紫の指輪
黒狼の執務室は静かだった。
重厚な机と書棚。
窓の外には、ルーヴェル王国の城下が見えている。
部屋に通されたラルフ達は、黒狼の向かいに腰を下ろした。
リリアはまだ少し顔色が悪い。
だが意識ははっきりしていた。
ガルムはリリアの隣に座り、心配そうに何度も顔を見上げている。
オスカーとクラウスはラルフ達の後ろに立った。
黒狼はそんな全員を見回し、ゆっくりと口を開いた。
「まず結論から言う」
低く落ち着いた声だった。
「団長の傷は完治している」
「副団長の体内に残っていた魔力も、今はほぼ消えている」
オスカーの眉がわずかに動いた。
「ほぼ、ですか」
黒狼は頷く。
「ああ。完全に消えたとはまだ断言できん」
部屋が静かになる。
ラルフが口を開いた。
「どういうことだ」
黒狼は膝の上で指を組んだ。
「彼女が発した光―― あれは治癒だけではない」
視線がリリアへ向く。
「周囲にある乱れた魔力を引き寄せ、整え、流す力だ」
リリアは目を見開いた。
「私が……」
「無意識だろうがな」
黒狼は淡々と言った。
「傷を塞いだだけではない。副団長の中で暴れていた魔力まで外へ流した」
オスカーは胸の奥に手を当てる。
あの不快な熱は、たしかにもうなかった。
黒狼は静かに目を細めた。
「普通なら、ああはならん」
クラウスが問う。
「普通ではない、ということですか」
「そうだ」
黒狼は迷いなく答えた。
「共鳴は誰にでも出来るものではない」
そしてリリアを見る。
「君は強い感情をきっかけに、他者の生命力や魔力に触れた」
リリアの手が小さく震えた。
脳裏に浮かぶのは、血に濡れたラルフの姿だった。
息が止まるかと思った、あの瞬間。
「……助けたかったんです。ただ、それだけで……」
かすれた声で言う。
黒狼は小さく頷いた。
「それで十分だ」
短い言葉だった。
リリアは膝の上で、そっとドレスを握りしめた。
自分でも何をしたのか、はっきりとは分からない。
ただ、あの時は――
目の前でラルフを失うかもしれないと思った瞬間、何も考えられなくなった。
黒狼は、何気なくリリアの手に視線を落とした。
だが次の瞬間、その目がわずかに見開かれる。
黒狼の視線が止まる。
リリアの指にある指輪だった。
紫色の石。
そこに刻まれた紋章。
黒狼の表情が凍りつく。
「……その指輪」
低い声だった。
部屋の空気が変わる。
リリアは戸惑ったように黒狼を見た。
「えっ」
黒狼は目を離せないまま、ゆっくりと問うた。
「それは、どうしたんだ」
リリアは一瞬不思議そうな顔をしたが、素直に答えた。
「母にもらいました」
黒狼の瞳が揺れる。
「……母?」
「はい」
リリアは小さく頷いた。
「この国に来る前に、初めて……本当のことを話してくれて」
ラルフ達も静かに成り行きを見守っていた。
黒狼の様子が明らかにおかしい。
あの落ち着いた男が、今はまるで別人のように固まっていた。
やがて黒狼は、少し掠れた声で聞いた。
「……君の母上の名は」
「イデル・ローゼンです」
黒狼は息を呑んだ。
信じられないものを見るように、リリアを見つめる。
「……イデル」
小さく、震えるような声だった。
リリアは戸惑いながら、指輪をそっと外した。
「これです」
掌に乗せて、黒狼へ差し出した。
黒狼はその指輪を見つめたまま動かなかった。
長い年月を越えて、失ったはずのものが目の前に現れたようだった。
「……これは」
低く零れた声は、今までの黒狼からは想像もできないほど弱かった。
部屋にいた全員が、状況を飲み込めずにいた。
ラルフが僅かに眉をひそめる。
クラウスも黙ったまま黒狼を見ている。
オスカーでさえ、言葉を失っていた。
黒狼はゆっくり立ち上がった。
机を回り込み、リリアの前まで歩いてくる。
その一歩一歩が、どこか信じられないものに近づくように慎重だった。
リリアは思わず息を呑む。
黒狼はその場にしゃがみ込んだ。
そして―― 震える手で、そっとリリアの頬に触れた。
その仕草はあまりにも静かで、壊れ物に触れるようだった。
黒狼の金の瞳が、まっすぐリリアを見つめる。
「……私の娘なのか」
リリアの目が大きく見開かれた。
「……え」
一瞬、意味が分からなかった。
部屋の空気が止まる。
ガルムが目を丸くして黒狼とリリアを交互に見る。
クラウスの表情が固まる。
ラルフもまた、言葉を失っていた。
黒狼は目を逸らさなかった。
「この指輪は、私がイデルに渡したものだ」
低い声だった。
だが、その奥に抑えきれない感情が滲んでいた。
「君の黒髪も……共鳴も……」
そこで言葉が止まる。
黒狼は何かを堪えるように目を閉じ、再びリリアを見た。
「ずっと、知らなかった」
その言葉に、リリアの喉が詰まった。
母から聞かされた話。
黒髪の理由。
父は黒狼の獣人だったこと。
すべてが頭の中で繋がっていく。
「……お父、様……?」
震える声だった。
黒狼の瞳が揺れた。
黒狼は立ち上がると、そっとリリアを抱きしめた。
強くではない。
失った時間を確かめるように、静かに、けれど二度と離さないように。
リリアの肩が震える。
何が起きているのか、まだ心が追いつかない。
それでも、その腕の中は不思議と温かかった。
黒狼は低く、掠れた声で言った。
「会えてよかった」
その一言で、リリアの目から涙が溢れた。




