第14話 目に焼き付いて
『いぇーい——』
腕を突き上げて、ぴょんと跳ねる。
紗雪のアバターが、半回転しきらずに、背を向けて止まった。
——まだだ。
ヘッドセットの中で、一度、息を整える。
仕事はとっくに終わっている。
机の上の時計は、二十時を少し過ぎていた。配信まで、あと一時間弱。
スマホが、光った。和太郎さんからだ。
——【和太郎】今日は遅くなりそう。夕飯も済ませて帰るね。
——【和太郎】二十二時くらいに着くと思う~。
「お、余裕あるな」
独り言が漏れた。
今日は、紗雪のソロ配信の日。
和太郎さんが帰ってくる前に、終わらせたい。
——本番で、決める。
手首を振って、一度、力を抜いた。
冷えたお茶を一口、喉を湿らせる。
ボイチェンを通した声を、もう一度確認する。
「こんきちぃ〜」
うん、可愛い。
——紗雪が、俺に宿った。
◇ ◇ ◇
二十一時、配信開始。
『こんきちぃ〜! 夜空紗雪だよぉ〜』
紗雪の挨拶。アバターの手がフリフリと動く。
『今日は一人で、まったりやっていくよぉ〜』
コメントが流れ始めた。
『こんきちー』
『キレッキレ期待』
『最近の紗雪ちゃん可愛さ覚醒してない?』
(……やっぱり、そう思われてる)
紗雪モードの、少し深いところで、そう思った。
ここ最近、アバターの動きが、身体に馴染んできている。
ふとした時に、手が、勝手に可愛いポーズを取ろうとしている。
俺の方が、紗雪に引きずられている感覚があった。
——多分、気のせいじゃない。
『じゃあ〜、久しぶりに動いてみようかな〜』
VR空間で、軽く手を振る。
アバターの髪が、ふわりと揺れる。
『おー』『動いてる!』『相変わらずぬるぬる』
『実はね、最近、特訓してたんだよぉ』
『おお!』『何の特訓!?』『気になる!』
『ふふふ、見てのお楽しみ〜』
少し、タメる。
『じゃあ、いっちゃうよ〜、せーのっ』
心拍が、少し上がった。
——失敗したら、また恥ずかしいぞ。
両手をぐっと握って、胸の前に引き寄せる。
腰をちょっとひねって、顔を斜め上に向ける。
肘を引いて、タメて——
『いぇーいっ!』
勢いよく腕を突き上げて、ぴょんと跳ねる。
アバターがくるっと半回転した。
——決まった。
『可愛ええぇ!!』
『すげえw前はできなかったのにw』
『紗雪ちゃんかっこいい!』『かわいい!』
『でしょ〜? 特訓したんだよぉ〜』
以前、和太郎さんに教わって、できなかったやつだ。
一人で、何十回も練習した。
やっと身体が覚えた。
『他のポーズもあるよぉ。見たい?』
『見たい!』『全部見せて!』
くるりと回って、手を頬に添える「えへへ」ポーズ。
両手で顔の横にハートを作って、覗くように。
片足を上げて、軽くジャンプ。
最後に、腰を少しひねって、カメラに肩越しの流し目。
『さゆきち進化してる』
『ほんと可愛い』
『これでバ美肉ってんだから、可能性感じるなあ』
『言うな言うな』
いつものメンバーが、楽しそうに返してくれる。
——やった。
一人で何十回もやり直した。
モニターに映る紗雪を、何度も見直した。
身体が覚えるまで、繰り返した。
紗雪モードの高揚が、頂点に近かった。
◇ ◇ ◇
——あ、時間過ぎてる。
紗雪モードで喋っていると、時間の感覚が曖昧になる。
『じゃあ、そろそろ時間だね。今日はここまで〜』
配信を終えるボタンに手を伸ばす。
『さゆきち、またね〜』
『お疲れ〜』
『今日も可愛かった』
『おつきち〜、またね〜!』
アバターが手を振る。
配信終了ボタンを押した。
紗雪のアバターが、視界から消える。
俺は、ヘッドセットに手をかけた。
——そのとき、背後から声が降ってきた。
「すごいじゃん! かわいい〜!」
ヘッドセットを外しかけた手が、止まった。
ギギギ、と音がしそうな勢いで、俺は首だけ振り返った。
仕事部屋の引き戸が開いていて、リビングにアキラさんが立っていた。
——いつから、そこにいたんだろう。
ジャージ姿。髪の先が、まだ少し湿っている。
思ったより早く帰れて、シャワーまで済ませたらしい。
目を輝かせて、腕を組んで、にこにこしていた。
「み、て、たんです、か」
声が、震えた。
「見てた見てた! ちょっと早く帰ってこられてさ。ポーズも様になっていいじゃん!」
——ッ。
頬が、一瞬で熱くなった。
「声もいい感じ。まさに紗雪ちゃん! って感じ。あ、あと」
アキラさんが、思い出したように、付け加えた。
「生声だとオネエっぽくなるんだね?」
俺は、力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
床に、ずるずると、両手が滑り落ちた。
(……大丈夫、まだ致命傷だ)
「ちょっと紗雪ちゃーん、そんな恥ずかしがらないでって〜」
アキラさんが、笑いながら部屋に入ってきた。
「ずっと練習してたんだね」
「……はい」
顔が、上げられない。
「……ちょっと、アーカイブ出してもらっていい?」
俺は、のろのろとPCの前に戻って、配信アーカイブを開いた。
アキラさんが、マウスを奪って、再生バーを動かす。
ガッツポーズの場面で、止まった。
「ここ。ここが特にさ——あれが、こんなに仕上がるんだ、って」
画面の中で、紗雪が跳ねて、くるっと半回転している。
俺は、口を、開いた。
「……この間、お手本で見せてもらったポーズと」
「うん」
「アキラさんが紗雪でVRに入った時の、あの時の動き」
「……え?」
「凄く、可愛くて。目に焼き付いてて——それを、目指しました」
しばらく、アキラさんの声がしなかった。
横目で見ると、アキラさんが口元のあたりを指の背で軽く押さえて、画面に目線を逃していた。
「……そっか」
声が、少しこもっていた。
一度、小さく咳払いをして——
「リスナーも楽しんでたしさ。私も、見てて楽しかったよ」
「……どっちを、ですか?」
「勿論配信!」
少しだけ、早口だった。
俺は、小さく頷いた。
恥ずかしさと、何か別のものが、胸の奥でせめぎ合っていた。
「じゃ、落ち着いたら、リビング来て。晩酌しよ」
アキラさんが、先に部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
リビングに移動して、冷蔵庫から缶チューハイを二本取り出した。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜」
ソファに並んで座る。
アキラさんが、缶を掲げた。俺も、小さく掲げて返した。
かつん、と、金属の音が鳴った。
一口、飲む。
レモンの香りと、舌を刺す細かい炭酸。
「ふぃ〜、生き返る〜」
アキラさんが、ソファに深く身体を預けた。
いつものアキラさんだった。
「今日のリスナー、みんな優しかったねぇ」
「……はい」
「いい常連、育ってきた感じするよ」
「……そうですね」
しばらく、二人で、缶だけ傾けた。
壁の時計が、静かに時を刻んでいた。
今日は、これで十分だった。




