第22話 タブレット越し
翌朝。
台所で、シンクの前に立っていた。
昨日のコップが、二つ伏せて並んでいる。
俺は、フィルターにコーヒーの粉を入れた。
ヤカンが、ふつふつと立ち始めている。
「——おはよー!」
廊下からアキラさんの声が、いつもより半拍だけ早く届いた。
昨夜の、信じられないものでも見るような、あの目が、ふっと、よぎった。
「……おはようございます」
Tシャツに短パン姿のアキラさんが、髪をくしゃっと束ね直しながら、台所に入ってきた。
「コーヒー、いま淹れる?」
「あ、はい。もうすぐ」
「私、トースト焼くねー」
アキラさんが、冷蔵庫からマーガリンを出した。
動きがいつもより、少しだけ滑らかだった。
「今日いい天気だねー」
昨日の顔が、嘘のようだった。
「……ですね」
マグカップを二つ並べた。
俺のと、アキラさんのと。
窓の外で、雀の声がふっと一回鳴いた。
俺は、ドリッパーにゆっくりお湯を注いでいった。
◇ ◇ ◇
翌日の夜。和太郎さんの配信日だった。
アキラさんが、ヘッドセットを片手に「そろそろー」と配信部屋へ入っていった。
俺は、リビングのソファに腰を下ろした。
タブレットを開いて、和太郎さんの配信ページにアクセスする。
……。
前回は、隣で観ていた配信。
今日は、リビングで聴く側。
配信開始の音が流れる。
『よっ、和太郎だ。今夜もよろしく頼むぜ』
画面の中で、赤毛の冒険者が走り出している。
馴染みのゲーム。
馴染みのリスナー。
ステージを一つクリアしたところで、コメント欄に、あの名前が流れた。
『パルサー:子供の頃、父親と一緒にやってました。
和太郎さんの実況聞いてると、当時の感じ思い出します』
半拍、和太郎の声が、消えた。
『——あー、いいよなぁ、それ。親子でゲームってさ』
戻ってきた声が、ほんの少しだけ、早かった。
「ですよねー」「うちは親の理解が無かったな~」
リスナーの相槌が、流れていく。
タブレットの中で、和太郎が次のステージへ進んでいた。
俺は、麦茶のコップを、置き直した。
◇ ◇ ◇
平日の昼だった。
俺は、ヘッドセットをかぶってVR空間に立っていた。
今日のワールドは、夏のビーチ。
遠くにパームツリーと、薄青い山が霞んでいる。
水面が、きらきらと光っていた。
紗雪のアバターは、水着衣装に着替えてある。
膝下まで、水に浸かっていた。
「お、紗雪ちゃーん! 可愛い水着じゃーん!」
その声で、振り返った。
ちとせさんが、いた。
水面に、大きな丸い皿が、ぷかぷかと浮かんでいた。
その上に、マグロ、サーモン、エビ、ホタテ、いかが、隙間なく盛られている。
皿の中央に、シュノーケルとダイビングマスクが刺さっていた。
皿の下から、細い足が、四本生えている。
「……ちとせさん」
「ん?」
「それ、何のアバターですか」
「シュノーケル付き刺身盛りよー。夏でしょー」
「夏、関係ありますか?」
「あるよー、海だしー」
ちとせさんの皿が、水面で、ゆらゆらと揺れている。
「最近、子供がさー、保育園で板前ごっこやってるんだってー」
「……板前ごっこ、ですか」
「卵焼き配る係らしいよー、なんか大将って呼ばれてるんだってー」
「……大将」
「気づいたらやってたんだって。私、板前なんて絶対教えてないんだけどー」
刺身の皿が、ふっと震えた。
「で、紗雪ちゃんはー、最近どう?」
「……特には、まあ」
「ふーん」
波が、ふっと足元を撫でていった。
「……あ、そうだ、ちとせさん」
「ん?」
「ちょっと聞いていいですか」
「うん、なになにー」
「……友人、うん、友人の隠し事とか、秘密とか、どう思います?」
「あー、隠し事ねぇ……私も友達どころか旦那にも言えないこと、いっぱいあるよ〜」
「……そうなんですか」
「夜中に冷蔵庫のプリン食べたりさー、毎月のVRアバター課金額とかさー」
刺身の皿が、ぐるりと一回転した。
「でも浮気はないよ、それだけはダメダメ」
俺は、コントローラーを軽く握り直した。
「あれは絶対ダメ。私もダメだし、相手にもさせないから」
「……ですね」
「で、なになに、何の話?」
「……知り合いに、なんか秘密ありそうな人がいて。どうしたらいいのかなって」
「ふーん」
皿の中央のシュノーケルが、こっちを向いた。
「誰とは聞かないけどさー」
「……」
「聞いてほしそうなら、聞いてみたら〜?」
「……」
「相手が話したそうにしてるなら、聞くのも優しさだよー」
「……そうですね」
VRの中で、波の音が、薄く流れていた。
遠くを、誰かのイルカのアバターが、跳ねていった。
「で、その相手ってさー」
「いやちとせさん、聞かないって言ったじゃないですか」
「あはは、そっかー。残念ー」
ちとせさんが、軽く笑った。
◇ ◇ ◇
休前日の夜だった。
アキラさんが「よっしゃ、いってくるぜ!」と、配信部屋へ入っていった。
俺は、ソファに座って、タブレットを開いた。
……。
配信が、始まる。
『よっ、和太郎だ。今夜もよろしくな』
しばらく、ゲームの実況が流れていた。
コメント欄に、あの名前が流れた。
『パルサー:このBGM、今聴いてもいいですね』
『だろー? これさ、サントラ持ってんだよ俺。ボロボロのカセットでさ』
「www」「カセットの時代」「いいなー」
声は、いつも通りだった。
いや。
いつも通り、よりも、少しだけ軽かった。
肩の上に乗っていた何かが、抜けたような動き方だった。
俺は、タブレットの音声から、何かが抜けたのを聴き取った。
……。
画面の中で、赤毛の冒険者が、また走り出している。
◇ ◇ ◇
配信終了の挨拶が、聞こえた。
しばらくして、配信部屋からアキラさんが出てきた。
ヘッドセットを首にかけたまま、肩を回している。
「お疲れさまー」
「お疲れさまでした」
アキラさんが、冷蔵庫を開けた。
ガラスの瓶がぶつかる軽い音。
「紗雪ちゃんは今日配信なし?」
「ええ」
「じゃ、飲もっか〜」
「はい」
◇ ◇ ◇
ローテーブルの上に、チューハイの缶が二本、並んだ。
レモンの方をアキラさんが、グレープフルーツの方を俺が取った。
軽くカチンと合わせて、一口飲む。
「いやー、休みの前の晩酌は最高だわー」
「ですね」
アキラさんが、ソファの背に頭を預けた。
「明日、何かする予定ある?」
「特には。アキラさんは?」
「私もー。じゃ、適当にだらだらするねー」
他愛のない掛け合いが、ふっと、一拍空いた。
俺は缶を、一度テーブルに置いた。
アキラさんの目を、見た。
「……アキラさん」
「ん?」
「ここのところ、気になってたんですが」
「うん?」
一拍。
「……和太郎さんの配信、パルサーってリスナーが」
アキラさんが、缶を持ち上げかけた手を、止めた。
「あー……」
缶を一口含んでから、テーブルに置いた。
「……うん。聞かれたら、答えるつもりだった」
◇ ◇ ◇
アキラさんが、ソファに座り直した。
窓の外で、夜の音が薄く流れていた。
「焔れとろ、ってVTuberが前いてね」
……。
アキラさんの指が、缶のラベルの端を爪でめくっていた。
「炎とレトロゲーハードをイメージした衣装と髪でね、元気系の女の子で」
爪先が、ほんの少し進んだ。
「そのファンネームが『れとろ民』」
(……あの、コメント。)
俺は、缶の表面の冷たさが、急に手のひらに戻ってきた気がした。
アキラさんの指が、止まった。
目がふっと、上にあがった。
「和太郎の前に、やってたの。私が」
目の前のアキラさんの顔に、和太郎以外の知らない誰かが、薄く重なった気がした。
……。
壁の時計の音が、聞こえていた。
俺は、缶を持ったまま、息を浅く吐いた。




