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第32話 消せなかったんだよね

 隣の部屋から、何かが擦れる音がした。


 引き戸ががたんと開いた。アキラさんが布団ごとこっちに滑り込んできた。


 敷布団を敷いたまま、床の上をずりずりと引きずっている。


「よいしょ、よいしょ……」


 俺の布団の隣まで来て、位置を整えた。枕と掛け布団は引き戸の向こうから手を伸ばして回収している。手慣れていた。


「よし」


 掛け布団を広げて、枕を置いた。


「ねぇ、頭どっち向き?」


「……どっちでも」


「じゃあこっち。窓側だとカーテンの隙間から光入るかもだから」


 俺は突っ立ったまま、並んだ布団を見下ろしていた。


「……手伝おうか?」


「大丈夫! もう完成!」


 並んだ布団を見下ろして、満足そうに頷いた。


「へへ。おふとん並べた」


(……ほんとに来たなぁ)


 アキラさんが髪の毛を片手でくいっと持ち上げた。


「あ、ツインテールにしとく?」


 ——いたずらっぽい顔でこちらを見つめてくる。


「……勘弁してください」


「あっはは! だよねー」


 髪を下ろして、電気のスイッチに手を伸ばした。


「消すよー」


「はーい」


 ぱちん。


 真っ暗になった。


 布団を二枚並べると、六畳の仕事部屋がだいぶ狭かった。


 布団に入った。隣で、アキラさんも潜り込む音がした。


「修学旅行って、こういうのだよねー。消灯後にひそひそ喋るやつ」


「……まあ」


(すばる)さん、修学旅行のとき夜更かしした?」


「自分から夜更かしはしなかったけど……友達に巻き込まれて結局朝まで起きてた気がする」


「あはは! やっぱりー。昴さんそういうとこあるよね」


「……どういうとこ」


「巻き込まれるの上手いとこ」


 暗闇の中で、アキラさんが笑った。布団がかさかさと鳴った。


「私ねー、朝まで起きてた。友達と枕投げして先生に怒られて、でもまた喋って、気づいたら窓が白くなってたもん」


「……なんか目に浮かぶなぁ」


「青春の思い出ってやつ。ねえ、どこ行った? 修学旅行」


「横浜」


「へぇー、横浜。いいな。……あれ、昴さんってどこ出身?」


「……長野」


「え、知らなかった! 長野!? じゃあ修学旅行で東京とか行くタイプ?」


「まあ……首都圏ってだけで盛り上がってた」


「あはは! 私、京都。鹿にせんべい取られてさ——あ、それ奈良か」


「奈良も行ったんだ」


「だよねぇ。もう記憶ごちゃごちゃ。あ、でも生八つ橋は覚えてる。ニッキのやつ、めちゃくちゃ美味しかった」


「……わかる。あの皮の食感」


「でしょー!?」


 くすくす笑う声が、暗闇の中で近い。


「いやー、それにしても今日の配信はマジでヤバかったなー!」


「……やばかった」


「あのさ、コメント欄見てた?」


「……それどころじゃなかった」


「だよねー。『ボイチェン限界で草』とか流れてたよ」


「……やっぱり」


「『バ美肉隠すつもりすらなくなった』ってのもあった」


「……うわ」


「あとね、『痴話喧嘩にしか見えない』ってやつ」


「……え」


「がっはっは! まあそうなんだけどさー」


 布団の上で手足が動く気配がした。暗闇だから見えないけど、たぶん身振りつきで喋っている。


「それはともかく紗雪(さゆき)ちゃんさ、格ゲー配信の才能あるよ。あのブチ切れ方、視聴者はたまんないって」


「……才能って言うのかなぁ、あれ」


「言うよ。ねえ、『歴代レトロゲーナイトで一番熱い』ってコメントあったの。あれマジだと思う」


「……あれは和太郎(わたろう)さんの回しがうまかったからだと思います」


「えー、謙遜すんなよー。紗雪ちゃんがぶつかってきてくれたから面白くなったんだよ」


「……」


「ブラック紗雪、定期企画にしない? 月一で」


「それは勘弁して」


「ケチだなー。……次やるとしたら何の対戦がいい?」


「……ブラック紗雪にならない程度の」


「落ち物パズルとかどう? 積むの得意でしょ、紗雪ちゃん」


「……得意かどうかはわかんないけど」


「じゃあ決まり! 落ち物パズル回!」


「強引だなあ」


 しばらく、天井を見ていた。見えないけど。エアコンの風が頬に触れた。


「……でもさ」


「うん」


「楽しかったよね、今日」


「……うん。楽しかった」


「あの最後のさ、紗雪ちゃんの『悔しいけど楽しかった』ってやつ。あれめちゃくちゃよかった」


「……自分でも何言ってたかあんまり覚えてない」


「いひひ」


 しばらく、黙っていた。エアコンの音だけが続いている。


 暗闇に目が慣れてきていた。天井の輪郭がうっすら見える。


 カーテンの端から、街灯の光がわずかに漏れている。


 隣のアキラさんの布団の形が、ぼんやりと浮かんでいた。


 暗闇の中で、声だけを聴いていた。


「……ねえ、さっきブラック紗雪は黒歴史って言ってたじゃん」


「……うん」


「私にもあるんだよね。見せたいやつ」


 隣で、ごそごそと音がした。枕元を探っている。


「こないだスマホの写真整理してたら見つけてさ。消せなかったんだよね」


 暗闇の中に、四角い光が灯った。


 アキラさんが画面をこちらに向けた。


 鮮やかなオレンジの髪が、画面の中で燃えるみたいに跳ねていた。大きな琥珀色の目。


 レトロゲームのコントローラーを片手に、ピースサインで笑っている。


 ——焔れとろ。


「折角だから、見せとこうかなって」


 スマホの光が、アキラさんの横顔を照らしていた。


 画面の中のれとろと、光に浮かぶアキラさんの顔。


 和太郎さんの声が、耳の奥に残っている。「がっはっは」と笑う、さっきまでの、あの声。


 三つが、重なった。


 ――紗雪ちゃんが昴さんと重なって見えて。なんだろな。好きって思った。


 あの夜のアキラさんの声が、耳の奥を掠めた。


「……綺麗だな」


 口から出ていた。


「でしょー?」


 アキラさんがスマホの画面に目を落とした。


「この子、可愛いんだよねぇ」


「……うん」


 スマホの画面が消えた。


 暗闇が戻ってきた。目の奥に、さっきの光が残っている。


 れとろの笑顔と、アキラさんの横顔。耳の奥に、和太郎さんの声。重なったまま、離れなかった。


 布団が小さく擦れた。


「……おやすみ」


 アキラさんの声だった。小さくて、少しだけ掠れていた。


「……おやすみ」


 目を閉じた。


◇ ◇ ◇


 目が覚めた。


 カーテンの隙間から白い光が差している。エアコンは止まっていた。部屋の空気が少しだけ温い。


 隣の布団で、アキラさんが丸くなっている。掛け布団から肩が出ていた。枕が少しだけこちらにずれている。


 天井を見ていた。昨日と同じ天井だった。


 布団がもそっと動いた。


「んー……おはよー」


 目を半分開けて、こっちを見ている。くしゃくしゃの髪。


「……おはよう」


 アキラさんが、少しだけ目を細めた。何か言いかけて、やめた。


「コーヒー淹れるねー」


 むくりと起き上がって、スリッパを引っかけた。ぱたぱたと廊下を歩いていく音が遠ざかった。


 台所で、水を流す音がした。


 俺は布団の上に座ったまま、しばらく動けなかった。


 コーヒーの匂いが、廊下の向こうからゆっくり漂ってきた。


 立ち上がった。


 リビングのテーブルに、マグカップが二つ並んでいた。


「はい、ブラック」


「……ありがとう」


 ソファに隣り合って座った。コーヒーを一口。苦い。いつもの朝だった。


 アキラさんがスマホを開いた。コーヒーを飲みながら、昨夜の配信のお礼ポストについたリプを見ている。


「ふふ、ブラック紗雪でもちきりだよ……あ」


 指が止まった。


「昨日のゲストさんからリプ来てる。『昨日はすみませんでした! もうすっかり元気です、あとDM送りました!』だって。よかったぁ、元気になったんだ」


「……DM?」


「ん? あー……通知来てなかった。最近多いんだよねこのバグ」


 アキラさんが手早くスマホを操作している。DM一覧に切り替えたらしい。


「あ、ほんとだ。ゲストさんからのと……もう一通?」


「……」


「まぁどうせスパムかなんかでしょ」


 軽い調子で、もう一通のほうを開いた。


「えーっと……ゲーム文化展示会への出展のご相談? 最新ゲームからレトロゲームまで幅広く……へぇー」


 指がスクロールしていく。


「VTuberの方々にもご参加いただき……ふんふん……」


 指が、止まった。


「……って、え!?」


「どうしました?」


 ゆっくりと、画面をこちらに向けた。ゲーム文化展示会への参加のご相談。本文の末尾に、会社名と担当者名。


 アキラさんのコーヒーを持つ手が、止まっていた。


「……これ、うちの会社なんだけど」


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