第20話 勘みたいなもの
平日の、夕方。
「ただいまー、繁忙期終わったー!」
扉が開いて、アキラさんが入ってきた。
ジャケットに白いシャツ、ネイビーのワイドパンツ。
両手をVの字、万歳のように上げている。
「お疲れさまです」
「やー、ほんとに、お疲れさまだったー」
「夕立、大丈夫でしたか?」
帰り道に少し降られたのか、ジャケットの肩のあたりが、薄く湿っていた。
「うん、ちょっと前にね、ザーッと。今はもうやんだ感じー」
「あー、なるほど」
アキラさんが、靴を脱いで、上がってきた。
「ちょっと、シャワー浴びて着替えてくるねー」
「あ、はい。いってらっしゃい」
アキラさんが、脱衣所の方に消えていった。
◇ ◇ ◇
シャワーの音が、薄く、聞こえてくる。
俺は、キッチンに立った。
冷蔵庫から、ひき肉と、卵と、玉ねぎ。
そぼろ丼にしようと、思っていた。
フライパンを、温める。
しばらくして、扉が開いて、アキラさんが、戻ってきた。
淡いベージュの半袖と七分丈のリラックスパンツ。髪は後ろで一つに束ね直している。
「あー、生き返ったー」
キッチンの方を、覗き込んできた。
「あれ、なんか、いい匂いー」
「あ、適当に、夕飯、作ってました」
「えーっ、ありがとー! ねえ、何々?」
「そぼろ丼、です」
「やったー、お腹ぺこぺこだったのー」
アキラさんが、テーブルに飛びついた。
二人で、食べる。
「うっま、あいかわらず!」
「ありがとうございます」
「これがいいの、これが」
アキラさんが、両手で丼を抱えるように持っていた。
食べ終わって、片付ける。
窓を開けると、部屋にぬるい風が流れ込んだ。
アスファルトの濡れた匂いが、しばらくしてから届く。
「あー、いい匂いー」
アキラさんが、ソファにぱたんと倒れ込んだ。
「夕立の後の、この匂い、好きなんだよねー」
「分かります」
「雨上がりの、アスファルトの匂い。夏だとさー、いい感じに温められて、もっと芳醇なんだよね」
「あー、確かに、夏のやつ。それにしても芳醇って」
おもわず吹き出してしまう。
「今もまあまあだけど、夏のはこう、もっと、ムワってなるのよ」
「まぁ、分かります」
冷蔵庫から缶を二本取り出して、ソファの脇のテーブルに置いた。
アキラさんが目を閉じたまま、片手だけで缶を取った。
ぷしゅ。
二人で、缶を一口。
アキラさんが、ふぅっと息を吐いた。
アキラさんが、ソファの背もたれに頭をもたれかけた。
あの朝の重さが、ふっと腹のあたりに戻ってきた気がした。
俺は、缶を一口追加した。
「あー、で、さ」
アキラさんが目を開けて、天井に視線を流した。
「ちょっと相談というか、提案があって」
「はい」
「あのね、今のさ、家賃の出し方ね」
「あー、はい」
「私の負担、安すぎでしょ? 昴さん、二重払いになるの、気使ってくれてるんだよね」
「いえ、そんな」
「ちゃんと出したいなって、思っててー」
「あー」
「あとさー、繁忙期もー、終わったし。一応、住み込みじゃなくても、また配信できるはできるんだけど」
「はい」
「機材、また向こうに持ち帰るの、めっちゃ大変じゃん?」
「あー、それは、確かに」
「で、向こうの更新時期も、ちょっと迫ってきてて」
「あ、なるほど」
「で、もし、昴さんさえよければ、なんだけどさ」
「はい」
「ちゃんと家賃も折半させてもらって、ルームシェアにさせて欲しいな……って思って」
……。
「あ、はい?」
「えーっと、メリットも、ちょっと整理してみたんだけどね」
アキラさんが、指を折り始めた。
「家賃、折半でしょ」
「家事も分担できるし」
「私の職場、ここの方が近いし、ここ防音もちゃんとしてるし。これは私だけのメリットで申し訳ないんだけどさ」
「あと、配信もさ、もう一緒にやるの当たり前になってきてるじゃない」
……俺は、何も言えなかった。
全部、その通りだった。
「で、男女のルームシェアってちょっと、世間的にどうなのかなって話もあるとは思うんだけど」
それは、そう。
「友達にね、ルームシェアやってる人いるんだよ。男女混合で。普通に大丈夫って」
「あと私、弟と一時期同居してたから、こういうの慣れてるんだよね」
——弟さんの話か。
「で——」
アキラさんが、天井からふっと視線をこちらに向けた。
「昴さんは、信頼できるから」
他の発話より、声の温度がひとつ低かった。
「……」
俺は何か言おうとして、缶を口に運んだ。
「えーっと、なんだろう。……ここまでさ、なんかいっぱい色々あったじゃない。それが信頼できるってことだと思ってる」
アキラさんが、また天井を向いて笑った。
「勘みたいなものなんだけどね」
「……」
「あ、それとね」
「はい」
「これは、大前提なんだけどさ」
アキラさんが、ふっと、こちらを見た。
「私、この生活、すごく楽しいんだよね」
「……」
「昴さんは、どう? 楽しい?」
……。
いろんな日のことが、ふっと、浮かんだ。
(確かに、楽しい)
「……楽しい、ですね」
「えへへ、よかった」
アキラさんが、嬉しそうに、缶を一口飲んだ。
「……それで、あの」
俺は、缶のフチに親指を当てた。
いつもより、するっと言葉が出た。
「ちょうど、自分も、契約の更新があって」
「えっ、ほんと?」
「はい。まだしばらくあるんですけど。ちょっと、考えてはいて」
「あー、なるほどねー」
アキラさんが、ソファに沈み込んだ姿勢のまま、缶を持ち直した。
「家賃折半になるなら、自分としても助かりますし。防音の設備、せっかく作ったので」
「うんうん」
「アキラさんが必要なら、続けてくださって、構いません」
「迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないです」
反射みたいに、出た。
「……ありがと」
声の温度が、またひとつ落ちた。
俺は、缶を一気に飲んだ。
アキラさんが、缶を持ち上げた。
「じゃ、これで決まりだ」
「はい」
俺も、缶を持ち上げた。
軽く合わせる音がした。
「乾杯ー」
「乾杯です」
アキラさんが、ぐびっと飲んだ。
俺も飲んだ。
窓の外で、車が水たまりを跳ねる音がした。
「あー、なんかね、肩の荷が下りた感じー」
「お疲れさまでした」
「もう何回目よ、それ。何回も言わせるー」
くしゃっと笑った。
俺も、ちょっと、笑った。
「あ、なくなった」
空になった缶を振って、アキラさんがソファから立ち上がる。
「もう一本、いっとく?」
「あ、いただきます」
冷蔵庫が開く音。
戻ってきたアキラさんが、缶を二本、テーブルに置いた。
ソファに、さっきより深く沈み込む。
ぷしゅ。
「あー、染みるー」
頬が、ほんのり赤くなっている。
素足を、ソファの上に引き上げて、片膝を抱えた。
「最近の配信でさー、忙しいリスナー多いんだよねー」
「あー、はい」
「終電で帰ってきたー、とか、課題終わらなーい、とか」
「分かります」
「みんな大変だよねー、社会人もー、学生もー」
アキラさんが、缶を傾けた。
ふぅっと息を吐く。
「あとさ、最近いろんな配信観ててさー」
「はい」
「アイドル系のVTuberさんの挨拶、なんかすっごい好きなんだよね」
「可愛らしいですよね」
「そう。『こんあんみつ〜、私のあんみつちゃんたち、今日もぉ〜』みたいなさ。あれ、聞くと安心するんだよねー」
「ありますね」
「ほら、ね、こういうの」
アキラさんが、急にぴんと背筋を伸ばした。
頬の脇に手を添えて、にこっと笑う。
「『は〜い、こんあきら〜☆ アキラニストのみんな、今日もぉ〜、来てくれて、ありがとぉ〜!』」
ふふっ、と笑って
「『あーっ、昴ちゃん! こんあきらありがとぉ〜』」
アキラさんが、こちらに向けて、ちっちゃいハートを作った。
目が、合った。
俺の喉が、一瞬、詰まった。
初めて聞くタイプの声だった。
「どう? 良い線いってるでしょ〜」
頬の脇から手を下ろして、缶をぐびっと飲んだ。
飲み込むのに、少し時間がかかった。
くしゃっと笑って、ソファに沈み込む。
「酔ってるなぁ、私~」
俺は、缶のフチを指で撫でた。
アキラさんが、昴ちゃん、と言った。
俺の名前なんだけど、俺じゃない、誰かを呼んでいるみたいだった。
(……)
「あー、そういえばさー」
アキラさんが、缶の縁を指で弾きながら、何かを思い出したように笑った。
「来週の配信さー、なんか面白いの探してるんだよねー」
「あー、ええと……」
頭を切り替えた。
でも、缶のフチに置いた指は、しばらく動かなかった。




