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第34話 私の中にはおじさんが住んでいる(アキラ視点)

 私の中には、おじさんが住んでいる。


 住んでるけど、私がおじさんなわけじゃない。


 昨日の夜、私は布団の中で「ちょっと、こわいかも」と言った。


 私の中に住んでるおじさん――和太郎なら、笑い飛ばせたかもなのに。


 隣の布団から返事はなかった。起きてたのか寝てたのか、わからない。でもあの沈黙は、イヤな沈黙じゃなかった。


 朝、いつもよりずっと早く目が覚めた。時計を見ると、五時半。まだ全然早い。


 隣の布団で昴さんがまだ眠っている。寝顔は見慣れたはずなのに、今朝はなんだかちゃんと見てしまう。


 イタズラしちゃおうか。


 ——やめやめ。今日はそれどころじゃない。


 二度寝できる気がしない。このまま出勤しちゃお。


 起き上がって、静かに部屋を出た。顔を洗ってちゃちゃっとメイク、髪を整えて、カーキのジャケットを羽織った。


 玄関で靴を履きながら、LINEを開いた。


『今日早めに出るね。夜話す!』


 送信。既読はまだつかない。そりゃそうだ、まだ6時過ぎだもん。


◇ ◇ ◇


 電車の中で、手が冷たかった。


 七月の朝なのに、指先が冷えてる。車窓の外を住宅街が流れていく。


 流れていく景色に、脳内で髭のおじさんを走らせる。屋根から屋根へ、テンポよくジャンプ。


 それにしても冷房効きすぎ。カバンを身体の前に抱えて、中に手を入れた。


 指先がピンバッジに触れる。ドット絵のキャラクターピンバッジ。カバンの内側に忍ばせてる、誰にも見えないお守り。


 はあー。とつい、ため息が漏れる。


 ホームに降りた。改札を抜けて、会社までの道。


 いつもなら街の匂いがするのに、今日は何も入ってこない。


 パン屋の前を通っても、バターの焦げた匂いがしない。アスファルトの熱気も。鼻が詰まってるわけじゃない。


 ——うまくやれば行ける。


 昴さんの声が耳の奥に残っている。昨日、腕を掴んだまま聞いていた声。


 いつもそう。あの人が話し始めると、なんか大丈夫な気がしてくるんだよね。


 私の代わりに落ち着いてくれてるっていうか。ずるいよね、あれ。


 つい、昴さんの腕を掴んでたの、途中まで気づかなかった。気づいた後も離さなかったけど。


 ……離す理由がなかったっていうか。うん。そういうことにしておく。


 意外に筋肉質だった。


 思い出して、顔だけ熱くなる。あー……そういうとこだぞ。


 交差点で信号が変わった。足が止まる。


 自分の両腕を一瞬、ギュッと掴んだ。


 昨日の夜、布団の中で「無理無理無理」って笑ったのも私だ。今、その無理を実行しに行っている。笑えてきた。


 信号が青になった。歩き出す。足は動く。大丈夫。


「――よしっ」


 会社のビルが見えてきたけど、重要なことに今更気付いた。


「……まだ開いてないじゃん」


 ——早く着きすぎた。しょうがないので駅前のカフェで時間を潰すことにした。


 アイスコーヒーの氷が全部溶けるまで、スマホを握ったり離したりしていた。


 考えれば考えるほど怖くなるタイプだって、知ってるのに。だから早く出たんじゃんか。


◇ ◇ ◇


 始業時間。エレベーターで三階。フロアに出ると、いつもの蛍光灯の白い光。


 同僚が二人、共有スペースで何か話している。「おはようございます」。声が普通に出た。よしっ。


 自分の席に荷物を置いて、一回深呼吸。


 上司の田所さんの席を見る。いる。缶コーヒーの微糖を開けたところ。


「田所さん、少しお時間いいですか」


「いいよー。どうした?」


 小さい会議室に移動した。ドアを閉める。田所さんが缶を持ったまま椅子に座った。


 田所(たどころ) 祥子(しょうこ)。30代半ば、既婚。直属の上司。


 ショートカットに、いつもの柔らかい笑い方。話しやすい人なんだよね、田所さんは。


 でも今日はそこに甘えちゃだめだ。


 思い切って、切り出す。


「8月のゲーム展示会の件で、ご相談がありまして」


「ああ、あれね。そろそろチーム組むから、水野さんにも入ってもらおうと思ってたんだよ。忙しくなるけど、楽しみにしてて」


「その件で——えっと、SNSのDMで参加者の勧誘かけてますよね?」


 田所さんの手が止まった。


「……なんで知ってるの? まだ下ろしてないはずだけど」


「あの——私のSNSに来たんです」


「……水野さんのSNSに? 展示会の勧誘が?」


「はい」


 スマホを出した。和太郎のSNSの管理画面。DM受信トレイ。


 田所さんが画面を覗き込んだ。しばらく黙って見ている。画面と私の顔を、二回見比べた。


「…………えっと。つまり水野さん、VTuber関係者?」


「……はい」


「……まじで?」


「まじです」


 田所さんが缶コーヒーを一口飲んだ。情報を整理している顔。


「……もしかしてこのVTuberのマネージャーポジション? 実際に演じてるのは別の人? あ、彼氏とか? 最近引っ越したのってそれ関係? ——あ、ごめん、上司といえども踏み込みすぎか」


 耳が熱くなった。


(彼氏じゃ、ない)


 ——ないけど。ないけど、まだ。


「え、あ、そうじゃなくて」


「そっかー。最近水野さん活き活きしてたもんねぇ」


 にこにこしてる。完全に間違ってる。否定しなきゃ。なのに、うまく出てこない。


「……あの、彼氏じゃなくて。演じてるのも——私……でして」


「……え?」


(あきら) 和太郎(わたろう)って。私なんです」


 田所さんの動きが止まった。缶コーヒーを持ち上げかけた手が、中途半端な位置で停止している。


「……水野さんが、あの——おじさんの? あの『がっはっは!』の?」


「……はい」


「……いや。いや、ちょっと待って。だって声が全然——」


 信じてもらえてない。そりゃそうだよね。私だって逆なら信じない。


 言葉じゃ伝わんない。こういう時は——見せた方が早い。


 ふうっと息を吐いた。肩の力を変える。呼吸を深くする。腹の底から。


「——がっはっは! いやぁ、お世話になっておりますッ。昭 和太郎ですッ」


 会議室の窓がびりっと震えた。


 ボイチェンはないから、声の高さは全然違う。


 でもこれが私の和太郎だ。間合いも、笑い方も、呼吸も。


 田所さんの目が見開かれた。缶コーヒーがコトンとデスクに戻った。


 五秒。


「……今の、笑い方。配信で聞いたのと同じじゃん」


「……はい」


「…………ほんとに水野さんなんだ」


 田所さんが両手で自分の頬を押さえた。信じられない、でも信じるしかない、みたいな顔。


「ていうか——あっ。だからレトロゲーの切り口やたら詳しかったのか! いやー!繋がった!」


 田所さんが笑い出した。つられて、笑った。手がまだ少し震えている。でも肺が軽い。


 言えた。


「あの、お声がけいただけたこと自体はすごく嬉しくて。和太郎として、ぜひ参加したいなと思ってます」


「うんうん」


「仕事は疎かにしません。そこは絶対」


「わかってるよ。水野さんの仕事ぶりは見てるから」


「……ありがとうございます。それで、えっと——出演報酬とかのルートって、ややこしくないですか? 中の人がウチの所属なのに、外部報酬が発生するっていうか」


「あー、なるほどね。そこは私が調整するよ。会社経由の手当って形にすれば筋は通ると思う」


「助かります。あと——できるだけ他の人には内緒でお願いします。ほんとまじで、ここだけは」


 頭を下げて、手を合わせて拝む格好になった。


「もちろん。私と水野さんだけの話。安心して」


 肩が、すとんと落ちた。知らないうちに止めてた息が出た。


「頑張ってね、水野さん」


「……はい!」


「あ、でもさ、さっきの声ほんとにすごいね。あれにボイスチェンジャー使うんだ?」


「はい……ただ技術の半分は天然なんで、説明しろって言われても……」


「いいよいいよ、秘密のままで。いやぁ——うちの部署にVTuberがいたとは」


 田所さんが楽しそうに首を振っている。


「……あと、田所さん。入社したばかりの頃——ご迷惑おかけしたの、覚えてますか」


 田所さんの顔が少しだけ変わった。覚えてるよね。あの時期のこと。


 れとろの活動にのめり込み過ぎて失敗して、しばらく抜け殻みたいに仕事してた私を。


 れとろのことは、流石に言えない。喉の奥が、きゅっと閉じる。ここだけは。


「あの時みたいにはなりません。もう同じことはしないって、決めてるんで」


「……うん。水野さんがそう言うなら、信じるよ。あの頃と今じゃ全然違うもん」


 声が、あったかかった。


 立ち上がりかけた時、ふいにこっちを見た。


「……よろしくね、昭 和太郎さん」


 にっと笑っている。


「……はい」


 なんか、泣きそうになった。泣かなかったけど。


◇ ◇ ◇


 席に戻った。何食わぬ顔でPCを開く。


 メールが三件来ている。展示会とは関係ない、通常業務のやつ。


 返信を打ち始めた。指が震えて、バックスペースを何度も叩いた。


「水野さーん、お昼どうするー?」


 同僚の声。振り向いて、笑った。


「あ、今日はお弁当持ってきたから大丈夫」


 嘘。持ってきてない。でもこの顔のまま人とご飯食べるのは無理だった。


 一人で屋上のベンチに座って、コンビニのおにぎりを食べた。


 匂いが少し戻ってきてる。海苔の匂い。うっすら潮風の匂い。


 午後は普通に仕事した。したつもり。企画書の修正。発注先への確認メール。


 什器レイアウトの図面チェック。手は動く。頭も動く。


 ただ胸の奥にずっと「言えた」が居座ってて、そいつが時々ぐっと膨らむ。


 田所さんと廊下ですれ違った時、ぱちっとウインクされた。誰にも見えない角度で。


 咄嗟にサムズアップで返した。


 思わず吹き出しそうになった。


◇ ◇ ◇


 退勤。


 荷物をまとめて席を立った。田所さんの席の前を通る時、小さく会釈した。


 田所さんはにこっと笑って、何も言わなかった。


 駅までの道を歩いていて、気づいた。


 パン屋の匂いがする。夕方の、総菜パンの焦げたチーズ。


 朝は何も感じなかったのに、今ははっきり匂う。


 鼻が、戻ってる。


 信号待ちで、空を見上げた。夕焼けが建物の隙間から覗いている。


 ふっと笑った。言えた。やった。無理じゃなかった。


 電車に乗った。窓の外が赤い。座席に座って、息を吐いた。


 昴さんのことを考えていた。


 声じゃなくて——なんだろう。あの部屋の温度。コーヒーが落ちた時の匂い。


 キーボードを打つ音が聞こえる距離。隣にいる時の、何も言わなくても大丈夫な空気。


 朝、LINEを送って出てきた。あの人はきっとあれを見て、何も聞かずに待ってるんだろうな。そういう人なんだよね。


 早く帰りたいな、と思った。電車の中だから足は速くできない。もどかしい。


 朝にビルの合間を駆け抜けた脳内髭おじさんは、宇宙を駆ける戦闘機になっていた。ビルの間を縫って飛んでる。

 

 スピードアップアイテムがいっぱい欲しい。


◇ ◇ ◇


 アパートの前に立った。


 ファミコンカートリッジのキーホルダーを出し、鍵を開ける。


 ドアの隙間から、明かりが漏れている。中に、いる。


 鼻が、すこしだけ動いた。


 あの匂い。


 ドアノブに手をかけた。


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