
「……ちょっと、こわいかも」
「……」
返せなかった。「大丈夫」でも「頑張って」でもない言葉が要る気がして、見つからなかった。
しばらくして、呼吸が静かになった。指のかさかさも止まった。先に眠ったらしい。
天井の輪郭が、うっすら見えている。
腕が、まだ温かった。心臓が、まだおかしい。
目を閉じても消えない。泣きそうに笑った顔。髪をかき上げた横顔。暗闘の中の、小さな声。
全部違う顔なのに、全部同じところが鳴る。
顔が、熱かった。
その温度が冷めないまま、眠りに落ちた。




