束の間の安らぎ
その日、ラルフ達はバルトから多くのことを教わっていた。
今回使われた薬のこと。
獣人に対して有効な毒と、人間に効く毒の違い。
匂いを辿る獣人への対策。
耳や尾の動きから感情を読むこと。
そして、獣人相手の戦い方。
広い訓練場で、実際に動きを見せながら説明するバルトの声は低く、無駄がなかった。
ラルフもオスカーも真剣に話を聞いている。
クラウスは一言も聞き漏らすまいと、静かに目を細めていた。
夕方になり、訓練が終わる頃。
バルトは剣を収めると、リリアへ視線を向けた。
「リリア」
「はい」
「今夜、家に来るか」
その言葉に、リリアは目を瞬かせた。
そしてすぐに、控えめに頷く。
「……はい」
静かな返事だったが、その表情には隠しきれない喜びが滲んでいた。
そんな娘の様子を見て、バルトの薄紫の瞳がわずかに和らぐ。
それから今度はラルフ達へ視線を向けた。
「お前達も、たまには酒でもどうだ」
ラルフが眉を上げる。
バルトは淡々と続けた。
「男三人で、少しくつろげ。部屋に持っていかせる」
オスカーが小さく笑う。
「お気遣いありがとうございます」
クラウスも軽く一礼した。
その横で、バルトはガルムをひょいと抱き上げる。
「お前はうちに来い」
「え」
ガルムは一瞬驚いたあと、すぐに耳をぴんと立てた。
「……いいの?」
「ああ」
短い返事だったが、拒む余地はなかった。
ガルムは嬉しそうにバルトの腕の中で姿勢を正した。
その姿を見て、リリアの頬も少しだけ緩む。
やがてそれぞれが部屋へ戻り、夕方、シャワーを浴びて一息ついた頃。
ラルフ達の部屋には、酒とつまみが運び込まれていた。
卓の上にはルーヴェル王国の酒瓶が十何本と、香ばしい肉の燻製、木の実、薄く焼いた塩気の強い菓子が並んでいる。
オスカーがグラスを手に取り、軽く眺めた。
「ずいぶんしっかりしたものを用意してくれましたね」
クラウスは酒瓶を見ながら、小さく呟く。
「これ、飲んで大丈夫だろうか」
その言葉に、ラルフが苦笑混じりにグラスへ酒を注いだ。
「さすがに、リリアの父親からもらった酒に薬は入ってないだろう」
冗談交じりだった。
オスカーが肩を揺らすように笑う。
「それもそうですね」
三人で飲むのは、意外にもこれが初めてだった。
騎士団や王宮で顔を合わせることは多い。
共に戦うことも、命を預け合うこともある。
だがこうして、ただ酒を飲むためだけに同じ部屋で過ごすのは初めてだった。
最初は訓練の話をしていた。
獣人の動きは速いだの、薬の扱いにはもっと注意が必要だの、バルトの教えは理にかなっていたなど。
話題は自然と今回の一件へ流れていく。
リリアのこと。
両国のこと。
これから起こりうる問題。
だが酒が進むにつれ、空気は少しずつやわらかくなっていった。
数時間が経った頃には、クラウスの頬はわずかに赤くなっていた。
もともと強い方ではないのだろう。
グラスを置いたあと、クラウスはふらりと立ち上がる。
「……もう休む」
「ああ」
ラルフが短く言う。
クラウスはふらつく足取りでベッドへ向かった。
靴を脱ぐのもそこそこに、そのまま横になる。
ラルフはほとんど酔っていなかった。
もともと酒に強いのだ。
表情も口調も普段と大きく変わらない。
だがオスカーは違った。
最初のうちは上機嫌だった。
珍しい酒だとか、たまにはこういうのも悪くないだとか、軽口も多かった。
だがある時を境に、急に静かになった。
先ほどまで笑っていたのに、今はグラスを手の中で軽く回しているだけだ。
ラルフはその様子を横目で見た。
「オスカー」
「はい?」
返事はいつも通りだったが、どこか抜けた響きだった。
「お前も、もう寝ろ」
ラルフがそう言うと、オスカーは少しだけ視線を上げた。
そして、ぽつりと聞いた。
「あの日」
ラルフが眉を寄せる。
「あの日、俺が拒否しなかったら……抱いたんですか」
一瞬だけ、部屋が静まった。
ラルフは目を見開いた。
さすがに予想していなかった問いだったのだろう。
けれど次の瞬間には、すぐにいつもの冷静さを取り戻す。
「どうしたと思う?」
質問で返され、オスカーは少し黙った。
考えてから、ぽつりと本音をこぼした。
「俺は女が好きなんです」
ラルフは黙って聞いている。
「団長のことは尊敬してます。……でも、抱かれるのは嫌だ」
それがオスカーの率直な気持ちだった。
酔っているからこそ、妙に正直だった。
ラルフはそれを聞いて、わずかに口元を緩める。
「心配するな。男に手を出す趣味はない」
その言葉に、オスカーは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
ラルフは知っていた。
昔から、オスカーは酒が進むと少しだけ厄介になる。
普段は隙のない男なのに、酔うと妙に甘えたがる癖がある。
本人はあまり覚えていないか、覚えていても知らないふりをしているのだろう。
ラルフは小さく息を吐き、ソファーから立ち上がった。
「もう寝ろ。俺は――」
その時だった。
背後から、服の裾をきゅっと引かれる。
振り返ると、オスカーが潤んだ目で見上げていた。
酔いのせいで、普段よりずっと無防備な顔をしている。
「……行かないでください」
掠れた声だった。
ラルフはまたか、と呆れたように眉を寄せる。
だが拒めば、このあとさらに面倒になることを知っている。
下手に引き離せば拗ねるし、酔いが深い時は本気で泣く。
昔からそうだった。
「……仕方ないな」
ため息交じりに言って、再び腰を下ろそうとした、その瞬間―― 今度はグイッ、と強めに引かれた。
体勢を崩したラルフは、そのまま広いソファーへ倒れ込む。
獣人用の造りらしく、幅のあるソファーは男二人でも寝れる広さがあった。
倒れた拍子に、オスカーが待っていたように身を寄せてくる。
そのまま、するりとラルフの腕の中へ収まった。
「お前な……」
呆れた声を落としながらも、ラルフは押しのけなかった。
酔いの回った副団長は、すっかり機嫌よく擦り寄ってきている。
「俺に求めるな」
低く言えば、オスカーは少しだけ口元を緩める。
「嫌です」
即答だった。
ラルフは深く息を吐く。
オスカーは考えるより先に答えるように、素直に言った。
「頭、撫でて……」
「さっき男は嫌だって言ってなかったか」
「今はいいんです」
勝手な言い分だった。
けれどラルフは何も返さず、無言のままオスカーの髪に手を入れた。
さらりと梳くように撫でる。
ゆっくり、甘やかすような手つきだった。
しばらくして、オスカーの唇がわずかに動いた。
「……キスして」
ラルフは眉を寄せる。
「断る」
「少しだけ」
「だめだ」
「ケチ」
「酔っ払いに言われたくない」
そう返されても、オスカーは諦めない。
むしろ甘えるようにラルフの胸元へ手を置き、もう一度見上げる。
「したいです……」
ラルフは呆れたように息を吐いた。
「酔ってるからって、好き勝手するな」
叱る声だった。
けれど腕を解きはしない。
むしろ毛布を引き寄せ、オスカーの肩まで丁寧に掛ける。
そのまま背中を一定の調子で軽く叩いた。
「早く寝ろ」
低い声は優しかった。
オスカーはしばらく黙っていた。
けれどやがて、安心しきったようにラルフの胸元へ頬を寄せる。
「……ラルフ」
「なんだ」
「優しい」
「酔っ払い相手だからだ」
掠れた声は、もう眠気に沈みかけていた。
ラルフは返事の代わりに、髪を一度だけ撫でる。
それで十分だったらしい。
オスカーの指から力が抜け、呼吸がゆっくり深くなっていく。
やがて穏やかな寝息が落ち始めた。
ラルフはその寝顔を見下ろし、小さくため息をつく。
「……まったく」
そう呟きながらも、腕を外すことはしなかった。
ラルフはその体勢のまま静かにぼんやり遠くを眺めた。
考えることは山ほどあった。
リリアは獣人と人間のハーフだ。
その事実を、純潔を重んじる王族が簡単に受け入れるとは思えない。
反発は大きいだろう。
ルーヴェル王国で使われていた薬の問題もある。
このまま一国の内部事情では終わらない可能性も高い。
リリアと両親のこともそうだ。
バルトとの再会が、彼女を救うものになるのは間違いない。
だが同時に、今まで埋められなかった時間まで消えるわけではない。
整理しなければならないことは多い。
決めなければならないことも多い。
けれど、ラルフはゆっくり息を吐いた。
今はもう、考えるのをやめようと思った。
ほんの少しだけでも、この穏やかな時間を大事にしたかった。
隣ではオスカーが眠っている。
向こうのベッドではクラウスも眠っている。
騒がしさも緊張もない、束の間の静けさだった。
ラルフは目を閉じる。
今だけは、何もかもを脇へ置くことにした。




