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第26話 なんで敬語なの?

 誰かの顔が、見えた。


 大学の時の友人だった。名前が——出てこない。

 でも顔は覚えている。気まずそうに、目をそらしていた。


「あのさ」


 テーブルの上に、コーヒーがあった気がする。湯気は、もう出ていなかった。


「言いにくいんだけど」


「お前の彼女が——男と、2人で——朝、出てくるところを——」


 声が、遠かった。所々しか、聞き取れなかった。


 彼女の顔が浮かばない。声が聞こえない。最後に何を言われたか、思い出せない。


 テーブルの上のコーヒーだけが、妙にはっきり見えていた。



 がらんとした部屋だった。


 自分の荷物だけが、壁際に積まれている。


 床に、テープの跡が薄く残っている。


 窓の向こうは暗い。冬の、底冷えのする夜だった。


 星が見えていた。その間を、ほんの少しの雪が、静かに舞っていた。


 二人で住むはずだった2DKの部屋。敷金も礼金も払った。解約するのも面倒で、違約金も惜しくて。


 ここに、ひとりで住むことにした。


◇ ◇ ◇


 目が開いた。


 夢を見ていた。何の夢だったか、もう思い出せない。


 天井が、薄暗い。


 六月の朝の湿気が、肌に貼りついていた。Tシャツの背中が、少しだけ汗で重い。


 隣の部屋から、かすかに、気配がした。


 呼吸とも寝返りともつかない、小さな音。アキラさんが、まだ寝ている。


 しばらく、天井を見ていた。


 起き上がり、洗面所へ向かう。


 蛇口をひねって水を出した。両手ですくって顔を洗う。冷たさが、目の奥に届いた。


 歯ブラシが二本、コップに立っている。棚の隅にヘアゴムが三つ。


 台所へ移動して、やかんをコンロの火にかける。湯が沸くまでの間に、冷蔵庫を開けた。


 アキラさんの野菜ジュースが、二本並んでいた。隣に俺の炭酸水。その奥に、プリンが一つ。


 冷蔵庫の扉を閉める。やかんが鳴った。インスタントコーヒーを入れたマグカップにお湯を注ぐ。


 レトロゲームのロゴが入ったマグカップ。

 アキラさんが『かわいいでしょ』と置いていったやつ。俺の無地のマグカップと並んでいる。


 湯気が、ゆっくり立ち上がっている。


 (……いつから、こんなに)


 俺は、マグカップを両手で包んだまま、リビングを見回していた。


 同じ部屋のはずだった。必要最低限の荷物で住み始めた、あのがらんとした部屋と。


 マグカップの熱が、手のひらに沁みていた。


◇ ◇ ◇


「おはよー」


 アキラさんが台所に現れた。オーバーサイズのTシャツにショートパンツ、髪はぼさぼさのまま。目が半分閉じている。


「おはようございます」


「んー、コーヒーいい匂い」


 俺はアキラさんのマグカップにコーヒーを注いで、テーブルに置いた。


「あ、ありがとー」


 アキラさんがテーブルに座って、両手でマグカップを包んだ。ふーふーと息を吹きかけている。


「トースト焼きましょうか」


「んー、おねがい」


 パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。


 アキラさんがコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐いた。


「ねー、昴さんってさ」


「はい」


「なんで敬語なの? いつも」


「……和太郎さん、年上ですし」


 アキラさんが、むっとした顔になった。マグカップをテーブルに置いた。


「私は違うからね!? 和太郎と私は別でしょ!?」


「いや、でも……和太郎さんと紗雪で付き合い長かったんで。なかなか切り替わらないっていうか……」


「私、昴さんより年下だよ? 21歳78か月だからね!」


「……それ何歳ですか」


「30歳マイナス3か月の人に言われたくないんだけどー」


「……あと3か月で30ってことを突きつけないでください……」


「あっはっは! ほら、私のが下じゃん。敬語いらないじゃん」


「……とはいえ、なかなかすぐには難しいですよ」


「あ、今も敬語」


 アキラさんが、ぷぅっと頬を膨らませた。それから、ケラケラ笑った。


「まあいいけどー。バーチャルとリアルでごっちゃになるのはわかるけどさ。でも変だからねー、ほんと」


 チン、とトースターが鳴った。


「あ、焼けた」


 俺は立ち上がって、トースターからパンを取り出した。皿に二枚並べる。バターナイフを添えて、テーブルに置いた。


「ありがとー」


 アキラさんがバターを塗りながら言った。


「あ、そういえばさー。弟がね、ゲーム実況デビューに向けて動き出したんだって」


「へぇ、そうなんですか」


「うん。昨日LINE来て。『姉ちゃん、配信ってどうやんの?』って」


「……なんて答えたんですか」


「『知らんがな』って返した」


「知ってるじゃないですか」


「弟には流石に和太郎のこと教えてないしー。もちろん、その前も含めて」


 アキラさんがトーストをかじった。バターの匂いが広がる。


 窓の外が、白く、明るかった。


「洗い物やるねー」


 アキラさんが立ち上がった。


「あ、俺やりま——」


「いいからいいから」


 水の音が聞こえてきた。


 俺はテーブルに座ったまま、コーヒーを飲んでいた。


 ——なんで敬語なの?


 さっきの声が、まだ少しだけ、耳に残っていた。


 マグカップの中身がぬるくなっていた。指先に、その温度が伝わっていた。


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