第13話 二つの乾杯
仕事が終わった。
昼の会議も、午後のメールも、気がつけば片付いていた。
机の上の時計は、二十時を指していた。
俺は和太郎さんの配信卓の前に立ち、PCのセッティングを済ませる。
和太郎さんが帰ってきたら、すぐに配信に入れるようにしておいた。
机の上のメモに、今日の段取りが書いてあった。
——二十一時半合流。
スマホで時刻を確認する。二十時二十七分。
俺は自分の仕事部屋に戻った。
ヘッドセットを手に取る。コントローラーを手首のストラップで固定する。
VRゴーグルを被った瞬間、俺は夜空紗雪になった。
◇ ◇ ◇
二十一時、配信開始。
『こんきちぃ〜! 夜空紗雪だよぉ〜』
紗雪の挨拶。アバターの手がフリフリと動く。
「こんばんは」と、いつの間にかリスナーが呼び始めたニックネーム
「さゆきち」が合わさって「こんきちー」。
誰が最初に言い出したかは、もう誰にも分からない。
気がつけば定着していた挨拶だった。
『今日は和太郎さんとのコラボ回だよ〜。でも、和太郎さん、お仕事で少し遅れちゃうから、先に紗雪一人でVRワールド巡り始めるよ~』
コメントが流れ始めた。
『こんきちー』
『最近さゆきち可愛くない?』
『今日キレッキレ』
『さゆきちが楽しそうで俺も楽しい』
流れるコメントを、紗雪が目で追った。
(……最近、紗雪でいるのが、楽しい)
まずは昭和レトロのワールドに降り立った。
狭い路地。古い商店街。軒先に吊り下げられた赤い提灯。夕焼け色の光。
駄菓子屋のガラス戸の向こうに、ラムネの瓶が並んでいるのが見えた。
『わあ〜、すごい再現度! 紗雪、こういうの好きなんだぁ』
駄菓子屋のガラス戸を覗いた。
ラムネ、ハッカ飴、ゼリービーンズ。
瓶のラベルが、どれも少しだけ色褪せていた。
『これ、見覚えあるなぁ。子供のころ、こういうの、見たかも』
『わかる』
『駄菓子屋ってまだあるよね』
『紗雪ちゃん、昭和生まれ?』
『ふふ、世代がバレちゃう〜』
三輪車の横に立って、少しかがんだ。
『これ、乗ってみたい』
『乗れるかもw』『VRだから制限なしw』『紗雪ちゃんそれは画になりすぎるw』
紗雪は笑って、三輪車にまたがるポーズを取った。
もちろん、アバターが大きすぎてサドルに座れなかった。
『無理だったぁー!』
両手をぱっと上げて、バンザイした。
アバターの髪が、ふわりと跳ねる。
コメント欄が「www」で溢れた。
『和太郎さんがね、昭和レトロとか詳しいからさ、一緒に歩きたかったんだぁ』
『紗雪ちゃん優しい』
『和太郎さんに見せたかったのね』
『良い娘さんや』
『娘ってwww』
アバター越しに、俺も夕焼けを浴びていた気がした。
ここ数日、和太郎さんの配信を隣の部屋から聞いていた。
画面越しに見るのとは、違う密度で聞こえた。
リスナーを楽しませたい、という芯が、もっとはっきり見えた。
——魂ごと和太郎になるの。
初めて会った日、喫茶店で和太郎さんが言っていた。
俺も、そうなってみ——
視界の隅に、通知が光った。
——【和太郎】あと5分でつく!
紗雪の手が、一瞬、止まった。
『あっ、えっと……』
言葉が、続かなかった。
『紗雪ちゃん?』『どうした?』『急にどうしたw』
『な、なんでもない、なんでもない〜。えーっと、和太郎さん、もうすぐ合流できるって!』
『おお!』『和太郎さんきた!』『待機』
紗雪の口調が、さっきまでと違った。
俺は、自分の声に、紗雪の皮をもう一度被せようとした。
被せきれなかった。
◇ ◇ ◇
時計の針が、二十一時半に近づいた。
視界の隅に、通知が光った。
——【和太郎】着いたー
肩に、ぽんと手が触れた。
その数十秒後、通話ソフトの向こうから、ボイチェン越しの和太郎さんの声が届いた。
『よっ、紗雪ちゃん、遅れてすまん!』
触れた温度と、届いた声が、ネットワークの遅延でズレていた。
——生身が先、アバターが後。
俺は、それを噛みしめた。
『わ、和太郎さん、おかえり〜』
紗雪の口調を、なんとか戻す。
壁の向こうにいる本人の気配は、消えなかった。
『待ってたよー和太郎さん』『おかえりー』『合流きたー』
『そしたらさ、早速ワールド回ろうぜ。紗雪ちゃん、案内してくれよ』
『え〜、プレッシャー〜』
『大丈夫大丈夫、適当でいいからさ。俺の配信モットー、適当が一番』
『もう和太郎さんテキトー〜』
◇ ◇ ◇
和太郎の2Dアバターが、配信画面に現れた。
VRの3Dと、2Dは、同じ世界には入れない。
配信ソフト上で、無理やり重ねているだけだ。
マウスのポインタが和太郎を掴んで、すすすと動かす。ホイールで大きさも変わる。
「いかにも操作している」のがそのまま画面に映る。
没入感としてはちょっと残念な絵。
でもリスナーはそれごと、「同じ場所にいる」感覚として楽しんでくれる。
俺は指示に従って動く、ただの被写体。
『紗雪ちゃん、そこの駄菓子屋の前で止まってくれや』
指示通り、駄菓子屋の前に立つ。
『もうちょい左。……うん、そこで、ピース』
得意げにピースした。可愛くなるよう、手の方向に首をかしげる。
『俺はここで……』
和太郎が、紗雪の隣にすっと寄った。
『よし、せーの!』
シャッター音。
『画になるぅw』『てぇてぇ』『父娘っぽいw』
ここでの撮影はOK。次のワールドへ飛んだ。
派手な照明。ターンテーブル。七〇年代の歌番組セット。
『紗雪ちゃん、センターでマイク持ってくれ』
マイクを握るポーズを取る。
『ちょっと身を反らす感じで。そう、もっと……あ、もうちょっと前傾。そうそう』
和太郎さんの声に従って、身体を動かす。歌っているような姿勢って、こうかな?
『俺はこっちで、サムズアップな』
和太郎のアバターが、ステージ端で親指を立てた。
『マイクに口寄せる感じで。うん、いいじゃねえか』
『はい〜』
『いいねぇ! じゃあ、せーの!』
シャッター音。
『紗雪ちゃん言いなりw』『和太郎さんの構図センスいい』『これアーティストの新譜ジャケ』
ちょっとだけ得意げに、ポーズを保った。
——和太郎が、画面の向こうで構図を決めている。
それに合わせて、紗雪がポーズを取る。
入り込んでる、と思った。
けれど、心地よかった。
『じゃあラスト、あのスナックな』
狭いカウンター。低い天井のランプ。昭和柄の壁紙。赤いスツールが二つ。
『紗雪ちゃん、カウンター座ってくれ』
スツールに腰掛けて、カウンターに肘を置く。
『俺はここで……』
和太郎が、紗雪の隣のスツールに現れた。
『おっ、結構近いな』
和太郎の声に、笑いが混じっていた。
壁越しの生声が、かすかに笑っていた。
『グラス持って、紗雪ちゃん』
用意されていたグラスを手に取る。
和太郎さんは、2Dグラスのアイコンを手の位置に重ねる。
『じゃあ、せーの! 乾杯!』
シャッター音。
コメント欄が、洪水になった。
『事案www』
『娘を飲み屋街連れ回すパパじゃんw』
『スナックで何してるんですかw』
『てぇてぇてぇてぇ』
『いや幼女連れ回し案件だろww』
『警察呼んでw』
和太郎が、カウンターの向こうで大笑いした。
『おいおいおい、事案ってなんだ事案って。バーチャルに事案はねぇだろ』
『そーそー、同意の上だから〜』
紗雪も、グラスを掲げて、声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
配信終了ボタンを押した。
紗雪のアバターが、視界から消えた。
俺はコントローラーを置いた。
ヘッドセットを、ゆっくり外した。
耳に張り付いていた音が、遠ざかる。
頬に、素の空気が触れた。
部屋の空気が、急に、重くなった気がした。
机の前に、両手をついた。
(……やりきった)
隣の配信室から、慌ただしい足音が近づいてきた。
仕事部屋の引き戸が、勢いよく開かれた。
「紗雪ちゃーん、お疲れー!」
アキラさんが、目を輝かせて立っていた。
和太郎じゃない、素の声。
「めっちゃ楽しかったー!」
「楽しかった……!」
気づけば、口から出ていた。
アキラさんが、にんまりと笑った。
「お疲れさまでしたー! 一杯やろっか」
俺も後を追って、リビングへ向かった。
アキラさんが、冷蔵庫を開けた。
取り出したのは、缶チューハイが二つ。
「写真見ながら」
「お、いいですね」
ソファに並んで、PCの画面を開いた。
スクショがいくつも、並んでいた。
駄菓子屋の前。歌番組のステージ。そして、スナックのカウンター。
最後のスナックの写真で、俺の視線が止まった。
並んで座っている紗雪と和太郎。
暖色のランプの下、乾杯のグラス。
画の中に、紗雪も和太郎さんもいた。
——中の人は、壁一枚向こうにいて、同じ家にいる。
「昴さん、コレ、あとで送るね」
「はい……和太……昭さん」
アキラさんは、スクショをゆっくり並べ直していた。
その手つきが、配信中の構図指示と、同じテンポだった。
アキラさんが、チューハイの缶を掲げた。
「お疲れ、乾杯!」
俺も、缶を掲げた。
配信のスナックとは、違う乾杯だった。




