母の秘密
朝の騎士団本部。
団長執務室には、いつもとは違う空気が流れていた。
机の上には地図や書類が広げられている。
武器の点検。
荷物の確認。
潜入の準備に追われていた。
ラルフは机の前で地図を見ていた。
オスカーは壁際で装備を確認している。
ガルムは静かに椅子に座り、周囲を見ていた。
そしてリリアは、窓の近くで手袋を整えている。
明日から隣国への潜入が始まる。
緊張していないと言えば嘘になる。
その時だった。
コンコン。
執務室の扉が叩かれる。
「入れ」
ラルフが短く言う。
扉が開いた。
入ってきたのはクラウスだった。
だが――
その後ろに、もう一人いた。
リリアの視線がそちらへ向いた瞬間。
目が大きく見開かれる。
「……お母様……」
言葉がこぼれた。
リリアは固まった。
そこに立っていたのは、リリアの母だった。
静かな表情で、部屋の中を見渡している。
母は一歩進み、丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
視線をラルフへ向ける。
「団長ラルフ様ですね」
そしてオスカーにも視線を移す。
「副団長オスカー様」
静かな礼だった。
ラルフは少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻す。
「どうぞ、お座りください」
ソファーを示した。
母は小さく頷き、ソファーへ腰を下ろす。
オスカーは何も言わず、お茶の準備を始めた。
湯気の立つカップが机に並ぶ。
リリアはまだ動けないでいた。
クラウスが静かに言った。
「座れ」
リリアは小さく頷く。
母の向かいに座った。
部屋には重い沈黙が流れる。
ラルフは空気を察した。
「外すか」
立ち上がろうとする。
オスカーも動いた。
ガルムも椅子から降りようとした。
その時だった。
「待ってください」
母の声だった。
三人が振り向く。
「一緒に聞いていただけますか」
静かな声。
だが迷いはなかった。
ラルフは一瞬考え、頷いた。
「では」
そう言ってリリアの隣に座る。
オスカーとガルムはリリアの後ろに立った。
守るように。
母はその光景を見て、小さく息を吐いた。
そしてリリアを見た。
「リリア……」
その言葉に、リリアの心臓が大きく跳ねた。
母に名前を呼ばれたのは―― 初めてだった。
「あなた、獣騎士の統率長になったんですってね」
クラウスの方を見る。
「クラウスに聞いたのよ」
リリアは小さく答える。
「……はい」
母は少し目を伏せた。
そして言った。
「これは……私が誰にも話していないことなの」
部屋の空気が静まる。
「あなたのお父様の話よ」
リリアは驚いて顔を上げた。
母はゆっくりと話し始めた。
「ローゼン男爵とは政略結婚だったの。
だからクラウスたちを産んだ後も、夫婦仲は冷えきっていたわ」
クラウスは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
母は続けた。
「そんな時だったわ」
遠くを見るような目になる。
「週に一度、屋敷に出入りしていた商人の男性がいたの。
彼に……惹かれるようになった」
リリアの胸がざわつく。
母の声は、少しだけ震えていた。
「彼はとても優しかった。私の唯一……愛した人」
沈黙。
母は一瞬、ガルムを見た。
「彼は……黒狼の獣人だったのよ」
その場にいた全員が息をのんだ。
ラルフの目が細くなる。
オスカーも驚いている。
ガルムは静かに母を見ていた。
「だからリリアの黒髪は……彼の遺伝なの」
リリアの胸が強く揺れる。
今まで知らなかった真実。
「今まで言えなくて……ごめんなさい」
母の目から涙がこぼれた。
そして机の上に、小さな指輪を置いた。
「これは彼からもらった唯一の物なの」
リリアは指輪を見る。
紫色の石。
小さな紋章が彫られている。
「今のあなたには……いつか役に立つはずよ」
リリアは戸惑う。
「でも……」
母は静かに首を横に振った。
「あなたに持っていてほしいの」
母は涙を拭いた。
「今までの行いが許されるとは思わないわ。
でもあなたの助けになれば……嬉しい」
リリアの目から涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
指輪を手に取る。
「身体には気をつけるのよ」
「はい。お母様」
リリアには初めての母の気遣いだった。
母は静かに立ち上がった。
クラウスが隣に立つ。
二人は一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に沈黙が流れる。
ラルフが口を開いた。
「そういうことだったんだな」
オスカーが小さく頷く。
「だからローゼン卿だけが、ガルムの力を受け取れたんですね」
リリアは静かに指輪を見つめた。
そして左手の中指にはめる。
剣を握るのに邪魔にならない位置。
紫の石が静かに光った。
リリアは小さく息を吸う。
胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が広がっていた。
自分の中に流れている血。
その意味を、初めて知ったのだった。




