第17話 熟成されたファミコン
休日の昼過ぎ。
アキラさんの繁忙期はまだ続いていて、今日は珍しく休みの日。
朝、「ちょっと、あっちの家戻ってくるねー」と言って出かけていた。
俺の方は逆に、納期が重なって休日も仕事だった。
午前中の仕事を片付けて、仕事部屋を出る。
(——あー、肩が固い)
リビングの窓から、柔らかい日差しが差し込んでいた。
戻ってきていたアキラさんが、お茶を淹れて待っていた。
——が、目に入ったのはお茶じゃない。
テーブルの上に、ファミコンの本体が、どん、と鎮座していた。
その横に、カートリッジが何本か。
「これね、今住んでる方の家から、持ってきちゃった」
アキラさんが、カップを両手で包んでいる。少し得意げな顔。
「……持ってきた?」
「うん、しばらくこっちに置いておこっかなーって。匂い、嗅ぎたくてさー」
「……匂い?」
「そう。——これ、たまらないんだよねー」
ファミコンのカートリッジを手に取って、両手で持って、鼻先に近づけた。
目を閉じて、深く、吸い込む。
「……はぁ〜」
満足そうな息。
「昴さんも、嗅いでみ?」
「え?」
差し出されたカートリッジを、俺は受け取った。
ラベルの色が、すっかり日に焼けている。角のプラスチックが、どこも少しずつ欠けていた。
少し躊躇してから、鼻先に寄せる。
古いプラスチックの匂い。
ほんのり、埃。ほんのり、油。少しだけ、甘さ。
(——これが、いいのか?)
「……うーん、正直、よくわからない、かも?」
「えー、わからない?」
「匂いは、します。でも、これが『好き』までは、ちょっとわからないです」
「そっかー。昴さんはそうかもねー」
アキラさんが、カートリッジを引き取って、また鼻先に戻した。
◇ ◇ ◇
「——そういえば」
「ん?」
「この前、コラボの時に、レオさん言ってたじゃないですか。『子供の頃から体に染み込んでる』って」
「あー、言ってたねー」
「なんで、そんなに詳しいんですか? レトロゲー」
アキラさんが、鼻先から顔を上げた。
「んー」
「私さ、おじいちゃんっ子だったんだよね」
「——このファミコン、もともとおじいちゃんのやつなんだよ」
(……?)
「小さい頃、おじいちゃんの家に遊びに行くたびに、触ってたの。実家の近所でさ」
アキラさんが、ふっと遠くを見た。
「おじいちゃんの家さ、ファミコンだけじゃないよ。スーファミも、メガドラも、PCエンジンも、ネオジオもあった」
「……ネオジオまで?」
「そう。マニアだったの、おじいちゃん。『これな、昔からあるんだぞ』って、色々教えてくれた」
テーブルのカートリッジに、目を落とした。
「ずっとおじいちゃんちで使ってたやつでさ。カセット、ケース、説明書——全部、おじいちゃんの家の匂いがしてた」
「……」
「だから、ファミコンの匂いって、私の中では、おじいちゃんの家の匂いなんだよねー」
アキラさんが、カートリッジを、優しくテーブルに戻した。
「『熟成されたファミコン』って、私が勝手に言ってるだけなんだけど」
「ワインか何かですか」
「似たようなもんだよ」
少し、笑った。
(……考えたこと、なかった)
昨日の、違和感の答え。
——アキラさんが、ここまで熱量を持って昭和レトロにハマった理由。
◇ ◇ ◇
お茶のおかわりを淹れて、棚からクッキーの箱を出した。
アキラさんがクッキーをかじりながら、ぽつりと言った。
「——そんでさ」
「おじいちゃんが生きてた頃、私がレトロゲーやってるとき、横でずっとアドバイスしてくれてたんだよね」
少し、前のめりになっていた。
「私がプレイして、おじいちゃんが『ほらここ、ここで右に行くんだ』『このボスな、ここで動かなけりゃ安全だぞ』って。誰にもわからない面白さを、ずーっと、語りかけてくれた」
「……」
「で、私が和太郎でレトロゲーチャレンジやってる時——思い出すんだよねー、おじいちゃんのこと。同じこと、やってるなって」
「同じこと」
「——あとさ、最近、気づいたことがあって」
「はい」
「和太郎のデザインね。若い頃のおじいちゃんに、そっくりだったの」
「……そっくり?」
「待って、見せたげる」
アキラさんが、スマホを取り出した。
写真フォルダを遡っていく。
指がスクロールする途中、一枚だけ目に入った。
ソファで小さな子供が、赤いコントローラーを握っている。隣で白髪の男の人が、笑って手を添えていた。
「——これ」
アキラさんが、指を止めた。
古い写真だった。白黒に近い色合い。
スーツを着た若い男の人が、まっすぐ立っている。
目元。口元。少し癖のある髪。
——和太郎さんだ。
カップを持つ手が、止まった。
「キャラデザ考えてる時、するする出てきたんだよ。出来上がってから、なんか気になって、アルバム引っ張り出してさ」
「……狙ってたんですか」
「全然。ほんと、無意識」
アキラさんが、少しだけ笑った。
スマホをテーブルに置いて——もう片方の手が、カートリッジに戻った。
古いプラスチックの角を、親指で、ゆっくり撫でている。
声は軽いのに、指先だけが、離れない。
◇ ◇ ◇
しばらく、二人で、静かに飲んだ。
アキラさんが、カップを両手で包みなおした。
湯気が、ゆっくり立ちのぼる。
「——おじいちゃんと遊んでたのが楽しくてさ。レトロゲー好きになって、気づいたらVTuberやってた、みたいな感じ」
一瞬だけ、視線が湯気の奥に逃げた。
——すぐに、戻ってきた。
俺も、カップを両手で包みなおした。
「でさ、昴さん」
「はい」
「——前に紗雪ちゃん、DMで『あの一言に、救われた』って、言ってくれたじゃん」
「……あ、はい」
——高難易度のレトロゲームに、何度も挑みながら、和太郎さんが言ってくれた一言。
『まあ気楽にいこうぜ、何度やられたっていい。人生なんとかなるもんだ』
今でも、昨日のことのように思い出せる。
「あれさ、——ほんとは、ちょっと泣いたんだよ、私」
息が、詰まった。
「おじいちゃんのやってたこと、ちゃんと、届いたんだって。——そう、思えたから」
カップを、両手で、テーブルにそっと降ろす。
カートリッジに、アキラさんの指先が、もう一度だけ、触れた。
(——初めて会った、あの日。アキラさんは、そんな風に受け取ってくれていたのか)
壁の時計が、静かに時を刻む音。
アキラさんが、ふっと話題を変えた。
「——でさー」
「はい」
「紗雪ちゃんの方は、最新のVRでしょ?」
「そうですね」
「前にさ、紗雪ちゃんのアバター被らせてもらったじゃん。初めてVR触った時」
「……ああ、はい」
「あれさ、すっごく楽しかったんだよねー。今度また、紗雪ちゃんに隣で色々教えてもらいながら、改めてじっくり触ってみたいなーって」
「——全然いいですよ。今度、セットアップから教えますね。オフラインのアプリもいくつか入ってるんで、そっちは自由に使ってください」
「やったー!」
アキラさんが、片手を上げた。
「……?」
「ほら」
促されて、同じように手を上げる。
アキラさんの手が、ぱん、と打ちつけてきた。
——一瞬だったが、あったかい。
そればかりが頭に残り、自分のVRライブラリに何が入っているかなんて、完全に忘れていた。




