薄紫の証
黒狼に抱きしめられた瞬間、リリアの中で何かが崩れた。
胸の奥にずっと張っていたものが、音もなくほどけていく。
苦しいのか、嬉しいのか、自分でも分からない。
ただ、涙だけが止まらなかった。
黒狼―― バルトの腕の中は、驚くほど静かで、温かかった。
大きな手が、壊れ物に触れるみたいにそっと背を撫でる。
その優しさが、かえって涙を誘う。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
リリアは震える指で、バルトの服をきゅっと掴んだ。
するとバルトは、ほんのわずかに腕に力を込めた。
「泣いていい」
低い声だった。
けれどそこにあったのは、威圧でも命令でもなく、ただ包み込むような響きだった。
「今まで、よく生きていてくれた」
その一言に、リリアの肩が大きく震えた。
子どもの頃から、痛いのも苦しいのも当たり前だった。
耐えることしか知らなかった。
大丈夫だと、自分に言い聞かせるしかなかった。
けれど今、その全部を見透かすように言われてしまって、もう堪えられなかった。
「……っ、ぅ……」
ぽろぽろと涙が零れ続ける。
「お姉ちゃん……」
小さな呟きに、オスカーはガルムへ視線を向けた。
そして自分の唇にそっと指を当てる。
静かに、と穏やかに示すその仕草に、ガルムは小さく耳を伏せた。
ラルフは黙ったまま、二人を見ていた。
驚きはある。
だが、それ以上に胸に落ちてきたのは妙な納得だった。
ガルムの魔力を受け止め、共鳴し、薄紫の瞳を宿した理由。
リリアの中に流れていた血の答えが、ようやく形になったのだ。
ラルフは小さく息を吐いた。
「……そういうことだったのか」
誰に向けたというでもない、低い独り言だった。
オスカーも静かに頷く。
「これで全部繋がりましたね」
一方で、クラウスは何も言わなかった。
ただ静かに、バルトに抱きしめられて泣くリリアを見ていた。
胸の奥が、鈍く揺れる。
それは驚きではない。
真実はあの日すでに聞いてもう知っていた。
リリアと自分は、父が違うのだと。
しかし名前までは聞いていなかった。
けれど、頭で知っていることと、こうして目の前で見ることは全く違った。
リリアを抱きしめる男は、確かに父の顔をしていた。
薄紫の瞳に宿るのは、戸惑いよりも深い愛情と、失われた時間への悔いだ。
その姿を見て、クラウスはようやく理解する。
ああ、本当にこの人なのだと。
そして同時に、どうしようもなく思った。
……よかった、と。
リリアの中に流れているのが、あの男の血ではなかったこと。
あの家の冷たさだけで、この子が出来ているわけではなかったこと。
その事実に、救われる自分がいた。
けれど、胸の奥には別の痛みも残る。
自分は兄でしかいられなかった。
ずっと近くにいたのに、与えられなかったものがある。
埋められなかったものがある。
そのことを、父親の腕の中で泣くリリアを見て、思い知らされる。
クラウスは目を伏せ、そっと息を吐いた。
ラルフがそんなクラウスを横目で見たが、何も言わなかった。
今は、誰も余計な言葉を挟む空気ではなかった。
しばらくして、バルトがゆっくりとリリアの背を撫でながら口を開いた。
「すまなかった」
リリアの肩がぴくりと揺れる。
「知らなかったでは済まされん。何も知らず、何も出来なかった」
低く、掠れた声だった。
その言葉に、リリアは涙で濡れた顔のまま小さく首を振った。
「ちが…います……」
声がうまく出ない。
それでも懸命に言葉を繋ぐ。
「お父様は……何も、知らなかったんです……だから……」
バルトの瞳が揺れた。
薄紫の瞳が、泣き腫らした娘を見つめる。
その目は、自分が知る誰より優しかった。
「お父様、って呼んでくれるんだな」
あまりにも静かなその問いに、リリアははっとしたように目を瞬かせた。
自分でも無意識だった。
けれど、一度口にしてしまったその呼び名は、不思議なくらい胸に馴染んでいた。
リリアは頬を赤くしながら、こくりと小さく頷く。
するとバルトは目を閉じ、わずかに眉を寄せた。
何かを堪えるように。
「……参ったな」
低く零した声に、オスカーがわずかに眉を上げる。
黒狼がこんな顔をするのかと、少し意外そうだった。
バルトは一度呼吸を整えると、そっとリリアの頬に流れた涙を親指で拭った。
それから、ゆっくりと周囲へ視線を向ける。
「取り乱したな」
その一言で、少しだけ場の空気が戻る。
だが先ほどまでの黒狼とは違う。
どこか人間らしい温度があった。
その変化に、ガルムが顔を上げる。
「さっきまでと違う……」
バルトは一瞬黙り込み、ラルフは目を細めた。
オスカーは微笑ましそうに眺め、クラウスもほんの少しだけ口元を緩める。
そんな空気の中、バルトは改めてリリアを見た。
そして静かに言う。
「確かめたいことがある」
リリアは涙を拭いながら、小さく頷いた。
バルトはガルムへ視線を向けた。
「ガルム。少しだけ、リリアに魔力を流してみろ」
「はい」
ガルムは素直に返事をすると、リリアのそばへ寄った。
小さな手が、そっとリリアの手に重なる。
ふわりと空気が揺れた。
リリアの体がぴくりと震える。
そしてその瞳が、じわりと薄紫へ変わっていった。
ラルフが目を細める。
オスカーも静かに息を呑んだ。
やはり、と思う反面、実際に目にすると重みが違う。
バルトはその様子をじっと見つめてから、今度は自分がリリアの手を取った。
大きな手が、細い指を包み込む。
そのまま、静かに魔力を流す。
部屋の空気がまた揺れた。
だが――何も起きない。
あの熱も、拒絶も、反動もなかった。
リリアは驚いたように目を見開く。
「……あれ」
オスカーが眉をひそめた。
「反動がない?」
バルトは頷く。
「家族だからだ」
低く、はっきりした声だった。
「本来、獣人の魔力は異質だ。他種族に無理に流せば、身体が拒むこともある」
リリアの手を包んだまま、続ける。
「だが血が近ければ違う。反発ではなく、馴染む」
ガルムはその様子をじっと見ていた。
そして小さく呟く。
「やっぱり、家族なんだ」
「ああ」
バルトは短く答えた。
その声は、どこか誇らしげですらあった。
皆もようやく腑に落ちたように表情を変える。
ラルフは改めてバルトとリリアを見比べた。
並んでみると、確かに似ている気がする。
黒髪だけではない。
目元や、ふとした表情のかげりが不思議と重なって見えた。
オスカーも同じことを思ったのか、小さく笑う。
「言われてみれば、似ていますね」
クラウスは黙ったまま二人を見た。
……似ている。
その事実を、少し離れたところから静かに受け止める。
胸の奥に小さな寂しさがよぎったが、不思議と嫌ではなかった。
ようやく、あるべき形に収まったような気がしたからだ。
バルトはふっと息を吐いた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな」
薄紫の瞳が、まっすぐリリアを見る。
「私の名は、バルト・ワーグナーだ」
その声は先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
リリアは涙の跡が残る顔のまま、姿勢を正す。
「私は、リリア・ローゼンです」
きちんと名乗り返すと、バルトは一瞬だけ目を細めた。
その姓に思うところがないわけではないのだろう。
だが何も言わず、代わりにリリアの腰へそっと手を回した。
「え?」
次の瞬間、ふわりと体が浮く。
「わ……っ」
まるで小さな子どもを抱き上げるみたいに、軽々と持ち上げられていた。
リリアは一気に顔を赤くする。
「お、お父様……!」
「軽いな」
「そ、そういう問題じゃ……」
皆が見ている。
ラルフも、オスカーも、クラウスも、ガルムも。
その事実に気づいた瞬間、恥ずかしさが一気に押し寄せた。
けれどバルトは気にした様子もなく、むしろ満足そうだった。
その背後で、大きな尻尾が左右に揺れている。
ガルムがそれを見上げる。
「機嫌がいい時の動きだ」
バルトは一瞬だけ視線を向けたが、否定はしなかった。
その様子に、部屋の空気がふっと和らぐ。
リリアも恥ずかしそうにしながら、少しだけ肩の力を抜いた。
するとバルトは、抱き上げたまま静かに尋ねた。
「リリア」
「は、はい」
「何か願い事はないか」
突然の問いに、リリアは目をぱちぱちと瞬かせた。
願い事。
そう言われても、すぐには浮かばない。
少し考えて、そしておずおずと口を開く。
「あの……」
「なんだ」
リリアはちらりとバルトの頭を見た。
そこにある狼の耳が、ぴくりと小さく動く。
前から少し気になっていた。
というより、ものすごく気になっていた。
でも勝手に触ってはいけないものだと言われた。
だからこそ、こんな時でもなければ言えないと思った。
リリアはほんのり頬を染めながら、小さな声で言った。
「お父様の耳に……触ってみたいです」
一瞬、部屋が静まり返った。
オスカーはほんのわずかに口元を緩めた。
まさかそんな願いが出てくるとは思わなかったのだろう。
ラルフは呆れたように目を細めたが、その眼差しはどこか穏やかだった。
クラウスは静かにリリアを見つめる。
泣いていたはずの妹が、そんなことを口にできるくらいには力を抜けたのだと分かって、胸の奥が少しだけほどけた。
バルトは、ぽかんとしたあと、ふっと笑い、優しく微笑んだ。
「そんなことか」
そして嬉しそうに頭をリリアの方へ傾ける。
「いくらでもいいぞ」
「……いいんですか」
「ああ」
リリアは恐る恐る手を伸ばした。
指先が、ふわりと耳に触れる。
ぴくり、と小さく動いた。
「……っ」
思わず息を呑む。
毛質はガルムより少し硬めだった。
けれどちゃんと柔らかくて、ふわっとしていて、思っていたよりずっと温かい。
何より、黒狼としての威厳に満ちた姿はどこにもなくて、今はただ大きな狼に触れているみたいだった。
リリアが夢中でそっと撫でると、バルトはされるがまま目を細めている。
ガルムはその様子を見て、静かに瞬きをした。
「さっきまでと、雰囲気が違うね」
張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。
ラルフはわずかに口元を緩め、 オスカーも小さく笑みを零した。
クラウスは何も言わず、微笑ましそうにその光景を見つめていた。
バルトは眉を寄せる。
だが怒るでもなく、耳に触れられたままの姿は、威厳ある黒狼というより娘に甘い父親に見えた。
リリアは涙の跡が残る顔だったけれど、その笑みは今までになくやわらかかった。
その顔を見て、ラルフは胸の奥で静かに思う。
……よかった、と。
本当に。
ようやくこの少女が、当たり前に甘えられる相手を得たのだと。
クラウスもまた、笑うリリアを見つめていた。
胸の奥にはまだ言葉にならない感情が残っている。
けれど今は、それでよかった。
父に抱き上げられ、耳に触れて、泣いて、笑う。
そんな当たり前のことを、リリアは何一つ知らずに生きてきたのだから。
だったらせめて今だけは、何も挟まずに見守ろうと思った。
バルトの薄紫の瞳が、そっとリリアに向けられる。
その眼差しは、もう迷いのない父親のものだった。




