第19話 リアルな重さ
日曜の夜から、数日が経った。
アキラさんの繁忙期は最高潮で、俺もまた、忙しくなっていた。
徹夜明けの朝。
仕事部屋から出ると、アキラさんがキッチンでコーヒーを淹れていた。
淡いブルーのブラウスにグレーのスラックス。髪は後ろで一つに束ねている。
「おはよ〜。今日も徹夜だった?」
「あ、はい」
カウンターに寄りかかる。アキラさんはコーヒーポットを傾けていた。湯気がふわっと顔にかかる。
「お疲れさま。私、今日も終電だと思う。展示の準備、ヤマ場で」
開幕前は、いつもこの時期から終電だそうだ。
「あー、了解です。お互い、今日の配信はお休みですね」
「早く、ゆっくり配信してリスナーさんと喋りたいんだけどねぇ。社会人やりながらの個人勢VTuberって、辛いとこあるわー」
アキラさんが、ふっと息を吐いた。
「朝ツイは?」
「しばらく予約投稿で貯めといた〜。テンプレだけは死守してる」
「そうなりますよねぇ。予約投稿貯められるだけえらいです」
アキラさんが、ふふっと笑った。
「紗雪ちゃんも無理しないでね」
「はい。和太郎さんも無理なく」
「うんうん。——夕飯はお互い適当に済ますでいいよね」
「そうですね。——あの、落ち着いたら、また餃子、作りませんか」
「お、いいねぇ。包むの楽しかったし」
マグカップを差し出された。受け取る。
Tシャツが背中に張り付いている。窓を開けても、風は入ってこない。
「行ってきまーす」
玄関のドアが閉まる。
コーヒーを一口。まだ温かい。
◇ ◇ ◇
日付が変わる、少し前。
最後の納品が、ようやく、終わった。
画面の青白い光が、目の奥に刺さる。
二日連続の徹夜が、ようやく終わった。
机の隅にコーヒーが半分残っていて、すっかり冷めていた。
モニターの脇のコンビニのおにぎりの包装紙は、具材の名前がもう読めなくなっている。
奥には、VRヘッドセットが立てかけられたまま。黒い布にうっすら埃が乗っている。
(しばらく触れてないな)
仕事部屋の隅、敷きっぱなしの布団に倒れこむ。
◇ ◇ ◇
どれくらい経ったのか、わからない。
玄関の鍵が、遠くで回った気がする。
「ただいま」
小さな、声。
鞄を下ろす音、短い吐息、廊下を進む足音が続いた。
返事をしようとして、口が動かない。
仕事部屋の扉が、薄く開く気配がした。
「……寝てる」
囁き。
目の奥にぼんやりと光が滲む。
……気がしただけかもしれない。
扉は、閉まらなかった。
布の擦れる音。
何かが、すぐ近くの床に、沈み込む。
また瞼が落ちた。
◇ ◇ ◇
夢の中だった。
俺はVR空間の中にいた。
ツインテールの子が、膝の上に頭を預けてくる。
「お兄ちゃん〜。今日も一緒に寝よ~」
黒髪三つ編みの子が、後ろから抱きついてきた。
もうひとり、横から肩に。
「私も〜」「離れない〜」
全員が、群がってくる。
重い。
息ができない。
「お、紗雪ちゃん。俺も混ぜてくれよ」
和太郎の声。
いちばん重いのが、上から乗ってきた。
「うわっ、うわっ——」
◇ ◇ ◇
「う……?」
うっすら目を開ける。
窓のカーテン越しに、薄い青白い光が差している。
遠くで雀の声。
朝になっていた。
腹が重い。上に、何か乗っている。
恐る恐る視線を下に落とす。
黒い長い髪が顔の前にかかっている。
その下、俺の腹の上に頭を預けて、寝ている。
(——アキラさん?)
「へぁっ——!?」
反射的に、声が漏れた。
でも、アキラさんは、ぴくりともしない。
規則的な寝息が続いている。
心臓が、跳ねた。
動けない。
布団は自分のもの。でも、その上にアキラさんの頭。
Tシャツ越しに、確かな重さ。
すうすうと寝息が上がる。俺の腹がその分だけ、ゆっくり上下する。
和太郎さんでも、普段のアキラさんでもない、寝顔だった。
長い黒髪の隙間から、化粧をしていない素の顔がのぞいている。半開きの唇から漏れるすうすうという寝息に合わせて、まつ毛がかすかに震えた。
視線を、ゆっくり下に落とす。
力の抜けた片手が、俺の脇腹のあたりに伸びている。もう片方は、自分の頬の下に折りたたまれていた。
「……ぅん」
「……レトロん……みんな、ごめん……」
(……レトロゲー?)
アキラさんが寝言を漏らした。
眉間に、わずかなしわが浮く。
すん、と、俺のTシャツのあたりで、小さく鼻を鳴らす音。
頭が、わずかにずれる。腹の上で、左に少しだけ重心が動く。
脇腹に置かれていた手が——
ふいに、力を取り戻して、俺の右手の指を、ぎゅっと握りこんできた。
息を止めた。
心臓は、もう跳ねるどころじゃない。
リズムを忘れて、勝手に走り出す。
布団の中で、自分の足の指が勝手に丸まった。
でも、腹の上の重さも、握られた手の感触も、消えない。
髪の毛から、シャンプーの薄い匂いがする。
アキラさんが、自分用に買ってきたやつ。
俺のとは違う、薄い甘さが、その奥に混じっている。
窓のカーテンの向こうで、青白い光が、ほんの少しだけ濃くなる。
空が明るんでいく速度の方が、俺の鼓動より、ずっと遅い。
何分が経ったのか、わからない。
肩が、布団の上で固まっていた。
動かしたら、たぶん、起きる。
動けなかった。
ただ息だけを繰り返した。
アキラさんが、また小さく寝返りを打った。頬が、俺の腹に擦り付けられる。
(……いつから?)
思い出せない。
窓の外がゆっくり明るんでいく。
四十二時間、添い寝してくれた、画面の中の女の子たちには、こんな重さはなかった。
息をゆっくり吐いた。
腹の上のアキラさんが、その分だけゆっくり沈んだ。
◇ ◇ ◇
「……ん」
アキラさんの瞼が震えた。
半開きの目で、俺の顔と、自分の状況を、視線でたどる。
二秒。
「——ぅえ!?」
飛び起きた。
「うわっ、うわっ、ごめんごめん! ごめん昴さん、なんで私ここで——」
布団から勢いよく離れる。頬が真っ赤。
「あの、ほんとに、ごめん! 昨日、終電で帰ってきて着替えてメイク落として——それで、昴さんの様子だけ見ようと思って——」
「……はい」
「ぜんぜん覚えてない、ほんとごめん」
深く頭を下げる。
俺は何も言えない。
「あの、私、シャワー浴びてくる! ほんとごめんね!」
アキラさんが配信部屋へ駆けていった。
ぱたん、と扉が閉まる。
俺は布団の中で、目を開けたまま動けないでいた。
配信部屋の方から、シャワーの音。
◇ ◇ ◇
しばらくして、シャワーの音が止まった。
配信部屋の扉が開く。いつもの足音。でも、いつもより少しだけ、慎重。
「あの、紗雪ちゃ——」
言いかけて、止まった。
「……昴さん」
「はい」
仕事部屋の扉の前に、アキラさんが立っている。
白いブラウスに着替えて、化粧もきちんと済ませている。
頬が、うっすら赤い。
鞄の口を、開けて、閉めて、また開けている。
「今朝、ほんとに、ごめんね」
「……いえ」
目が合わない。
アキラさんの視線は、俺の手元のあたりで止まって、すぐに玄関の方へ流れていく。
「あの、今日終わればさ、ちょっと、落ち着くから」
「あ、はい」
「落ち着いたら、その、ちょっと、相談したいことが、あって」
「相談、ですか」
「うん、急ぎじゃ、ないんだけど」
「はい、いつでも」
ファスナーを、もう一度、閉める。
ようやく、視線が、こっちを向いた。
「ありがと。——それじゃ、行ってきます」
アキラさんが、ふいに、テーブルの上のカートリッジを手に取った。
いつものように、鼻先に近づけて、軽く息を吸う。
……目元が、一瞬、迷った。
カートリッジをそっと戻す。
小さく、首を振った。
いつもより、少しだけ強く、玄関のドアが閉まった。
◇ ◇ ◇
仕事部屋に、ひとり。
昨夜、納品ごと飲み残したコーヒーが、まだ机の隅で冷えていた。
代わりに、新しく淹れた。
飲む先が、なかった。
布団の凹みは、まだ俺の腹のあたりに残っている。
手を置いた。
まだ、重さが残っている。
窓の外、雨の音。
(……これ、どうしたらいいんだろう)
ゆっくり、目を閉じた。




