幸せの裏側
庭園の空気には、まだ爆煙の匂いが残っていた。
先ほどまで死と隣り合わせだったとは思えないほど、空は青く澄み、柔らかな陽光が降り注いでいる。
その穏やかさがかえって現実感を失わせていた。
「……許可しよう」
王の言葉は確かに響いた。
婚約破棄。
そして ―― 後見人の申し出。
すべてが一瞬で決まった。
あまりにも突然で。
あまりにも現実離れしていて。
リリアは理解が追いつかなかった。
自分が何を聞いたのか。
何が決まったのか。
ただ ―― アンナの背中を見ていた。
まっすぐに伸びた、美しい背筋。
迷いのない歩み。
(……どうして……)
胸の奥で疑問が渦巻く。
なぜ。
どうして。
どうして、自分のために ――。
やがて王は周囲の貴族たちへ向き直り、深く頭を下げた。
「本日は、祝宴の場でこのような危険に晒したこと、王として深く詫びる」
重い声だった。
「本日の式典は、これにて終了とする。各々、安全を確認した上で帰路についてほしい」
貴族たちは動揺を残したまま、それでも王の言葉に従い始めた。
ざわめきが少しずつ遠ざかっていく。
リリアはその場に立ったまま動けなかった。
終わったのだと、頭では理解しているのに。
身体がついてこなかった。
その時 ――
ふわりと肩に温もりが乗せられた。
驚いて顔を上げるとラルフだった。
自分の上着を脱ぎ、リリアの肩にかけていた。
血に汚れたドレスを隠すように。
守るように。
「……団長……」
かすれた声で呼ぶ。
ラルフは静かに微笑んだ。
その笑みは戦場で見せる団長のものではなかった。
一人の男の顔だった。
リリアの胸が強く締めつけられる。
リリアも微笑み返した。
うまく笑えているか分からなかったけれど。
それでも笑顔でいたかった。
その時。
「リリア様」
澄んだ声が二人の間に入った。
アンナだった。
彼女は優雅に歩み寄り、リリアの前に立つ。
その視線は優しく、けれどどこか厳しかった。
「今はまず身体を休めてください」
静かに言う。
そして次に ―― ラルフを見た。
「ラルフ様」
にこりと微笑む。
だがその目は笑っていなかった。
「リリア様の回復の邪魔だけは、なさらないでくださいね」
意地悪な響きを含んだ声だった。
ラルフがわずかに眉をひそめる。
アンナは満足そうに微笑むと、優雅に一礼した。
「それでは」
そう言ってクラウスの隣へ並ぶ。
クラウスは一度だけリリアを見た。
何も言わなかったが、その目には確かな安堵があった。
二人はそのまま庭園を後にした。
「団長」
オスカーの声が現実へ引き戻す。
「宰相の拘束、完了しました」
副団長の顔だった。
ラルフは頷いた。
「地下牢へ」
短く命じる。
「はっ」
すべてが終わった。
ラルフはリリアを見た。
「歩けるか」
リリアは頷こうとしたが足の力が抜け、身体が倒れそうになった。
ラルフの腕が急いでリリアの身体を支えた。
そして抱き上げる。
「……っ」
リリアの息が止まる。
「団長……」
ラルフは何も言わず、そのまま歩き出した。
私室へ向かう廊下。
二人の間に言葉はなかった。
ただ規則正しい足音だけが響いていた。
リリアは彼の胸に顔を預けた。
懐かしい匂い。
安心する温もり。
なのに ―― 胸の奥が痛んだ。
私室へ到着すると、ラルフはリリアをゆっくりと下ろした。
「まずは着替えだな」
穏やかな声だった。
「シャワー浴びてきます」
リリアは浴室へ向かった。
血を洗い流す。
赤く染まった水が足元を流れていく。
鏡に映る自分はひどく疲れて見えた。
柔らかなナイトドレスに着替え、部屋へ戻る。
ラルフは暖炉の前に座っていた。
振り返り、リリアを見つけると優しく微笑む。
「こっちにおいで」
その声に導かれ近づいた。
隣に座ろうとした瞬間 ―― 腕を引かれた。
「……っ」
気づけばラルフの足の間に座らされていた。
背中が彼の胸に触れる。
腕が回り抱きしめられる。
「どこか痛いところは」
低い声が耳元で響く。
「違和感ないか」
「……大丈夫です」
小さく答える。
「そうか……」
沈黙が落ちた。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
ラルフの腕に力がこもった。
「……ごめんな」
リリアの呼吸が止まる。
「お前を……傷つけて」
その声は少し震えていた。
リリアは小さく首を横に振った。
傷つけられたなんて思っていない。
むしろ ―― 今この腕の中にいられることが、何より幸せだった。
(……なのに……)
胸の奥に消えないものがあった。
オスカー。
あの夜。
拒まなかった自分。
寂しさに逃げた自分。
(……どうして……)
情けなかった。
以前のように、ただまっすぐに、この人だけを想う自分ではもういられない気がした。
ラルフの腕の中で幸せを感じながら、同時に罪悪感に締めつけられていた。
ラルフはそんなリリアの顔を覗き込んだ。
おかしい。
もっと喜んでくれると思っていた。
取り戻せたことを。
だがリリアの表情は暗かった。
どこか ―― 遠い。
胸の奥に言葉にできない違和感が広がった。
「……リリア?」
静かに呼ぶとリリアは顔を上げ微笑んだ。
だがその笑顔はどこか無理をしているように見えた。




